クリスチャンにとって、一人ひとり役割や背景は違えど、目的は一つです。主の民として、主のために戦い、主のために生きる。これに尽きます。
一見、信仰の領域と関係ないと思うような日常の営みにおいても、今日のみことばを適用するならば、荷物番だろうが、戦いに出る者であろうが、違いはなく、すべての営みにおいて主の栄光を現す、主のための働きを実践することができます。
主婦の方であっても、子育てをしている方であっても、人の前に立ち役割を果たす者も、そこに相違はないのです。主の目から見て、同じ働きであり、同じ重要性を持っていて、当然そこに発生する主からの恵み、分け前も同じだということです。これは家族や教会、あらゆる単位で同様です。
そして、もう一つ重要だと思う点は、「戦う意志があるかないか」です。それが大きな違いを生むと思うのです。ダビデとともに出て行った六百人、そのうちの二百人が途中で離脱しました。しかし、少なくとも全員戦う意思を持って出て行きました。最初から戦いたくなくて荷物番をしていたのではありません。
もう一度日常の生活での適用を考えてみましょう。掃除や洗濯、皿洗いなどは何も考えなければ、毎日繰り返さなければならない単なる作業です。ときに逃げたくなる疎ましい作業かもしれません。「何で私は毎日こんな事を」となってしまう場面があるかもしれません。そんなときはぜひ、戦う意志を持って、「これが今私が主のために果たすべき役割だ」と思ってみてください。その心一つ、戦う意志一つで必ず景色は変わってくると思います。
そのような意識でやるのであれば、どのようなことも主のための尊い働きであるし、大きな主の軍隊の勝利を生む一因となります。
「何をやっているか」ではなくて、「どのような意識でやるか」ということが重要です。
この教会では、「SSBジム」が、昨年の夏から始められています。もしかしたら一部の方は、「教会と筋トレと何が関係あるんだ」と、感じられるかもしれません。しかし、これまでもお話しさせていただいている通り、ジムのはたらきは第一テサロニケ五章二十三節のみことばとともに始められたものです。
霊、たましい、からだのすべてが完全に守られているようにと書かれているように、私たちは、このような時代だからこそ、私たちの体の領域についてもなすべきことがあるのではないかと思います。クリスチャンが自分の体と向き合うことは、創造主である主ご自身に向き合う事です。本当に必要な事です。
体が元気になったり力強くなれば、たましいも霊もついてきます。
祈りにおいて、霊、たましい、こころなどの領域にアプローチするのが教会だという前提があるかもしれません。もちろんそれは重要な働きです。しかし、「霊・たましい・からだ」すべてが並列に示されているわけで、そうであれば、教会のはたらきとして、体の領域からアプローチしても何ら間違いではありません。
ぜひ、「筋トレ」に対しても主の勇士としての戦いの意識を持って考えてみてください。主とともに、主のために行うとき、とても有益です。
少し話はそれましたけれども、いずれにしても、私たちがそれぞれに立たされている状況の中で、なすべきことを全力でやるだけです。
ただ、一方で私たちは、主の主権を認めるということも忘れてはいけない点です。私は、二〇二四年の最後の礼拝や二〇二五年に向けてのメッセージでもそのような点を扱わせていただきました。
人は誰しも、いつ誰がこの地上から去るか、わかりません。第二ペテロ三章十一節から十四節が、私がこの二〇二五年に向けて示されたみことばです。
“このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。”
私たちが主の到来を早めなければならないこと、そして努力しなければならないことが、ここに示されています。その結果天の万象はすべて崩れ去ります。今の天と地は崩れ去ります。そして焼け溶けます。
この地上のことを一生懸命生きる一方で、私たちは最終的な主の主権も認めなければなりません。どちらも真実、真理です。とにかく私たちに出来ることは精一杯、いのちある限り、与えられている地上での使命を果たしていくことです。
実は、先日、家族で神戸を訪れる機会がありました。本当にきれいな街でした。
皆さんもご存じのように、この二〇二五年は、阪神・淡路大震災が起こってから三十年の年です。現在、きれいな港も、当時は大きな被害を受けました。「首都直下地震」と言われるように、都市部での火災も多く、また、街の真ん中で高速道路が倒れるというこのような様子がとても印象に残っています。
それを念頭に決めたわけではないのですが、今回不思議と、このときに神戸に訪れる機会が与えられました。また、昨年起こった能登地震の復興もままならな



い中、教会でも再び「地のうめき」というテーマでみことばが語られています。
日本は再三、大地震に襲われています。その教訓から、厳しい耐震基準が設けられ、日本の建物は、ちょっとやそっとの地震では崩れなくなりました。
ちょうど先日、ミャンマーで大きな地震があり、タイでも大きな被害が出ているようです。しかし、耐震構造が日本並みであったら、防げた被害も少なくないでしょう。
日本という国自体も、さまざまな災害によって甚大な被害を何度も受け、そこから何度も何度も立ち直る経験をしている国と言えます。
先ほどから述べているように、私たちは主の主権に抗うことはできません。あるいはするべきでもない、する必要もないものです。主のみ旨、主のみ心によるものであったら、私たちは、ときに自分たちの人生において、どのような試練が起こっても、受け入れなければなりません。しかし、今日のみことばにあるように、そこで「もうこんな苦しい状況じゃなにもかも駄目だ」と言って諦めれば、そこで終わりです。
私たちは国であれ個人であれ、困難に向き合うとき、ダビデのように、主のみ旨を受け入れるわけですが、そこから取り戻せることに関しては、全力で取り戻すのです。やられて終わりではないのです。追撃して、必ず取り戻せるという、主のみことばとともに、諦めずに、取り戻すべきものは取り戻す。そのような生き方をしなければなりません。
ただし、もう一点気をつけなければいけないことがあります。神のみ旨であれば受け入れるわけですが、一方で悪魔の働きであれば、一切受け入れることはしてはいけません。徹底的に排除して、自分たちの身に、また自分たちの国に、そしてこの地上に、悪魔の働きを引き下ろすことを許さない。そのような戦いをし続けなければなりません。
ヨブ記に示されているように、主の前に悪魔の訴えが通ってしまう結果、この地に実際に災いがもたらされることがあります。聖書に明示されていることです。ですから私たちは、悪魔の働きに対して、敢然と戦う意志を持って、生きなければなりません。
悪魔の訴えが、起こされることがないように、私たち自身は罪を犯さないように生きるべきですし、共同体の罪に対しては、とりなし祈らなければなりません。とりなしの祈りは、悪魔のはたらきを徹底的に排除する戦いの祈りです。
私たちは、この地上の歩みにおいて、常に戦いがあることを認識していなければなりません。
今、社会においては、様々なことが明らかになっていることもあり、今までは戦いを認識していなかった領域にも、どれだけ暗い悪魔の働きがあるだろうかということを、考えずには立ち行かない現実があります。
「USAID」という組織のことも、話されているとおりです。私たちは、マスメディアが真っ当な原理で、公平・公正な情報を伝えていると思っていたかもしれませんが、そんなことはありません。これを一例とし、この地において、すべてのことに悪魔との戦いが生じているものとして、私たちは絶えず、戦い続けなければなりません。
戦争を例にお話させていただきます。戦争において、自国に、敵国がミサイルを撃ってきていて、実際に着弾して大きな被害が出ているとします。そのときに、「まぁ、人生というのはこういうもんだから」と言い、破壊されていることも含め受け入れて歩むことが正しいでしょうか?壊れたからまた直して立ち直らないとな、と繰り返す。それが正しいでしょうか?あるいは「壊された建物が、すぐに直せるとても素晴らしい先端技術が開発されました」と、それを喜んでいてそれでいいでしょうか?すべて違います。
戦争において自国に被害が及んでいたら、敵に対して自分たちへの攻撃を止めさせる戦いを必ずするはずです。ミサイル攻撃ありきで、それを受け入れて生きていく、そんなことは絶対にありません。
霊的戦いは、まさにそのようなものです。戦いを意識しないと、敵にどれだけミサイルを撃ち込まれて、被害が出ていても、別の認識を持たされ、自分たちは一生懸命生きているかのように思い込まされます。また、人類全体が素晴らしい技術を生み出しているかのように思い込まされます。目の前のちょっとしたことを解決するのみで、根本の問題には何も解決を生まないような出来事を喜んでしまう。そのようなことが、今の時代、実際に少なくないのではないかと思えてなりません。
私たちは本当の戦いをしなければならないと思います。戦うべき点において、戦うべき相手と戦う。これが本当の戦いです。敵は誰ですか。悪魔です。人ではありません。全く必要のない戦いをしていてはいけないのです。
私たち人間は、つくづく状況に左右される、本当に弱いものです。聖書の中で、人が羊に例えられていることは、非常によく理解できます。
神戸でこのような場所にも訪れました。羊がいっぱいいて、なかなか壮観な景色でした。これは神戸の街を眼下に望む六甲山の牧場です。
羊という動物は、本当に臆病です。ずっと草を喰んでいて。何も考えていないかのようでした。フラフラさまよい、自分がどこに行くべきかもわかっていません。でも人や牧羊犬に追われれば、追われるがまま一斉に動かされます。
私たち人間も同様で、牧者である主とつながっていなければ何もできない、正しい方向に向かうことすらできない、そのような存在であると改めて考えさせられました。
私たちは、自分の弱さや至らない点に関しては、みことばから学び改め、ダビデをはじめとする信仰者からは、弱さの中で、主を選んで進むという、その大きな選択・決断、力強さを学び、彼らと同じ主の勇士としてますます練り上げられていくように進んでいきたいと思います。
最初のみことばに戻ります。
“ダビデは主に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」”
特に実際に困難に直面している方は、ぜひ今日このみことばを受け取って、帰ってください。今どのように絶望的な状況であっても、主が必ず、取り戻していただける領域があります。それを受け取り、希望を持って歩んでいただきたい、戦い続けていただきたいと思います。
一方で、そのような状況には直接当てはまらないという方も、敵と戦い続けることは共通です。主が、お一人お一人を導こうとしておられるところに、全力で向かっていただきたいと思います。「必ず到達できます。」「必ず成し遂げることができます。」
特に新年度ということで新しい領域に進む方々にも、このみことばを受け取っていただきたいです。
皆さん、戦い続けましょう。この新城教会は、2025年も主の軍隊として戦い続ける教会です。戦い続けていきましょう。お祈りして終わりにさせていただきます。