イエスさまは、「わたしはよみがえりです。命です。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また生きていて、わたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。この事を信じますか?」と、おっしゃいましたけれど、ここで「死んでも生きる」とイエスさまがおっしゃったのは、肉体が死んでも、その人は消えてしまうのではない。そして後の復活を経て、永遠の国、天国に生きるという事が約束されているのであります。
そしてこのみことばの鍵となるのが、「わたしを信じる者は」と言われた言葉です。イエスさまを信じる者には、死は恐ろしいものでも困難をきたす得体の知れないものでもなくなるということです。

聖書が私たちに示している死に対する理解は、ただ一つです。すなわち死は死ではない。永遠のいのちの入り口である。憂いに満ちたこの世とか、罪に満ちた世界から、神さまの光に満ちた正義と公正の国で永遠に生きるということです。
そしてイエスさまは、「この事を信じますか?」と問いかけています。死は誰もが通ります。私もそうです。人は死に抗うことはできません。また自分の死の時を自分で決めることもできません。若くて生きる力が旺盛であっても、明日の我が身は誰も分からないわけです。
多くの人は、今を楽しく生きるために、死について考えることを避けて先送りにしてしまいます。しかし、今を精一杯、悔いなく生きるためにも、いつ訪れるか分からない死の問題に対して、あなたの答え、ゆるぎない信念を持つことは重要ではないでしょうか。

話は少し変わるのですが、以前、一つの本を読んで、そこには日本人の持つ天国のイメージについて書かれていました。日本人にとって天国というと、一般的に、「極楽」のことを言います。
「極楽」とは何かと言うと、鎌倉時代にできた「法然の説いた浄土宗」と「親鸞の説いた浄土真宗」を主体とする、いわゆる「念仏仏教」から出ています。それ以外の日本の仏教諸宗派には、もともと極楽という観念がありません。
浄土仏教の根幹と言える「極楽」ですが、その元となっているのが、「無量寿経」「阿弥陀経」などの教えです。これらは釈迦が説いたという形で書かれていますが、実は釈迦の時代から五百年も後の時代、紀元一世紀頃に編纂されたと考えられていますので、少なくとも一部は釈迦自身の言葉ではないようです。また、この経典の作者はわかっていません。そして、その内容は、現実と言うよりもおとぎばなしです。
無量寿経には阿弥陀如来の誕生と極楽浄土の完成について書かれています。簡単にまとめるとこんな感じです。

『久遠無量の昔、五十三の仏が世に出た最後に、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏が出ました。ある時、ひとりの王さまがこの仏の説法を聞き、これまで富や権力ある位に就きながら味わうことができなかった、広大な世界があることを知りました。彼は王位を捨て、娑婆世界を越えた仏の道へ入り修行者となった。これが阿弥陀如来の前身である「法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)」です。この法蔵菩薩が五劫(ごこう)という長い間思案を巡らせた後、立てた願いを四十八にまとめ、「これらの願いを叶えるために私は仏になる」と、全ての生きとし生けるものの前に述べた。これが有名な「四十八願(しじゅうはちがん)」です。法蔵菩薩は、この四十八の願いを成就するために兆載永劫(ちょうさいようごう)、すなわち言葉では言えないほど長い期間の修行をし、ついに四十八願は完成され、極楽浄土ができあがり、彼は成仏して阿弥陀如来となった。極楽浄土ができて、法蔵菩薩が阿弥陀如来になったのは、今から十劫の昔だといわれています。』

この物語を聞いて私がまず感じるのは、物語を設定する時間軸が現実的ではありません。「久遠」という単位は漢語で「永遠」を意味する言葉で、そこに世自在王仏が誕生した。そして阿弥陀如来になるため修行を重ねたという法蔵菩薩は、元々どこかの国の王様であった。その彼が、世自在王仏から説法を聞いて、法蔵菩薩として修業の道に入ったということです。
では、この王様とは誰なのか?世自在王仏から話を聞いたと言われているけれど人間なのか?そうならば何時の時代の人なのか?ということであります。

また時間の単位として、「劫(こう)」という単位が出てきましたが、「劫」というのは、仏教など、インド哲学の用語で、極めて長い宇宙的な時間の単位を表す単位だそうです。一劫がどのくらいの単位かと言うと、約四十三億年だと言います。
つまり、阿弥陀如来が仏になったのは、今から四百三十億年前ということです。私たちが生きている宇宙の年齢は百三十八億年だと言われていますので、この宇宙ができるよりもずっと前に、阿弥陀如来は仏として現れた。それ以前は宝蔵菩薩として宇宙の成り立ちよりもずっと長い時間をかけて修行を重ねていたのだというのです。これがどのようにして私たちに本当に起きた出来事、事実だと理解できるのでしょうか。

また、浄土仏教の極楽は通過地点であり仏教の最終目的地は、「悟り」です。極楽は苦しみのない美しい場所だとされていますが、あくまで「悟り」に至るための前段階、仮の場所だというのです。極楽に入ることがかなっても、そこは通過点なので「悟り」を得るまで修行を続けなければなりません。
「悟り」とは、釈迦が到達した仏教の最も重要な教理であり、「一切が空しくて何もない無であることを知る」ということにあります。「諸行無常」と言われるように、世界は全て実態のない空しいものであるということを「知る」ことが「悟る」ということであり、仏教の最終目的です。聖書の言う天国と極楽との違いは、そう考えると大きなものだなぁと感じます。

ヘブル人への手紙二章十四節・十五節、

『そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。』

先週の礼拝メッセージでは、このみことばより、滝元順牧師から、イエスさまの十字架の死について、聖書のことばにより、これまでとは少し違った視点から語られていました。イエスさまのよみがえりの力は、イエスさまが死なれた瞬間から始まって、よみがえりの勝利をもたらすものだ。そして私たちは、イエスさまのよみがえりとともに、その「死」を「喜びの訪れ」として世界に宣べ伝える者であると話されていました。「イエスさまの死」は私たちに「命を与える武器」なのだと。
イエスさまはこの地上に私たちと同じ体を持って、人として生まれました。そして人として十字架の上でその身を裂かれて、血を流されて、そして肉体の死を通られました。その死によって悪魔を滅ぼされ、そして私たちに新しい永遠のいのちをもたらされたと書いてあります。
イエスさまの死によって私たちが永遠に生きる場所が備えられたということです。それはイエスさまを信じた瞬間に私たちに実現する。これが聖書が提示しているたましいの救いになります。

話はまた変わるのですが、日本で最初のホスピスを建てたという、大阪の淀川キリスト教病院理事長の「柏木哲夫」という方がいます。

この方は八三歳で石橋キリスト教会会員、また大阪大学名誉教授、愛知県で言うと、金城学院大学の元学院長です。
この方が二〇〇五年に中日新聞に記事を投稿しています。二〇〇五年十二月二十五日に投稿したので、クリスマスについて書いたのですが、タイトルが『「たましい」が祝うクリスマス』です。その中から少し抜粋してご紹介したいと思います。

“イエスは人の子として生まれましたが、同時に処女マリアから神の子として生まれました。そして私たちの罪のあがないのために十字架上で死に、三日目によみがえりました。この三つのこと、すなわち、処女降誕、あがないの死、復活を信じているのがクリスチャンです。
世界のクリスチャン人口は二〇一八年の統計で約二十三億と言われています(この統計は私が新しいものに書き換えました)。世界人口の三割になります。イスラム教、仏教にもそれぞれ神、仏があります。世界中のほとんどの人は何らかの信仰を持っていると言っても過言ではないでしょう。
宗教は人間社会にのみ存在します。動物には宗教はありません。人間を人間たらしめているのが宗教であるとも言えます。特定の宗教を持っていない人でも、自分の力ではどうしようもない状況になった時には、思わず祈るのではないでしょうか。しかし、動物は祈ることをしません。
宗教以外で、人間にのみ存在するのが自殺です。動物は自殺しません。もう一つ人間に特有のものがあります。音楽です。動物社会には音楽が存在しません。宗教、自殺、音楽の三つは人間に特有のものです。
この三つのものはそれぞれ何の関係もないように思われるかもしれませんが、実は三つに共通のことがあるのです。三つとも「たましい」に関係するという共通点があるのです。
<中略>
聖書の人間観をみてみましょう。創世記二章七節に「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」とあります。いのちの息とはとりもなおさず、「霊」のことです。すなわち、神は人間を創造する時、霊的存在として創造されたのです。言い換えると、「たましい」を持つものとしての創造です。
<中略>
「たましい」が悟るのが宗教、「たましい」が病むのが自殺、「たましい」に響くのが音楽なのです。
イエスを神の子と信じるのは、「たましい」で信じるのです。神の存在を信じることができるのは、人間にたましいがあるからです。聖書に出てくる「いのち」という言葉は「生きる意味」という内容を持っていると思います。その点からすると、宗教は生きる意味を教え、自殺は生きる意味を失い、音楽は生きる意味を感じさせる、“と言っていいと思います。”

人にはたましいがある、そして宗教・自殺・音楽はそれぞれたましいに関係のあるものだと書いてありました。たましいは、神さまを感じて神さまを信じるためにあり、「たましい」は永遠だと聖書には記されているわけです。「人には不滅のたましいがある」という価値観は「人は死んだら全て消えてしまう」と片付けるよりも、私にとってしっくりくる価値観です。私の心は「たましいがあって、たましいは不滅」が正解だと感じます。死によって跡形もなくなってしまうような人生は虚しいです。もう何をやっても死んで終わりと言うのではやる意味がないです。しかし、たましいが永遠ならば、いのちには意味があるわけです。そして、生きる上でイエスさまを信じて、永遠に続くいのちという希望が持てることほど勇気を与えられるものは、他にないのではないかと思います。
お金をいっぱい儲けるとか、美味しいものをたくさん食べるとか、またこの世の楽しさを追い求めるより、ずっとずっと大切なことなのではないかと思います。これが私たちが聖書から与えられている、生きることと死ぬということの価値観、これが私たちの信仰であるわけです。
イエスさまがその死によって、悪魔の持つ死の力を滅ぼされたとあるように、私たちも死の力から解放されて、そして、先週順先生が語っておられたように、イエスさまの死を勝利として、世界に対して宣言していく。そのような者として、私たちお互いに励まし合いながら、イエスさまに信仰を持って歩んでいけたら本当に素晴らしいと思います。そのことを信じて歩んでいきたいと思います。

最後に一言お祈りをして終わりにします。

愛する天のお父さま、心から感謝します。私たちのたましいは永遠を思い、そして永遠を生きるものであることを覚えます。この一度しかない命を無意味なもの、また無駄にすることなく、神さまにあって有意義なもの、またあなたが与えてくださるみこころに沿って歩む者として、私たちがこの人生を用いることができるように、あなたを信じて生きることができるように導いてください。
主よ、今日ここにおられますお一人お一人が、みことばを心に留め、あなたと共に歩む者となることができますように導いてください。そして主よ、あなたの死とよみがえりを、この世に示していくものとなりますように。
新しいいのちを私たちに与えてくださっていることを心から信じ受け入れて、イエスさまのみ名によって、この祈りをみ前におささげいたします。アーメン。