主への信頼から信仰へ、 そして前進

 

私たちは「今」という瞬間にしか目を留めることができないような者ですが、「今」語られる神さまの言葉を受け取って、信頼し続けていく、従順に歩み続ける、そのような歩みがとても大切であることを教えられます。

そしてこの役人の従順は、絶対的な服従と言ってもいい態度だと思います。彼は引き返しませんでしたし、帰り続けたわけです。神さまに従い切ったわけです。主のしもべとして、「主よ。」と呼び、王なる主、その方に従いきっていった。それゆえに王室の役人は後に、神さまご自身の約束を目の当たりにしていく、目撃していくことになるわけです。

 

そしてこの箇所の中で、いやしの奇蹟が現されたことは素晴らしいのですが、それだけで終わることはありませんでした。五十三節、

 

『それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。』

 

彼自身も、彼の家族も皆、イエスさまのことを信じるようになったわけです。

この「信じた」という言葉の意味は、信じるようになった。何か動作が始まっていくという、そのような意味合いがあるということです。主への小さな信頼から始まった奇蹟ですが、それが主への服従となって、そして主が素晴らしい奇蹟を現してくださり、それだけではなく、彼も彼の家族も信じるようになっていった。信仰を持つようになっていったという、素晴らしいみわざが現されたというわけです。

 

私たちは「今」という時にしか生きることができない、弱さを持つような者でありますが、その「今」という時に語られる主の言葉を信じて、受け取って、信頼し、服従を尽くしていくならば、主のみわざを受け取ることとなり、また主とともに生きる信仰への道へと導かれる、そのようなことを教えられます。

そしてあの役人には、現実、病気の息子がいて、どうすることもできない。八方塞がり。誰も助けてくれない。そんな立ち止まった状態だったと思うのですが、そのような状況から、小さな信頼を通して、神さまの素晴らしいみわざが現され、病気が癒され、どうにもならない問題が解決される。神さまご自身によって私たちの未来が切り開かれ、立ち止まっているところから私たちが信じるようになるという、前進が、主ご自身によって成し遂げられることを教えられます。そのことを覚えて、私たちは主を見上げ続けていきたいと思います。

 

そして「今」という時にしか生きることができないような弱さを持つような私たちが、逆に言えば、主のために、主の栄光、奇蹟のために用いられたというところも見えてくるのではないでしょうか。

 

話しは変わりますが、最近、友達にハゼ釣りに連れて行ってもらいまし。あまりハゼ釣りをやったことがなかったので、なかなか難しかったです。餌をつけて、海に沈ませるわけですけど、竿をつたって、ハゼが魚を食べている振動が伝わってくるのです。そして今!という時に竿を上げるわけです。そうしたら魚が上手に釣れるのですね。最初は上手くいかなくて、放っておいたら、餌だけ食べられていたとか、上げるのが早すぎたりで、なかなか釣れなかったです。しかし、ちょうどいいタイミングに竿を上げたら釣れました。

やはり、今!という時に応えていくということは、すごく大切なことであると魚釣りから教えられました。

その「今」ということに対して応えていき素晴らしい奇蹟が現されたのが、カナでイエスさまが最初に行われた水をぶどう酒に変えられた奇蹟です。当時の結婚式は、一週間から二週間も続くような婚礼でした。そんな中でぶどう酒がなくなり、ユダヤ人のしきたりで八十リットルから百二十リットル入りの水瓶が六つあったので、イエスさまが手伝いの人に、その瓶に水を満たしなさいと言われたのです。当時は水をひねったら水道から水が出るという時代ではなく、井戸から汲んできて、水を一生懸命満たしたわけです。八十リットルから百二十リットル入りですから相当疲れたと思います。

そしてイエスさまが何と言われたかというと、ヨハネの福音書二章八節で、

 

『イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。』

 

そしてその水はぶどう酒に変えられていて、イエスさまにより奇蹟が現されたということです。そして大切なのは「今くみなさい。」というとこです。

その「今」というのはどんな意味合いがあるかと言うと、「ちょうど今、今まさに、今でも、すぐに」、そんな意味合いがあります。「〜だと〜になるから、さあ今」、そんな意味合いもあります。また命令・要請的な意味、「ちょうど今やるんだ!」そのような強い意味合いを持った神さまの「今」であったのです。その「今」という時に、その使いの者たちは応えていったわけです。使いの者たちは水を汲んできて疲れていたと思います。「イエスさま、ちょっと疲れていますけど…。」とは言わなかったのです。また「これは水ですけど持って行くんですか?」という疑いの言葉もイエスさまに対してかけなかったのです。「今」という時に従い切ったのです。もちろんこの聖書の中で書かれていないだけで、しもべたちの思いの中では、そういった思いもあったかもしれません。しかし、大事なのは、「今」という時に、神さまが語られた言葉に応えて行動したかどうかです。そしてその従いきった中に、神さまの奇蹟が現されたということです。

 

私たちは「今」主が語られる言葉に耳を傾けて、聞き逃すことなく受けとり、そして従っていきたいと思います。今という時にしか生きることができない弱さを持つと、弱さと表現してしまう部分もありますが、逆を言えば、「今」という時を捉えることができることに長けた存在であるということも言えるのではないでしょうか。私たちはそのような弱さの中にありますが、神さまに目を向けて、耳を傾けて、主を信頼して従って行くならば、神さまの奇蹟を必ず目撃する、みわざを受け取る、そのような者であるということ覚えていきたいと思います。

このカナの婚礼の中にも、母マリアはイエスさまに対して、「ぶどう酒がなくなりました。」と語ったのは、イエスさまなら何とかしくれるかもしれないという信頼があった、また、手伝いの者たちの従順があった。また弟子たちがこの中でイエスさまを信じるようになったとあります。その「信じる」も先ほど役人の家族が信じるになった、信じたという言葉と同じであります。主への信頼、従順が、信仰へと導かれていったストーリーがあるのです。

 

最後にまとめてメッセージを閉じたいと思います。人は「今」という時に、過去も未来も集約して捉えることができない、そのような弱い者かもしれません。また、王室の役人は息子が病気でどうすることも出来ないと立ち止まってしまっている状況でしたが、私たちもいろんな問題、課題、戦いがあり、立ち止まってしまっているような状況があるかもしれません。しかし「今」主が語られるみ声を聞いて、全能なる主、癒やし主、奇跡を行う方、また王の王、主の主、一切の権威を持たれた方、権力を行使することができる主、そのような主を、私たちの王として、告白していく、受け入れていく。そしてその主に信頼して従い、服従と呼ばれるほどまでにその信頼を継続していく時に、真の信仰が開かれていく。信じるようになると、主によって私たちが前進させられていくのです。これらのことを、今日の主題聖句を読み学ぶ中で教えられました。

私たちの時間意識では、主ご自身のみこころを捉えきることはできず、なぜこんなことが起こるのか、失望したり落胆したりするようなことが、時にあるかもしれません。しかし、今日のみことばを受け取って、主に目を向けて、そして主に信頼して、従って、進んでいきたいと思います。

神さまご自身は、私たちの時の概念を越えて、はるかに先に進んで、主ご自身のみわざをなし、またもうすでになしてくださっている。そのことを覚えて、喜んで主に仕えていきたいと思います。

 

今年は復讐の年となると、また先生方から数々の約束のみことばが語られておりますが、それもすでに受けた、すでに成就したんだ!ということを、信仰を持って信じて、さらに神さまご自身が現してくださる、新しい主のみわざ、奇蹟に、期待して、主とともに進んでいきたい、また主によって前進させられていきたいと願わされています。

最後にお祈りをして、メッセージを閉じさせていただきます。

 

ハレルヤ。父なる神さま、イエスさま、聖霊さま、今日こうして私たち、あなたのみことばから様々なことを学び、教えられました。感謝いたします。主よ、もう一度、あなたに目を向けていくことができますように。私たちは、あなたにフォーカスできるように。そして私の主!と告白します。全能なる主、天地万物を造られた主、命を与えられる主、過去も現在も未来も扱われる、初めであり終わりであり、アルファでありオメガである主よ、あなたを私の主と告白します。これからもさらにあなたご自身が導いてくださることを信じます。

私たちの願いや祈りも、すでに成就していることを信じて、心から感謝します。あなたにただただ信頼し続けていくことができるように、従順を尽くし、服従を尽くしていくことができるように、そしてさらにあなたご自身の与える真の信仰を私たちに与えてくださり、あなたご自身によって私たちを進ませてください。私たちは弱い者です。自分の力ではどうすることもできません。しかし主への信頼が、あなたご自身が未来を切り開いて、私たちを進ませてくださることを今日教えられました。主よ、心から感謝します。

主への信頼をさらに私たち一同に与えてくださって、今週は喜んで喜んで主に目を向けて、賛美しつつ、祈りつつ、主に仕えていくことができますように導いてください。今日の時を感謝します。これから素晴らしいみわざ、奇蹟を私たちは目撃することを宣言します。イエスさまのみ名によって父なる神さまに祈りをささげます。アーメン。