廃墟を建て直すために

今日はペンテコステの日です。五旬節になります。私の教会では今日ペンテコステ礼拝があるので、ひとつだけ、みことばを入れさせていただきました。ご一緒にお読みしましょうか。

『あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。』(Ⅰコリント6:19)

私たちはイエス・キリストを信じ受け入れた者として、このような者の中に、聖霊さまが住まわってくださる。私たちは聖霊の宮になったということを、今日また確認したい、もう一度受け止めたいと思います。
私たちには力がありません。私たちには足りないものばかりです。でも私たちの弱さの中に神さまは大いに働いてくださる方です。私たちのものではなく、聖霊さまご自身が私たちを通して働いてくださる。ここに私たちの希望があります。

もう一箇所お読みしましょう。

『神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』(Ⅱテモテ1:7)

私たちを宮として住んでくださる聖霊さま、この方は、『力と愛と慎みとの霊です。』と、いろんな助け主だとか、真理のみたまとか、いろんなことがありますが、今日はこの所、『力と愛と慎みとの霊です。』というみことばを開きました。
力、これはギリシャ語だとDynamis、ダイナマイトの原語ですね。つまり爆発的な力を私たちを通して現してくださる。不可能を可能にしてくださる。そのような力を私たちの内に働かせてくださる。これが聖霊さまのご性質です。
でもアガペ、単なる大いなるわざをすれば良いということではなくて、その動機が愛にあるということです。愛によって、愛に根ざして、爆発的な力を現してくださる。変化をもたらしてくださる。これが聖霊さまのご性質です。
そして最後に慎みの霊である。sophronismosという言葉ですが、私たちに決して栄光が帰らないように、神さまだけにすべての栄光が帰るように、私たちがいつも慎みを持って、へりくだって謙遜に、神さまの前を歩むことができるようにしてくださる、これが聖霊さまのもう一つのご性質です。
私たちの内に、このような方が共におられるのですから、主が私たちに今しなさいと語っておられることを、信仰をもって、聖霊さまの助けをいただいて、一歩前に進み出て行きたいと思います。

『あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。』(マタイ5:13)

このように書かれています。今回このようなリーフレットを作らせていただきました。日本維新の会という会から公認予定となったことについて、何故ですか?と聞かれることがよくあります。その理由を一言で言えば、牧師の立場を隠さず出ていくこと、牧師として行動することを認めてもらったから、という理由になります。やり取りをする中で、私自身、いろんな政党に公募を出して、みこころのところに開かれるようにと願い祈っていましたが、最初に連絡が来たのが維新の会で、話をした時に合うところ合わないところ、どの政党でもありますが、私としては牧師としての行動を変えたり、隠すこと曲げることは絶対にできないので「牧師として公認してもらえますか」とお願いして、一ヶ月ぐらい検討された結果、牧師として出て良いと言われたので、今回、このような形で挑戦させていただくこととなりました。
私の話を聞いて、「そんなこといっても政党の意見に巻き込まれるんじゃないですか。流されるんじゃないですか。」そのように言われた方がおられました。ここに「地の塩」という言葉があります。このみことばの前段階があります。それは「塩がもし塩壺から出なければ何の働きをする必要があるでしょうか。」ということです。塩が塩壺の中にあれば、周りも塩です。私も塩です。聖いです。何にも違和感もないし居心地もいい。でも塩が周りの塩に塩気を付ける必要はないのです。塩が塩気を表すのは、塩壺から出て、腐りそうなところ、放っておいたらダメになるところ、この社会の破れに出て行って初めて、あなたは塩としての役割を果たすのです。そのように問われているのではないでしょうか。
塩が塩壺から出て行って、社会との関わりを持つことを、このみことばは前提としているのです。そして、塩壺から出て社会との関わりを持つ中で、塩は塩気を失ってはいけないよ、みことばから離れてはいけないよ、と教えてくださっています。

このリーフレットの表紙、「牧師として」と書いてあります。これも気に入っていますが、もっと気に入っているのは中面です。みことばを明確に出して、リーフレットを作らせていただきました。ある方から「ここにみことばを入れると、クリスチャン以外の人の支持が開かれないから避けた方がいいのではないか?」というアドバイスも頂戴しました。悩みました。ただ、相談してみようとなって、維新の会の方、またデザイナーと相談したときに、原稿を渡したら、向こうからこう言われました。「牧師の骨はみことばですよね。聖書のことばが骨ですよね。だったら骨抜きにしてはいけない。骨を通して、筋を通して、旗印を明確にすべきです。」と、ノンクリスチャンの方から言われてしまいました。そこまで言っていただいたら喜んでそうします!ということで、今回はみことばをしっかり入れて、「私はこの聖書のことばを信じる者として、この聖書のことばの実現を通して、社会を、この地域を、祝福したいのです。地域に仕えたいのです。」ということを、堂々と隠すことなく、皆さんに訴えていきたい。そのように思っています。
塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのか。まさに私たちが社会に出て行って、「来なさい。ここに置きなさい。それに関わりなさい。」と言われた所で、みことばに立って行動していくことを今私たちは求められていると思います。

『あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。』(マタイ5:14)

とあります。私たちクリスチャンは、私は特にそうなのですが、目立つのは嫌いです。メッセージはしますけれども、できればコツコツと人の見えていない所で主の働きをすることが好きです。なのに、今回こんなことに主が促されたのは本意ではないと言ったら神さまに申し訳ないですけれども、あまり得意ではありません。でも今回、これが必要だと思うのは、この後半の所にある言葉です。

『そうすれば、家にいる人々全部を照らします。』(マタイ5:15)

ということばです。私たちが隠された宝を明らかにして社会に出て行って、地の塩として行動し、そして世の光として人々の前に見える所で、目立つ所で立つことは、今まで福音を聞いたことのない人たちに福音が届く、家にいる人々全部を照らす、このみことばが実現するからです。
私たちはこの終わりの時代に、一人でも多くの方々に福音を届けていきたい。今まで聞いたことのない、届いたことのない人たちに福音を届けていく。そのような者となりたいと思います。
私自身もみこころで扉が開かれたら、遣わされた所で主に仕えて、福音を伝えていきたい。国会議員伝道ってやりたいですね。周りの人たちにいっぱい福音を伝えていく。「国会議事堂に悩み相談所を作ったらどうですか?」とある人から言われましたけれども、「そうしたら、夜にニコデモみたいに、こっそりとやってくる国会議員がいるんじゃないですか。」そんなアドバイスをしてくださった方もいますが、遣わされたところで主のみこころをどんどんやっていったらいい。私たちはそれぞれに与えられた持ち場で主に仕え、そして破れ口を塞ぐ、廃墟を立て直す。そのような働きを、私たちそれぞれが主から聞いた使命をいただいて、実行していく者とならせていただきたいと思います。
一言お祈りさせていただきます。

愛する素晴らしい天のお父さま。み名をほめたたえ、心から感謝いたします。今日このようにして敬愛する滝元先生の教会で、初めてみことばを開かせていただいた、この大きな恵みを感謝いたします。またこのように信仰を共にする、敬愛する兄妹姉妹と共に、今日の礼拝を持つことができることを感謝いたします。
主よ、どうぞ、あなたご自身が、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださいますように。私たちのうちに、主よ、愛と力と慎みの霊を与えてくださる方が、この喜びを持って、私たちの中にワクワクするような使命やビジョンを与えてくださり、私たちを地の塩、世の光として、社会の中でなくてはならない存在として輝かせてくださり、用いてください。小さな働きとして蔑むことなく、私たちが行うその働きは必ず城壁となって、必ず破れ口を繕う者となって、この日本の社会に良いインパクトを与えていくものであることを信じます。
どうぞ主よ、私たち一人ひとりを聖霊さまで満たし、そして整え、遣わしてくださいますように。一歩立ちあがる私たちと、主の声に聞いて立ち上がる私たちとならしてくださいますよう、お願いいたします。感謝してイエスさまのみ名を通して、お祈りいたします。アーメン。