「手当たりしだいに何でもしなさい」

『けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」』

特に、十四節のカギの所です。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。」ということです。私たちは目が閉ざされてしまっています。聖書の中に、エペソの六章十一節に、

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。』

とあります。悪魔は策略を持って私たちに働いてきます。悪魔はわかっています。祈らなかったら、そこは道が開かれません。だから私たちが見えないように、眠ってしまい、死んでしまったら、私たちは求めないので、悪魔悪霊は思いの通り働くことができます。光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからですとあります。光は私たちの信じている主です。光によって明らかにされます。主が光を照らしてくださって、「眠っている人や死者に対して起こし、生き返らせていただき、聖霊の力をいただいて、キリストに照らして頂きましょう。「目を開かしてください!聖霊の光によって私たちを気づかせてください!」と聖霊さまに祈っていきたいと思います。私たちは主の勇士です。

 勇士のみことばがあります。エペソ六章十三節から十七節

『ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

救いのかぶと、正義の胸当て、真理の帯、信仰の大盾、また平和の福音の備えの靴、そして神のことば。それを私たちはしっかりと神の武具として身につけていかなければいけません。私たちは本当にそのエペソ六章十三節から十七節にあるように、このみことばをしっかりと覚えて、自分自身が神の兵士だと、主の兵士だと認識して、私たちはしっかりと武具を身に着けて悪魔に対抗していきましょう。

そんな中で、特に私は十七節、十八節を着目して、神に教えられたので読んでみたいと思います。

『・・・・・・・また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

とあります。このエペソ六章の神の武具の後に、「祈り」といことが書かれていて、ここに目を覚まして、それも「絶えず目を覚まして」とあります。いつも目を覚まして、今まで寝かされていたところ、死んだところに、今度はそのみことばの剣を射しこむことができるように、私たちは大胆に祈っていきたいと思います。
私たちは何もできません。しかしみことばを宣言した時に、悪魔を打ち破ることができます。みことばが神の与えて下さる剣です。ですから私たちはしっかりと目を覚まして、光を神に照らしていただいて、今まで祈ったことのないこと、今まで考えたこともないこと、今まで思い出したこともないようなことを私たちは熱心に祈り求めていきたいと思います。悪魔は祈って欲しくないためにみなを寝かすようにしてきます。

今日、皆さんに是非とも覚えてください。「私に新しい天の光を与えてくださって、新しいこと教えてください。今まで寝ていたところに光を照らしてください。私の死んだところに照らしてください。」と、祈り求めましょう。

そうすれば主が光を照らして下さって、私たちが祈らなくてはいけない、とりなさなければいけない。霊的戦いをしなくてはいけないその所を教えて下さいます。見せてくださるはずです。聞かせて下さるはずです。大胆にみことばの剣で打ち破っていきたいと思います。
聖霊に満たされて、目を覚まして、手当たりしだになんでもしなさい。とにかく私たちは今まで隠されていたところ、死んだところが生かされるように、起きるように、戦っていきたいと思います。

聖書の中に、エゼキエル書四十七章九節、有名なみことばです。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。』

とあります。川というのは聖霊さまです。聖霊さまに触れていただいて、本当に今まで川が流れていなかったところに新しい川が流されて、死んだものや、今まで眠っていたものが生かされて、多くの魚が満ち溢れていくことができるように。今まで流れに流されていたものが、今度は流れに逆らって、大胆に進んでいくことができるものになりたいと思います。

そして最後に使徒の働きの二十章三十五節、

『このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」』

とあります。ここに「受けるよりも与えるほうが幸いだ」とあります。私は正直、自分の事。特に家内のことで、なんで答えられないのかなぁと、人と比べてしまったりして、なんでと思っていました。何となく霊的孤独感を覚えていました。しかし目が開かれた時に、「そうじゃない。愛する兄姉が、私と特に家内のために、いつも熱く祈ってくださる。こんな愛する神の家族がいるじゃないか。兄姉がいるじゃないか。一人じゃない。特に不可能なことはない主がともにいるのではないか」と励まされました。「受けるよりも与えるは幸いだ。」自分の事しか祈れなかったので、自分しか見えなかった。まだ本当に主を知らない、まだ本当に苦しんで、悲しんでいる兄姉、また家族、地域、また国々、様々、多くあると信じます。私たちは本当に受けるよりも与えるほうが幸いです。与えるものにさせて頂きましょう。受けるだけではなく、自分のことだけではなく、思い切って主をほめたたえて、今まで眠っていたところ、死んでいたところに祈りを置いていきたいと思います。そして聖霊によって新しい人となって、手あたり次第何でもしましょう。

今日、皆さん、聖霊を求めてください。その時に新しい力をいただきます。目を覚ましてください。そしてよみがえって、私たちはますます祈る時に、自分の祈りをさしおいてでも与える祈りをしてみてください。私たちが今まで祈っていなかったことを祈り始めたら、その祈りが答えられて、川が流れ始めて、新しいことが起きると信じます。今日、是非とも「手当たりしだい何でもしなさい。」とありますから、主の前に、私たち一人ひとりが祈り求めていきたいと思います。みことばは以上です。