主への信頼から信仰へ、 そして前進

私たちは目の前にたくさんのものを、あれやこれやと見てしまう者だと思うのです。そしていつのまにか、本質を見失ってします。本来ともにおられる神さまご自身、私たちの前を先だってくださる主に目を向けることができず、神さまご自身の本質を見ることができず失望落胆してしまう、そんなような者ではないかと、今一度覚えさせられました。

 

ヨシュア記三章四節では、約束の地に入っていく時に、契約の箱がイスラエルの民を先立って行きました。

 

『あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。』

 

約二千キュビトは九百メートルぐらいの距離ですが、九百メートル先のものを肉眼でしっかりと見ることができる方、おられますか?中にはおられるかと思うのですが、随分先を神さまの臨在、神さまご自身は進まれるんだなと覚えさせられます。その中で私たちは、それをめがけて進んでいくわけですね。どうしてもその歩みの中で、私たちは周りを見てしまって、心配になったり、恐れたりするわけです。しかしそのような時には、もう一度、私たちが見ている情報を限定して、ただただイエスさまに目を向けていく。その時に神さまご自身の本質をはっきりと見ることができ、そして主に期待してついて行くことができるかと教えられています。

人は「今」という時にしか生きることができない弱さを持っています。しかし、私たちは、イエスさまの十字架の贖いのゆえに、神の子とされた者です。そしてこの地上にあって、神の国籍を持って生きることができる者であります。神の国の中に生きる者であります。

そのような者として、私たちは神の時の概念も受け取って生きる者とされていきたいと願わされます。神の時の中では美しい神さまのみわざがすでに完成しています。なされ続けています。私たちは神の時の概念をいただいて、主に目を向けてついていきたいと願わされます。

 

マルコの福音書十一章二十二節〜二十四節、

 

『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』

 

信じられないようなことが書いてあります。「山に向かって、『動いて、海に入れ』と言うならばその通りになる。」ということです。それも「もうすでに受けたと信じなさい。」ということです。神さまご自身のみ心ならば、そのような奇蹟も神さまご自身にとっては容易なのです。そしてそれは「もうすでに起こったと信じなさい。」と、イエスさまは言われています。イエスさまは私たちに「わたしを疑いなさい。心配しなさい。信じないでいなさい。」そのようには言われていませんね。ここで「すでに受けたと信じなさい。」とあります。私たちは神の国の民として、神の国の時の概念を持つ者として、このような信仰、このような態度を受け取って、神さまのみことばを受け取っていくものとなっていきたいと願わされています。

 

そんな「今」という時にしか集約して、過去も現在も捉えることのできない、ある意味「弱さ」と呼べるようなものを持つ私たちでありますが、更に続けて、王室の役人の態度から主の奇蹟を受け取っていく鍵となる態度を学んでいきたいと思います。

それは四十九節で、

 

『その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」』

 

と、イエスさまに語った言葉の中にあることを、今回、強く覚えさせられ、教えられます。彼は「主よ。」と呼びかけたのです。

彼はイエスさまのことを噂でしか聞いたことがなかったような、王室に仕える役人でした。しかし、その人が「主よ。」と告白したということは、大きなことだと思います。この「主よ。」という言葉の意味を原語で見ると、「キュリオス」という言葉が使われているそうです。それは「主」また「主人」、また旧約の「ヤハウェ」「アドーナーイ」などギリシャ語聖書の訳として当てられている言葉であり、天地万物を造られた主、命を与える主、奇蹟を行うことができる主、癒やし主である主、偉大な神さまの名前に使われる言葉の意味を持っています。

また、当時は皇帝礼拝がなされる中にありましたが、キュリオスは、ローマ皇帝に対する称号でもありました。「主よ。」という言葉の中に、「私の王なる主。」そのような告白があるわけです。皇帝礼拝のなされる時代の中で、そのような言葉を他の人に使えば、迫害を受ける危険もあったと思われます。しかし、そのような状況の中で、王室の役人は「主よ。」と告白したのです。それは本当に大きな告白でありました。

またこの言葉の語源に、「権力」という意味があります。それは「完全に権力を行使する人」という意味合いを含んでいます。王室に仕える役人は仕える立場にあった者として、「権力」についてよく理解し、自らも体験していたと思います。そんな役人が、イエスさまに対して、「主よ。」と告白する。「私の主人よ。」と、「私の王よ。」と、そして「全能なる主、真実なる主、そしていっさいの権威を持たれている主、その権威を行使することができるお方、主よ。」と、その役人は大きな告白をしています。そこにはただ主への必死な思いとともに、イエスさましか信頼することができない。下僕として仕える、「主」という言葉は、役人のイエスさまへの全幅の従順を表していると思います。大きな意味のある言葉を彼は発したわけです。

 

私たちは目の前に起こってくる問題に目を留めて、イエスさまご自身を、本質を見失ってしまうような、未来を見ることができないような者であります。しかし、主は過去からも、今も、未来も、変わらない方です。暗闇のない方です。移りゆく影もありません。光なる方です。そして全能なる方、偉大な方、癒やし主です。私たちが奇蹟だと思うことを当然のように行ってくださる方であります。

私たちはこれから歩む中にあって、さまざまな問題や課題に直面し続けていきます。しかしそのような中でも変わらない主ご自身に対して、王室の役人が宣言したように、「主よ。」と、「私の王よ。」と、「真実な主、天地万物を造られた創造主なる主、命を与えてくださる主、癒し主なる主よ。権力を行使してくださる主」「主よ。」と、私たちは告白し続ける者となっていきたいと思います。

それが私たちの使命であり、また神さまご自身のみわざを目撃していく過程の中でとても大切な鍵であるということを教えられています。

 

そしてさらに、王室の役人の態度から学んでいきたいと思います。その王室の役人は、イエスさまから、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」言葉をもらった時に、その言葉を受け取って信じて帰って行ったわけです。

息子が病気になって死にかけているのならば、私なら「イエスさま!なんとか私の息子の所に来てください!」と、引きずってでもイエスさまを連れて行こうとしてしまうのではないかと思うのですが、この王室の役人は、「主よ。」と告白して、全幅の信頼を表し、イエスさまの言葉を信じて帰って行ったわけです。この神さまの権威ある言葉を、私たちはもう一度しっかりと受け取る者となっていきたいと覚えさせられています。

 

マタイの福音書八章八節に百人隊長の記事があります。この方も権威の中にある方であります。少しお読みします。八章八〜十節、

 

『しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』

 

十三節、

 

『それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』

 

この権威の中にある百人隊長は、しもべに行けと言えば行く、来いと言えば来る。その権威というものをよく理解していた故に、「その言葉だけをください」と訴えたわけです。そしてイエスさまが言葉を語られた、ちょうどその時にしもべは癒されたわけです。神さまご自身のそのみことばを、王なる主が、権威ある方が発せられている言葉として、私たちは受け取る者となっていきたいと願わされます。

 

少し難しい固い話が続いておりますけども、これは少し子どもたち用に用意したものですが、ドラえもんを皆さん見たことありますでしょうか。

ドラえもんのアイテムで、船長の帽子をかぶると、船長の命令は絶対!と、船長の言うことは絶対聞かなければいけない、そんな秘密道具らしいのです「掃除をしなさい。」と言ったら掃除をする。「食事を作りなさい。」と言ったら食事を作らなければならない。船長の言葉には力があるのです。

私たちの人生の船長とは、どなたでしょうか。イエスさまですよね。父なる神さまであります。その方が語られる言葉、権威ある言葉であります。そのことを受け取っていきたいと思います。

 

 最近、ジョージ・ミュラーという方の「祈り」をテーマに書かれている本を読みました。この方は孤児院をイギリスにおいて始めたキリスト者であり、祈りの人としてよく知られます。彼の祈りは五万回も応えられたと言われるほどです。そのような彼がその本の中で一つのおすすめをしていました。それは私たちがみことばを読む時に、信仰によって読むようにと語っていました。私は、ハッとさせられました。私たちは信仰者として、聖書のみことばと向き合っていますが、信仰をもってその聖書に向かって読んでいるか?意識しているか?なかなかそうでない自分があると、ハッとさせられました。神さまのみことばを、もっと深く、権威あるものとして、私たちは受け取っていきたいと教えられています。

 

ではまた主題の聖書箇所に戻りますが、王室の役人はイエスさまが語られた言葉を信じて帰途につきました。彼は信じて、神さまに従ったわけですが、彼がどこから来たかと言うと、カペナウムからでした。

最近は便利ですね。グーグルマップでカペナウムからカナまでの時間を測ることができます。当時は徒歩で歩いて行ったか、ロバやらくだ、それとも何か乗り物に乗って行ったかわかりませんが、徒歩で行けばだいたい八時間かかるという距離です。三十五から三十八キロという距離です。

グーグルマップ便利ですね。赤い四角の所を見ていだくと高低差も分かります。ガリラヤ湖、カペナウムから、山のほうに登って行ったわけです。上り坂だったわけです。病気の息子がいる、どうしようか。八方塞がり。そのような中で、上り坂をトボトボ歩いて行かなければならなかった。どんな思いだったかと考えさせられます。

そしてせっかくカナまで行ったのですが、もらったのは「行きなさい。治っている。」言葉だけでありました。しかし彼はその言葉を信じて、またこの同じ長い道のりを帰って行ったわけです。彼は不安や心配や恐れがなくなって元気よく帰ることができたのかと言うと、そうではなかったと思います。私ならば心落ち着かずに、息子はどうなってしまったか、イエスさまはあんなことを言われたけど本当だろうか、疑いの思いも持ってしまうかもしれません。

しかし、彼は帰り続けたわけです。神さまに信頼して、従い続けた。その従順を継続していったということが、この奇跡を受け取るためにとても重要な鍵の一つではないかなと、私自身、学ぶ中教えられています。