『三隊の者が角笛を吹き鳴らして、壺を打ち砕き、左手にたいまつを、右手に吹き鳴らす角笛を固く握って「主のため、ギデオンのための剣」と叫んだ。彼らはそれぞれ持ち場に立ち、陣営を取り囲んだので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。』
なんとこの十三万五千人対三百人の戦いでありましたが、ギデオンたちが勇気を持って戦いの前線に出て行って角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、角笛を吹き鳴らしている間に同志撃ちが起こったというのです。この夜、暗闇の中で敵が同志撃ちするようにされて、十二万人の敵が滅ぼされたと言うのです。
この大勝利が現されたきっかけは何であったかと言うと、これは「主のため、ギデオンのための剣」と叫んだ。この宣言を皮切りに主の大勝利が現されていきました。第三版では「主の剣」、「ギデオンの剣」と書かれています。
この宣言というのは何かというと、私たち自身が「主の剣」であり、「主の勇士」であるという、自分自身のアイデンティティを、どのような存在であるかということを宣言したということではないでしょうか。その宣言によって大勝利が神さまご自身によって与えられていくことになるわけです。
私たちが何者であるかということをしっかりと認識し、それを宣言することがとても大切です。「主の証人」であり、「主の勇士」であるという自分自身の存在を宣言することは、主の不思議な大勝利を受け取るために必要不可欠なことだということを皆さんと共に今日覚えていきたいと思います。
そしてつぼを打ち砕き、持っていたたいまつの火を掲げるわけですが、これは今回、みことばを用意させていただく中にあって、神学的なことは置いておいて、私自身はここを聖霊の火、聖霊さまの存在ということを覚えさせられました。
聖霊さまの存在を高らかに私たちが掲げていく時に、主の勝利が現される。特に“つぼを打ち砕いた”とあります。つぼはたいまつの火を覆っていたのですが、聖霊さまの火を覆ってしまうようなつぼを打ち砕く必要があると覚えさせられました。
バプテスマによって、私たちはイエスさまの十字架の死とよみがえりを体験して新しくされます。古い自分が死に、新しく生まれ変わる。イエスさまの十字架のよみがえりを体験する神秘がバプテスマにはあります。古い自分とは神さまに従わない、聖霊さまが臨まれるのを妨げてしまう自分自身です。聖霊さまの働きをとどめてしまう古い自分を「つぼ」が表していると覚えさせられました。
聖霊さまの働きをとどめてしまう、神さまが生きておられる、働かれる、聖霊さまの存在を隠してしまうような神さまが喜ばれない私たちの肉の欲望だったり、思いだったり、そういったものを砕く必要があるということを今回覚えさせられております。
聖霊さまの働きを露わにしていくことが、主の勝利を受け取っていくために、主の勇士として大切な側面であるということを覚えさせられます。
そしてギデオンは、臆病な存在、弱い者だと自分で認識していたのですが、勇気を持って、戦いの前線まで出て行ったわけです。そのことが私の心に深く響きました。ヤコブの手紙にはこう書かれています:
『ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。』
とありますが、ギデオンは神さまに従い、敵に対して前線に出て行って立ち向かいました。その結果、敵は敗走していったのです。
私たちも時に弱さを覚え、小さくなって、「部屋に閉じこもっていた方が楽かもしれない」と思うことがあるかもしれません。しかし、私たちは主の証人であり、主の勇士です。そして私たちは戦いの前線に出て行く者となりたいと思います。
「悪魔に対抗しなさい」というみことばですが、悪魔は「盗人」で「殺し屋」だと書かれています。私たちが神さまからの祝福を盗まれたら悪魔に対抗すればいいのかと言ったら、そうではないと言うのです。
「対抗しなさい」という言葉ですが、ヤコブの手紙で使われている「対抗する」という言葉は、古典ギリシャ語では軍事用語で、「アンシステイミー」という言葉が使われているそうです。これは「自分の立場を保つために敵に熱心に抵抗する」という意味があります。ここで重要なのは、敵に攻められたから抵抗するのではなく、自分の信念を守るため、立場を保つために抵抗し続ける、ということです。つまり、攻められてから対抗するのではなく、最初から立ち向かう姿勢が必要だということです。それがこのヤコブの手紙に書かれている「神に従い、悪魔に対抗しなさい」、し続けなさいということであります。
そしてこれは「神さまに従い、悪魔に対抗しなさい」というセットですので、「神さまに従うことなしに、悪魔には対抗できない」と言い換えることができるかと思います。逆に、反対の視点からでは、「悪魔に対抗することなしに、神さまに従うこともできない」ということですね。ですから、この両面が必要であって、そしてこれは持続的な行いです。
私たちは主の勇士として、聖霊さまの宮として、悪魔に対抗し続け、そして神さまにも従い続けるという態度を持っていかなければなりません。
そして、その主の約束は、敵に立ち向かっていけば、不思議に敵が敗走していく。ギデオンのときもそうですし、このヤコブの手紙でも約束されている通り、私たちにはそのような主の不思議な勝利が約束されていますので、大胆に私たちは敵の面前に出ていって、「私は主の勇士だ!主の証人だ!」と宣言する者になっていきたいと思います。
先日は滝元順先生より「教会とは」というテーマで、メッセージをいただきました。敵の面前に教会が建てられ、そして敵の面前で信仰告白をした。その重要さを語られておりましたけれども、私たちはそのような主の勇士として、主の作戦基地として、主によって呼び出された者として、戦いの前線に出ていって、敵の面前で主の勇士・主の証人と大胆に宣言していきたいと思います。そのときに神さまが素晴らしい勝利を与えてくださる。これが神さまの約束であります。
そして、この勝利が与えられていったのは、「角笛を吹き鳴らしている間に」とありました。これは「角笛」というのは「賛美」ということを覚えさせられます。主を私たちは賛美し続けていきたいと思います。
賛美は「ワーシップ」と言いますが、礼拝に欠かせないもの、また礼拝行為そのものでもあります。
「礼拝」という言葉は、創世記二十二章五節で聖書の中で初めて「礼拝」という言葉が出てきています。アブラハムがイサクをモレクの山で捧げるときに、「私は私の息子とそこに行き、礼拝をして、お前たちのところに戻ってくる」と言ったのです。この礼拝という行為の中には、神さまのみ心に従って、愛する息子イサクを主に捧げる、主に従うという側面があるわけです。
賛美という中に、「角笛を吹き鳴らす」という中に、「主に従う」という面が見られます。暗闇の敵に立ち向かい、神さまに従っていく。それが主の勇士として立っていくために大切なことであります。
そして、ギデオンは聖霊の火、たいまつを持っていたわけですが、主の霊が注がれていた存在でありました。士師記六章三十四節に、
『主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。』
とあります。主の霊、聖霊さまが臨まれていました。
では、この主の霊が臨まれる前に、ギデオンは何をしたかというと、六章二十五節で、
『その夜、主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛で、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を壊し、そのそばにあるアシェラ像を切り倒せ。』
と、父の偶像、そして、これらの偶像を壊したときに地域の人たちが怒ったのですが、地域の偶像でもあったのです。バアルとアシェラ、それらを打ち壊した。その後に、主の霊が注がれたのです。これは家系、地域の、まさに霊的戦いであるということを覚えさせられます。
私たちが聖霊さまで満たされるためには、主の証人として、主の勇士として堅く立っていくためには、家系・地域の霊的戦い、特に、主がこの新城教会に与えてくださっている「霊的戦いの剣」を私たちは握っていくことが本当に大切であるということを、今回、「主の勇士」というテーマの中でもう一度覚えさせられております。
二つのテーマを見て来ました。私たちは主の証人、主の勇士です。たとえ私たちは自分自身が弱い存在、足りない者だと思ったとしても、バプテスマを受け聖霊さまが注がれた私たち一人ひとりへの神さまの約束でありますので、大胆に、「私は主の証人!主の勇士!」と宣言していきたいと思います。
弱い存在という一つのみことばがあります。コリント人への手紙第二の十二章九節、
『しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』
弱さの中に主が完全に働いてくださるということですね。このギデオンのストーリーからも人は常に弱さを覚えてしまうところがあると思います。しかし、今日皆さんと共に覚えて、神さまを認めないこの世の中にあって、主の証人として、主の勇士として固く立っていきたいと思います。
最後に「弱さ」ということについて一つの証しをしたいと思います。私の長男は隣の市の支援学校に通っています。元気に通っていますが、彼の成長を見ると、皆さんの歩みと比べて少しゆっくりかなというところがあるかと思います。みんなができるスピードではなかなかできないところもありますが、ある意味少し弱さを持った存在と言えるかもしれません。
彼は支援学校に行った後、放課後デイサービスというサービスを利用しています。これは学校が終わった後に、施設で集団生活をし、心身の成長のために過ごす場所です。小学校一年生からその施設で過ごしております。学校や施設では、季節ごとに偶像礼拝に関わる行事がどうしても行われてしまいます。
ですので、私たち家族としては、「私たちはクリスチャンで、イエス・キリストを信じているので、そういった偶像礼拝や他の神々と呼ばれるようなものに関わる行事は避けたい」と伝えています。そして、「そのような行事があれば連絡してほしい」とお願いしてきました。また、彼自身も、そのような行事があった時には「俺はしない」とはっきり先生に伝えたりしてきました。そんな主の証人として、主の勇士として勇気ある歩みをしてきた彼だなと思います。
先月、ハロウィンがありました。彼が行っている放課後デイサービスでもハロウィンの行事が予定されていました。今年から中学生になり、中等部のグループに入りました。それで施設の人たちがハロウィンの季節を前に、両親である私たちに報告してくれました。それは、長男がいるので、ハロウィンのパーティーはできないね。ということになったと言うのです。「長男がいるから。」ということなのです。そして代わりに考えたことが「コスプレパーティーにしよう」ということでした。ハロウィンの仮装パーティーに近いところはありますが、それは置いておいて、コスプレをして、いろんな格好をして楽しもう、ということに集中するということで、その行事が入れ替わったと言うのです。
ハロウィンからかけ離れて、施設の方々も、そこの利用者の子どもたちも、ハロウィンという偶像礼拝に関わる行事から引き離されたということが起こったのです。
これは彼がその場所で、「私はイエス・キリストを神として信じる」という生き方をし、証人として生き、主の勇士として立っていただけなのです。そのことによって周りが変えられていったのは、まさにギデオンが「私は主の剣。ギデオンの剣」と自分自身が何者であるかを宣言したとき、不思議に、ギデオンたちが何かをしたわけではないのに、敵が同志撃ちをして敗走していったように、彼がそのように主の証人として、勇士として立ち続けた故に、そのような不思議な主の勝利が起こされたことを覚えました。
私たちが「ああしてほしい、こうしてほしい」と言ったわけでもなく、彼自身が何かを強く訴えたわけでもないのに、施設の人たちがそのように行動されたのは、ハロウィンや背後で働く暗闇の力、おびただしい敵の力が打ち破られ、敵が敗走していった、そんな出来事が霊的にあったのではないかと覚えさせられ、本当に感動しました。