私は主の証人! 主の勇士!

そして神さまを認めないこの世の中にあって、私たちは「この世と調子を合わせてはいけません」とローマ人への手紙十二章二節にあります。

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

とあります。
この「調子を合わせる」という言葉が、ギリシャ語で「スケーマ」という言葉が使われています。これは世の調子はどのようなスケーマ、調子というかというと、真の神さまを認めない調子であるわけです。その調子と合わせないということです。
このスケーマという言葉の意味の中に、「適合する」「妥協する」「同じパターンに従って同じになっていってしまう」「同化してしまう」といった意味があります。つまり、この世の調子、すなわち「真の神を認めない調子」に合わせていくと、そのように神を認めない存在となりかねないというのが私たちであるということで、このローマ人への手紙で、私たちに警告を与えているわけです。

なぜそれがいけないかと言うと、このみことばを読めば分かる通り、「この世と調子を合わせなければ、神のみこころは何か、何が良いことで神に喜ばれ、完全であるかを見極めることができる。神さまのご計画に従って、主の証人として生きることができる」ということであります。だからこそ、調子を合わせてはいけないのです。

私たちは、この世の中にあって、いろいろな影響を受けます。例えば、食べ物や喋り方などもそうです。私の娘が、ある期間、たった二日間だけ関西方面に出かけて行きました。そして二日ぶりに娘に会ったら、何か変な喋り方をしているのです。三河弁と関西弁が混ざったような、何だかよく分からない喋り方になっていました。私が「何か変な喋り方してるよ」と言ったら、「そうかな?」と言っていましたが、私たちは本当に簡単に、周りの影響を受けやすい者です。
私たちの生活様式もコロナによってガラリと変えられた部分があると思います。喋り方や食生活、生活スタイルが少し変わる程度なら良いかもしれませんが、神さまに対する証人としての生き方が変えられてしまってはいけないわけであります。

また宇宙の話をしますが、地球は太陽の周りをくるくる、自転しながら回っています。一日は二十三時間五十六分四秒、一秒間で四百三十メートルのスピードで回っています。時速だと千七百キロ。すごいですね。目が回りそうに感じますが、地球全体が一緒に回っているため、私たちはその影響を感じません。この二十三時間五十六分四秒は神さまが定められたスピード、そして軌道で太陽の周りを公転しています。

また、人間の中には「時計遺伝子」というものがあり、これは二〇一七年にノーベル賞を受賞した研究者たちが発見しました。

人間の中には二十四時間のリズムが遺伝子の中にあるというのです。例えば、昼間には体が活動的になり、夜になるとホルモンの影響で眠くなる、といったリズムです。このように、二十四時間のリズムというものが、私たちに創造の中で与えられている。それも地球の自転の一日の流れと一致しており、神さまが私たちを計画を持って創造されたことがよく分かります。
こういった私たちのただ中には、神さまが与えてくださった調子やリズムがあります。私たちが合わせるべきなのは、神さまの調子、天のみ国の世界観・価値観です。それは私たちのただ中にあります。聖霊さまによって教えてくださいますから、聖霊さまの声に耳を傾けていきたいと思います。

そして「どのようにして神さまとの調子を合わせていくのか」ということですが、ローマ人への手紙十二章二節には次のように書かれています。

「世と調子を合わせてはいけません。むしろ心を新たにすることで自分を変えていただきなさい。」

ここで注目すべきは、「変えていただきなさい」という言葉です。これは、「自分で自分を変えなさい」とは言っていません。ですから聖霊さまが私たち一人ひとりに臨まれ、聖霊さまによって変えていただきなさいということですね。私たち一人ひとりが聖霊さまで満たされていくということがいかに大事かということが分かります。

「心を新たにする」という言葉には、「新生する」「全く変貌する」という意味があります。まさに聖霊さまによって私たちが新しくされ、生まれ変わらせていただいて、神の国の調子・価値観で生きることができるわけです。ですから、私たちが聖霊さまに満たされることは、非常に重要なことなのです。

ヘブル人への手紙にはこうあります。

「すべての人と平和を追い求め、また聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることはできません。」

聖い聖霊さま、神さまご自身ですから、本当に私たちも聖くなければ主を見ることはできませんので、聖霊さまに満たされていくこの歩みをしていきたいと思います。

少し話題が変わりますが、私の次男についてお話ししたいと思います。今年の秋、小学校で学習発表会が行われました。次男も元気よく歌い、リコーダーの演奏を披露して、その姿を見て、とても感動しました。しかし、その学習発表会の練習が始まった時のことだったのですが、一つの出来事がありました。
それは演目の中で「太鼓囃子」というものを演奏するということで、練習が始まったようです。次男は練習中に違和感を感じ、先生に「この太鼓囃子というのはどんな曲ですか?」と尋ねたそうです。そうしたら「これはどこどこの神社でも演奏されるような曲だよ」と説明を受けたそうです。それを聞いた次男は、帰宅し、そのことを私たち両親に報告し、「俺はこの曲を演奏するくらいなら、学習発表会に出たくない!絶対やりたくない!」と宣言していました。
次男は現在は小学三年生ですが、小学二年生の時に洗礼を受け、聖霊さまに満たされているんだなと思いました。聖霊さまによって、彼は不思議とその曲に対して違和感を覚え、「これは神さまが喜ばれるものではない」と感じて、そして先生に聞いて、それが偶像礼拝に関わるようなものだと分かった途端に彼はそれを演奏しないという決断をしました。
クラスの中でクリスチャンは彼一人です。そういった中で、学習発表会に出ないという少数派になってしまう決断はそう簡単にできないものだと思います。
また学習発表会、大きな舞台ですので、元気よく出たいというのが子どもの心だと思うのですが、それをしないという決断ができたというのは本当に聖霊さまに満たされているという証しだなと思いました。本当に息子を見習いたいと思いました。
そして次男に「学習発表会に出ないということを先生に直接言うか、親に連絡帳に書いてもらうか、どちらにする?」と聞くと、彼はなかなか強気な子だと見ていて思うと思うのですが、「俺が先生に直接言ってやるよ!」と言わなかったのです。「連絡帳に書いてほしい」とお母さんに頼みました。そして、先生から返事が来ました。「太鼓囃子」は三局の演目の内の一つで、それぞれ生徒がその内の二曲を選択するので、次男は「太鼓囃子」をやらなくも大丈夫ということでした。いずれにしても、彼の取った行動、決断はすごいなぁと思います。私たちも幼子のようになって、聖霊さまに満たされて、聖霊さまの声を聞いて、神さまに何が喜ばれることかを教えていただきたいと思います。そして、聖霊さまに満たされることで、私たちは力を受け、難しい決断であっても、神さまに喜ばれる選択ができるようになると思いますので、聖霊さまに満たされることを皆さんと覚えていきたいと思います。

そして聖霊さまで満たされるということを、私自身が教えられたことですが、少しまとめてみました。聖霊さまで満たされるということは、主の力が注がれて、主の証人として生きることができるようになる、ということです。そして、主の完全な計画に沿って生きることができるようになります。主のみ心が何であるか、何が神さまに喜ばれるかを選択しながら歩むことができるのです。
その中で、次に何が起こるかというと、主の力によってみわざが現されていきます。そして、私たちは結果的に神さまが用意された百パーセントの祝福をいただくことができるのです。
ですから、聖霊さまで満たされるということは、主ご自身のみわざにも、神さまの大いなる計画にも大きくつながっていきますので、このことを皆さんとともに覚えていきたいと思います。

そして今日は「主の証人」、そして「主の勇士」という二つのテーマでみことばを学んでいますが、次に「主の勇士」というところも見ていきたいと思います。士師記六章十一節から十二節を見ていきます。

『さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」』

このギデオンのストーリーを「主の勇士」というテーマで見ていきたいと思います。この士師記の時代、イスラエルの民はエジプトで四百三十年間奴隷として苦しみました。彼らが心から叫び、助けを求めた時、神さまはモーセをリーダーとして立て、イスラエルの民をエジプトから救い出されました。そして、約束の地へと導かれました。
しかし、イスラエルの民はそのような恵みの中で、神さまから「してはいけない」と言われた土着の偶像礼拝に妥協し、神さまに不信の罪を犯し、罰を受ける時代が続きました。士師記の時代は、しばしば「暗黒の時代」と呼ばれます。民が神さまを裏切り、助けを求めると、士師(リーダー)が立てられ、再び神さまに従うようになる……しかし、また神さまに背神の罪を犯すという繰り返しでした。
この時もそうでした。神さまに悪を行って、ミディアン人によって虐げられていたイスラエルの民は、家畜の餌さえも残してもらえないほど酷い状況で、徹底的にイスラエルが荒らされていた、非情な苦しみの中にあった時代でありました。
そんな中、主に助けを求めて、ギデオンという士師(リーダー)が起こされて、ミディアン人から救い出されるという出来事であります。先ほどはギデオンを神さまが召したところを読みました。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる」と神さまご自身が任命してくださっています。
ここで、「ぶどうの踏み場で」とありますが、これは2017の訳ですが、第三版では、「酒ぶねの中で」と書かれていますが、ミディアン人から隠れながら小麦を打つという臆病なギデオンの姿が思い浮かびます。またギデオン自身も、「あぁ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのよう に、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私 は父の家で一番若いのです。」と自分の弱さを認めています。
しかし、主の側ではどうであるかと言うと、一方的にギデオンを召しているわけです。六章十六節、

『主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」』

「私は弱い」と言っても、任命しておられるのです。私たち一人ひとりもそうです。神さまご自身の恵みによって、イエスさまのもとに導かれ、救われ、選ばれ、新約時代において福音の拡大のために遣わされている者、召されている者であります。
ギデオンと同じように、神さまご自身から任命を受けている者でありますので、私たちは「主の勇士」であるという側面もあるわけです。私たちは「主の証人」であり、「主の勇士」、無条件の神さまからの召しが与えられている存在であるということを覚えていきたいと思います。
そして短くギデオンの物語に触れていきたいと思いますが、この戦いはどのようなものであったかというと、ミディアン人の軍勢は十三万五千人でした。そして最終的にイスラエルの軍勢は三百人のみで戦いました。十三万五千人の敵に対して三百人で挑むというのは、どう考えても不利な状況です。しかし、神さまは素晴らしいことをなされたということです。士師記六章二十節から二十二節にはこう記されています。