神の家族として一つとなる祝福

2022年6月19(日)新城教会牧師 岡本信弘

ヨハネの福音書1章12〜13節

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。久しぶりにここに立つことができ、みことばをお分かちできる恵みを心より感謝いたします。

新型コロナ発生から約二年半、この間皆さんお一人おひとり、いろいろな問題にぶつかったり、不安や制限を強いられたりしてこられたと思います。コロナ以前にも問題は様々ありましたが、それは、ある家庭、ある地域、ある業種、ある年代、と限定された領域での問題が多かったと思いますが、コロナは、すべての年代、すべての業種、すべての家族に大きな影響を及ぼしてきました。

教会においても、共に集まって礼拝することができなくなりましたが、二部礼拝、一部礼拝と、コロナの状況を見ながら集まることを続けてきました。さらにこの六月からは、とどまってはいけないということで、昼のカレーの提供や、対面での家庭集会なども再開することとなりました。今まで守られてきたことを感謝し、これからのことも祈りつつ進めてまいりたいと思います。

プレイズも、この二年間は大変でした。一昨年の二〇二〇年度は売上が大きく落ち込み、どうなることかと思いましたが、二〇二一年度はだいぶ回復し、利益をあげることができたこと主に感謝するとともに、皆さんのお祈りを心から感謝いたします。

 

さて、今日は、「神の家族として一つとなる祝福」と題してお話ししたいと思います。

今日、六月十九日は父の日です。先月の五月八日は母の日でした。父の日は母の日と比べると、とってつけたようなところがあって、あまり重要視されていないような気がします(そう思っているのは私だけかもしれませんが…)。私と家内の両親は、すでに天国にいますので親孝行はできませんが、親が健在の方は、贈り物はともかく一言だけでも感謝の気持ちを伝えたら喜ばれると思います。LINE一本もらうだけでも親は嬉しいものです。

 

さて、まず、「家族」とは何かを考えていきましょう。聖書にはたくさんの家族が出てきますが、人類最初の家族はアダムとエバです。

 

『神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』(創世記二章二十二〜二十四節)

 

神さまが家族を造ろうとした一つの理由は、『人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう』(同十八節)と思われたからです。支え合う家族が必要と思われたのです。つまり、三位一体なる神さまが愛の関係性の中に存在しているように、私たちも同じ愛の関係性の中にあってはじめて、生き、成長できるということです。

私たち人間は皆、父、母という両親のもとに存在しています。家族において、お父さんの役割、お母さんの役割はそれぞれ違います。両親が互いに愛し合い、支え合うことによって、子どもたちに良い影響を及ぼしていくのではないかと思います。私たちが人間として健全に生きるために、社会の最小単位としての家族が与えられました。

家族の基本を考える時に、まず親子関係が重要だと思います。私の実家は、私が幼い頃、駄菓子屋を営んでいたこともあり、三百六十五日休みがなく、親と一緒にどこかに遊びに行ったという記憶がほとんどありません。兄弟は五人いましたが、自分たちで勝手に遊んでいたという感じです。

しかし、一つだけ鮮明に覚えていることがあります。父は水泳が得意だったこともあって、夏になると幼い私を豊川(とよがわ)に連れていってくれ、私を背中におぶったまま広い豊川の向こう岸まで行き、またこちら側に戻ってくるということを繰り返し、遊んでくれたという思い出があります。私はよく家族から、「おまえほどわがままな言った男はいない」と言われてきましたが、わがままな私を支えてくれた両親に、心から感謝しています。

 

小さな子どもたちにとって親の存在は、とてつもなく頼もしく、安心感があります。時にはスーパーマンのような存在かもしれません。

私も親となり四十年余り。孫を持つようになって、子どもが孫を育てているのを見ながら、「子育てってこんなに大変だったかなぁ」と思いながら、このように私も育ててもらったんだなぁ、親は大変だっただろうなぁと思い、親の偉大さを感じ感謝しています。日本には古くから「親孝行したいときに親はなし」ということわざがありますが、ここにいる若い方たちには、親が生きている間に、是非親に感謝して親孝行してあげていただきたいと思います。

 

肉の親について話しましたが、私たちクリスチャンには、血のつながり以上の霊的な親子関係である父なる神さまの存在があるということを皆さんご存じだと思います。

今日お読みしたみことばの中には次のように書かれています。

 

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』(ヨハネの福音書一章十二節)

 

私たちがイエスさまを信じたことによって、神さまの子どもとされる特権が与えられたということです。

では、神の子どもとされた特権とは何でしょうか。

私たちは、ただただ神さまの恵みの中で救われて、神の子どもとされています。神さまのご計画は、イエスさまを通して、私たちを神の家族とするために私たちをご自分のもとに導いてくださった。言い換えれば、神さまは私たちを養子として迎え入れてくださったということです。

 

養子ということをネットで調べていた時に、一つの記事が目に留まりました。クラーク・桂子さんという方の証しでした。

彼女は第二次世界大戦後に、黒人の父と日本人の母との間に混血のアメリカ人として日本で生まれましたが、幼い時に両親に捨てられ悲惨な幼少期を過ごしました。混血児ということでいじめを受け、自殺未遂もしたそうです。そんな彼女が成人した時、自分の出生の悩みや苦しみをあるラジオ番組に投稿したそうです。それに対して多くのリスナーから励ましの手紙が寄せられるほど大きな反響を呼び、アメリカのクラークという青年にまで届きました。彼との文通が始まり、二人は結婚の約束をするに至りました。しかし、いざ結婚となった時に、大きな問題が起こりました。それは、この女性 桂子さんには戸籍がなかったのです。戸籍がなければ結婚してアメリカに行くということは許されません。それを知ったある人が、「この人をなんとか結婚させてあげたい」と思って役所と掛け合ってくれましたが、全然ラチがあかない。そこでこの方は、最後の手段として、彼女を自分の養女にして戸籍に入れ、クラークさんと結婚させて二人をアメリカに送ったそうです。桂子さんの養父となったのは、なんと、桂子さんが出生の悩みを投稿したラジオのパーソナリティでした。こうして、桂子さんは養子になることによって戸籍をもらい、アメリカに渡り、幸せな家庭を作ることができたのです。

その後、結婚して十年ほど過ぎた時に桂子さんはイエスさまを信じ、素晴らしいクリスチャンホームを築いたことにより、代々祝福されていったとありました。彼女は、天涯孤独の惨めな生涯を送ってもおかしくないような状況でしたが、養父が与えられたことによって素晴らしい人生に変えられたと書いてありました。日本でも、養子に対する考え方はいろいろありますが、アメリカでは「選ばれた子」として大切にされ、多くの場合、養子とされた子どもたちは、養子としてくれた両親に感謝し、自分を「選ばれた子」として誇りを持っているようです。

私たちが神の子どもとされたということは、「神の養子」になったということだと思います。私たちは神さまに背を向け、罪だらけの、当然永遠の滅びに行くべき者だったにもかかわらず、神が私たちを選んでくださり、み子イエスさまの「いのち」という代価によって贖われ、今、神の養子、子どもとなったのです。

有名なみことばがあります。

 

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。』(ヨハネの福音書十五章十六節)

 

私たちが神さまを選んだのではなく、神さまが私を、皆さん一人ひとりを選んでくださいました。私たちは「選ばれた子」なのです。

 

子どもであることの特権について考えてみましょう。

この地上では、子どもが親から財産を相続する権利が与えられています。相続財産といっても、お金や不動産など金目になるものと同時に、借金や負債を相続することもありますが…。

私の家は、昔かなり貧乏だったので、親から何かもらえるとは思っていませんでしたが、結婚して家を建てる時に、今住んでいる土地を譲り受けることができ、大きな財産を分けてくれたと両親にとても感謝しています。

では、神さまが私たちに与えてくださる相続財産とは何でしょう。

今、皆さんがすでに受け取っている最大の祝福、最大の相続財産は、永遠のいのちです。それは、どんなにお金を積んでも、どんなに自分が努力しても得ることができません。ただただ主の一方的な恵みによって、私たちは永遠のいのちを頂いたのです。

そしてそれに付随して、私たちはキリストの似姿、朽ちることのないからだに変えていただけます。また私たちは今この地上に生きながら、いろんな悩み、苦しみ、不安、死の恐怖がありますが、そういったところからすべて解放されるという権利も与えられています。かといって、すべての苦しみがなくなるわけではありません。この地上においては、矛盾があったり誤解されたりして、何もかもがうまくいくとはかぎりません。一生懸命やっても報いられないことのほうが多いかもしれません。しかし、私たちが祈って主に導かれてしたことは、主に覚えられ、天に宝として積まれているということも覚えていてください。

さて、少し考えてみてください。皆さんは今までに、どれくらい天に宝を積んできましたか。私はクリスチャンの年数だけは長いのですが、主に喜ばれることは本当にわずかだなと思わされ、頑張らなくちゃいけないと思っています。

神さまが結んでくださったこの親子関係を絶対に手放してはなりません。それは私たちが手にすることのできる最高の特権であり、永遠の約束であるからです。

 

このように、親子関係はすごく重要ですが、次に重要なのは兄弟の存在だと思います。子どもの数は、一人か二人という家庭が一般的のような時代となりましたが、一昔前までは、五人、六人が当たり前でした。我が家は五人でしたが、よくメッセージでも言われるように、滝元家が八人、見城家が十二人でしたから、当時でも子沢山だったといえます。先々週ここでメッセージされた金子先生には八人の子どもがいると聞いて、今の時代にすごいなとビックリしました。

 

聖書は、兄弟の関係についてこう書いています。

 

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。』(詩篇百三十三篇一節)

 

主にあって兄弟が「一つになって幸せに暮らす」ということを、主は私たちに願っておられます。しかし、これは決して容易ではないということが聖書を読むと分かります。

カインとアベルは人類最初の兄弟でした。兄のカインは、自分の神さまへの捧げものよりも弟の捧げものが受け入れられたことを妬んで、弟アベルを殺してしまうという人類初の殺人が、兄弟の間で起こりました。

ヨセフは、最後には神さまの計画の中でエジプトの総理大臣にまで上り詰めた人ではありますが、幼少期に兄弟から妬まれ、エジプトに売られてしまいました。