『クリスマス礼拝2021 Joy to the world! 世界よ。喜べ!』

2021年12月19(日)新城教会主任牧師 滝元順

ルカの福音書2章8節〜11節

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

おはようございます。ハレルヤ!
お祈りいただき、今日、こうして皆さんの前に立つことができ、心から感謝致します。
家内は明日の検査結果が良ければ、退院ができそうです。明日の血液検査にかかっていますので、お祈りを頂きたいと思います(感謝な事に、無事に21日、火曜日に退院しました。感謝いたします)。

新城教会では毎日のようにクリスマス集会が開かれています。昨日は「子どもクリスマス集会」がありました。大勢の子どもたちが来ました。現在、あまり集まる機会がありません。でも、子どもたちは集まりたいみたいです。別に特別に案内したわけでもないのに、大勢の子どもたちが教会にやって来ました。
その他、水曜クリスマス祝会や「ヘブンズアイスクリーム&コーヒー」では、毎日、オーダーメイドクリスマス会が行われています。

しかしそんな忙しいさ中でしたが、先週の水曜日、今年、いろいろなびっくりの中の一番じゃないかと思うのですが、M姉妹が突然、天に帰られました。朝、少し体調が悪かったようで病院に行かれて、家で少し休み、娘さんが温かいスープを持って寝室に行くと、祈るような格好で召されていたというのです。本当に悲しい出来事でした。夢だったらいいなと思いましたけれども、現実でした。
人の命はわからないものです。彼女は八十歳。とは言っても、お元気で明るくて、皆に愛され元気印でした。しかし突然、天に帰られたのです。
でも、娘さんがこんなことを言われていました。「悲しいけれど、これはお母さんに対する、神さまからのクリスマスプレゼントじゃないかと思います。」
なぜならば、今年の四月にご主人を亡くされて以来、ずっと悲しみの中にあって、口癖のように、「お父さんと会いたいな。お父さんと会いたいな・・・。」と、言われていたそうです。
天に帰られる前日の家庭集会にも参加して、その時はすごく元気でケラケラ笑っていたそうです。しかし最後の祈りの時は、「お父さんに会いたいです。」と涙を流しながら、祈っていたそうです。そんな願いに神さまが応えてくださったのでしょうか。
本人にとっては、一番楽なパターンだと思うのですが、周りにとっては最も、慌てふためく大変なパターンではないかと思います。
しかし私たちには、やがて再会できる希望があります。

今から三十数年前のことでした。一人の美しい夫人が教会に来られて、目にいっぱい涙を溜めて話されました。「我が家に来て、息子と話してくれますか。息子がグレて、どうにも手がつけられない状態です。誰が話してもうまくいきません。是非、教会の力を借してください」と頼まれました。それが誰かと言うと、Mさんでした。
私は事情を聞いて、あまり行きたくないと思いました。なぜならば、その息子さん、この付近では有名な暴走族のリーダーであったからです。彼はそこらの不良とは違って、筋金入りで、そういう子に話してもなかなか難しいと思いました。でも、「行かせていただきます」と、一応、答えました。
私は教会のスタッフ会で、彼の所に誰か行ってくれるようにと話したら、皆、下を向いて顔を上げませんでした。
その頃、私は副牧師でした。どうも「おまえ副牧師だろ。自分で行ってこいよ。」みたいな雰囲気でした。「こわいのか?」と思われたら恥ずかしいので、「分かった。君たちが行かないのなら、俺が行って来る!」と言って、勇気を出して、Mさんのお宅に行きました。
すると、悠子さんが喜んで下さいました。「息子さんはいますか?」と尋ねると、「はい、二階にいます。」と言いました。二階への階段から部屋をのぞいたら、入り口のガラスが割れていて、そこから煙が出ていました。なんともやばい雰囲気が漂っていました。
お母さんが「じゅんさんが来たよ!降りてこない?」と息子に呼びかけました。すると、二階から「巡査?俺は巡査は嫌いだ!」という大声が聞こえました。
私は「じゅんさん」。しかし、彼は「じゅんさ」と聞こえたらしいのです。よほど巡査に追いかけられ、巡査を嫌っていたのでしょう。そんなところから始まりました。しばらく待っていたら、ふてくされた一人の少年が二階から降りてきました。私はいろいろ彼に話しかけましたが、通じないというか、言語が違うというか、違う世界に生きている少年でした。
でも最後に、彼がぽつりと話した言葉を、今でも忘れることがきません。何と言ったのかというと、「俺にはツレは多いけれど、友達はいない・・。」と話しました。私は、彼は寂しいんだろうな、と思いました。それで、「それなら僕が、君の友達になりたいよ・・。」と、本心ではないことを話しました。彼はふんっというような顔をして、去っていきました。

しかしその後、お母さんは教会に来て、イエスさまを信じ、息子のために真剣に祈り始めたのです。いくら神さまが祈りを聞くとしても、彼だけは変わらないだろうみたいに感じたのですが、折に触れて、彼に声をかけました。
すると不思議なことが起こりました。彼の人生に様々な問題が起きて、最終的には、彼はイエス・キリストを信じて、バプテスマを受けてクリスチャンになるという、すごい奇跡が起こりました。
聖書の中に、「主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われます。」とありますけれど、このことばがMさんの家の中に実現したのです。
お母さんが教会に助けを求めなかったら、今のMさんの家はありません。

その後少年は成長して、立派な青年になり結婚しました。彼にぴったりな奥さんが与えられました。皆は、彼にはもったいないと言われますけれど。彼に素晴らしい家族が出来ました。
この写真、いい写真ですね。召天式の時にも映されましたが、グレていた男なんて、どこにも見あたりません。しかし若干一名、ちょっと名残がある男がいますが・・。主イエスを信じて、こんなに素晴らしいファミリーができました。

もしも三十数年前に、お母さんが教会に来なかったら、このファミリーはこの世に出現していません。私、牧師をやっていて、何と言うのでしょうか。このような奇跡を神さまが起こしてくださるから、自信を持って、イエスさまのことを伝えることができます。
そもそも、プロテスタント教会の牧師には、使えるアイテムが少ないです。カトリックの神父は神々しい服装とか、振り回すアイテムとかありますけれど、プロテスタントの牧師には、黒表紙の聖書一冊だけです。最近では、聖書もiPhoneの中に入ってしまいました。本当に、使えるのは、聖書と舌べろ一枚です。
聖書って、二千年前の情報です。それを片手に現代社会で勝負するのは、神がいなかったら絶対に無理です。ありえないです。しかし聖書のことばが真理であると信じて、「主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われますよ!」と宣言して行く時に、奇跡が起きるのは大きな励ましです。

私は不良少年T君をある時、ニューヨーク・ツアーに誘いました。やっぱり世界を見せないと変わらないだろうと思って、彼をニューヨークの五番街に連れて行きました。
当時彼は、新城市の暴走族のリーダーで、旗を立てて夜な夜な走り回っていました。よく、うるさいなぁと思っていたら、彼がリーターをやっていました。でも後から聞くと、バイクは五十CCだったそうです。
私はニューヨーク五番街で、彼に「この交差点で五十CCバイクに旗を立てて、赤信号に突っ込むことができるか?」と聞いたら、「無理だ。できない。」と答えました。そして彼は、「俺はバカなことをしていた。」と深く反省していました。「世界は大きいな。」と言いました。それで彼の心も大きくなって、アメリカから帰りました。
今、彼は素晴らしい人物になりました。皆から愛され、多くの賜物に満ち溢れています。

人生一度しかありません。それならば、本物の神さまを知らないとまずいです。人に宗教心があるということは、どこかに本物の神さまがおられる証拠です。本物の神さまを特定するのは、別に宗教ではありません。自分の親を、親として認めたら「宗教に入った。」とは言いません。当然のことです。
宇宙とは「システム」です。システムとは「論理的に相互に関連し合う要素の集合体」を意味します。それは知的存在が関わらない限り、成り立たないものです。
昨日、子どものクリスマスの中で、宇宙についてのクイズ大会がありました。銀河宇宙みたいな星雲が、二兆個以上あると言われます。それらはシステムです。誰かが造ったはずです。ならば、私たち人類も、創造者によって造られたはずです。創造主が誰なのかを特定することは人生にとって最も重要です。

また人は必ず、死ぬ存在です。人って死ぬもんだな・・・と、先週も痛いぐらい体験させられました。一瞬にして人は地上から去っていくわけです。
召天式には、多くのクリスチャンではない方々も来られますから、「人は死後どうなるのか、真面目に考えましょう」というメッセージを毎回、語ることにしています。
私も今年で七十歳です。だいぶ近づいてきたな・・と思います。死ぬ瞬間って、どんな感じなのかと時々考えます。いつも話していますけれど、海外旅行で出国の列につくようなものだと思います。出国の列につく時って、別に悪いことしていないのに、なんとなくドキドキします。大勢の人たちが周りにいます。死ぬ時も同じではないかと思います。地球から出国するわけですから。周りと、いろいろ話をするのかもしれません。「あなたはなぜ死んだのですか?」『私は癌で死にました。』「あなたはどうしてですか?」『突然の交通事故ですよ。』「あなたは何ですか?」『私は老衰です。』と、死亡原因は様々かもしれませんが、皆、地球から出国しなければならないわけです。
出国したら、必ず他の国に入国するわけです。日本人は進化論も言うのですが、どうしても拭い去れないのが、死後の世界です。薄々感じているように、死後の世界は絶対にあります。

日本人の死後の世界観は、大きく分ければ三つではないかと話しています。クリスチャンでなければ三つです。
一番目は、「死んだらすべてが終わる。」二番目は、「輪廻転生して生まれ変わる。」三番目は、「先祖の霊に加わり憑依する。」の三つです。もしも一つを選択できるとしたら、三つの中でどれを選びますか?
死によって全てが終わるのは悲しいです。今まで築いてきたものが一瞬で消えるからです。宇宙のどこを探しても、その人の片鱗さえも残っていないとしたら、そんな悲しく辛いことありません。人生って一体なんだろう・・と思います。

もしもあなたが、現在、仏教徒ならば、選択の余地はありません。「私は仏教徒です。」と言う時点で、一つの選択をすでにしている事になります。それは六道を輪廻転生する死後の世界です。
以前にもお話ししたことがありますけれど、死後、六つの世界をぐるぐる回るのです。日本仏教では、ちょっと呪文を唱えれば解脱できると教えますが、あれは全くの偽物仏教です。仏教はもともと、小乗仏教が基本です。普通の人は、解脱なんか絶対にできっこないです。
日本仏教は鎌倉時代に始まった、新興宗教です。調べたらわかります。死んだら、地獄界か、飢餓界か、畜生界か。畜生界なら、ゴキブリにもなり得ます。修羅界、人間界、天上界。やっと天上界かと思ったら、その次は地獄に落ちるのです。仏教をよく勉強したら、その道は絶対に選びたくないはずです。

日本人は儒教的考えも強いです。先祖の霊になるというのは、よく言うことです。先祖霊は、墓場や仏壇によりついて憑依するらしいです。先祖の霊になるのは、案外良いのかもしれません。しかしだんだん時が経つと、憑依している霊はおかしな存在に変質するようです。
人生に悪いことが起こって、「どうしてこんなことが起こったのですか。」と霊能者聞けば、言われることはただ一つです。
「先祖の霊が祟っている。」最後にあなたは、家族や親族を祟る夜叉になるのです。こんな道を選んだら、やがて家族全員が不幸になります。どれもこれも、選びたくない道ばかりです。