「70年が満ちた2021 回復と再建の年! あなたは『王国』『祭司』そして『地を治める者』です!」

『しかし、天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった。私は激しく泣いた。その巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったからである。』

最高の賛美と礼拝がなされている只中で、ヨハネは何をしたのでしょうか。「激しく泣いた」というのです。おかしいと思いませんか?そして、その理由が「巻物を解く存在がいなかった」からです。それで激しく泣いていたと言うのです。
私ならば、いくら巻物に興味があっても、それは横に置いておいて、主を賛美すればいいじゃないか?と思います。
今日、この礼拝の只中で、誰かが激しく泣いていたら、「どうしたのですか?」と、皆、気にすることでしょう。同じです。天の最高の賛美、礼拝の中で、ヨハネは激しく泣いていたわけですから、その理由は如何に、ということです。
七つの封印がされた巻物って、ミステリアスですよね。ミステリー映画に出てきそうなものです。黙示録を読み進めると、封印が一つずつ解かれるごとに、白い馬、黒い馬、赤い馬などが出てきて、地に様々災いが起こるわけです。ですからこの巻物は相当恐ろしい内容だろうと思われます。

しかし聖書を解釈する時、旧約聖書に必ず、新約聖書の影があるという原則を忘れてはいけません。旧約聖書における「封印された巻物」とは何かを知ってから、黙示録を扱う必要があります。それを知らないと、ただミステリアスな都市伝説のような形で捉えてしまう危険性があります。現代の黙示録解釈は、その傾向が強いのかもしれません。
旧約聖書に出てくる封印された巻物を調べますと、出てくるんですね。エレミヤ書三十二章を見ますと、エレミヤの所に叔父の子ハナムエルが来て、「アナトテにある畑を買ってくれないか。」と頼みます。その時、エレミヤは監視の庭に捕らえられていたのですが、そんなエレミヤの所に、親戚の叔父の子ハナムエルがやって来て、畑を買ってくれと頼むわけです。それでエレミヤは「銀十七シェケルで買った。」と記しています。
そして三十二章十一〜十二節、

『命令と規則に従って、封印された購入証書と、封印のない証書を取り、おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダヤ人の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡した。』

と記しています。封印された証書とは、当時は巻物でした。これが何であるのか。それは、平たく言えば土地を手に入れた時に発行される権利書です。
古代のイスラエルにおける土地概念は、今の私たちとは全く違うものでした。土地は神が所有者であり、人に貸与されていると考えました。それも五十年の期限付き貸与と考えていました。五十年に一度、ヨベルの年、ジュビリーが来たら、土地をオリジナルの所有者に返さなけれはなりませんでした。ヨベルの年には借金もチャラになり、奴隷たちも解放されました。すごい制度ですよね。現代にもあったらすばらしいです。

それと共にもう一つは「買い戻しの権利」がありました。先ほど「贖い」について学びましたが、贖いとは「買い戻し」の権利に基づくものでした。例えばある人が土地を持っていて、貧しくなって誰かに売却する場合、まずは買い戻しの権利を持つ親族を見つける必要がありました。
親戚の所に行って、土地を買い取って下さい!と願うのです。例えば私が窮して、土地を売らなければならなくなった場合、まずは兄弟の所に、たとえば滝元開の所にでも行って、「すまんけど俺の土地、買ってくれんか?」と頼むことです。親族に、先祖からの土地を買い戻してもらう制度がありました。それが贖いの概念です。
しかし贖いにはリスクもありました。ルツ記にも出てくるのですが、エリメレクが残した土地を未亡人のナオミが、親戚のボアズに買い取ってもらいました。でもボアズは、土地だけではなく、モアブの地から連れてきたルツという、死んだ息子の奥さんまでも、引き取りました。またその土地に関わる使用人とか、様々な営みをも、全て責任をもって引き受けるはめになったからです。ある意味、ボランティア精神がなかったら、できないことでした。
エレミヤもそうでした。叔父の子ハナムエルが来て、「アナトテにある畑を銀十七シェケルで買ってくれ。」と頼みました。その時、エレミヤは捕らえられていて、たいへんな状況でした。しかしエレミヤはそれを神のみ心として買い戻しを決断し、証書を作ったわけです。
土地の買い戻し証書は二通作成されたようです。一通はコピーで、いつでも見られる証書。そして、もう一通は原本として、証人たちによって封印され保存されました。原本の封印を解くことができる存在は、アナトテの土地ならば、エレミヤにしか、解くことはできないわけです。なぜならば、エレミヤが親族としてハナムエルから土地を買い戻したからです。
さて、ヨハネが天において「神が持っている巻物の封印をどうしても解いて欲しい。」と願い、激しく泣いた理由は何でしょうか。
み座の周りの礼拝は「贖われた者たちの礼拝」でした。ということは、自分が買い戻されているという証書がなければ、その礼拝には参加することはできなかったわけです。
ということは、神が持っていた証書は、ヨハネ自身に対する買い戻し証書であったはずです。しかしそれを解く存在がいなかったのです。それで彼は泣いていたと思われます。「誰か解いてくれないか・・。」
そんな中、一人の長老がヨハネに語ります。「泣いてはいけません。」原語では、「泣くのをやめなさい。」という意味だそうです。

『ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。』

これはヨハネの親戚が出てきた事を意味します。誰が出てきたのでしょうか。ダビデの根、イエスさまです。イエスさまは神の子であり、ヨハネの親族だから、「証書を解いてあげます!」ということです。
実に、ヨハネは、実際、肉的にもイエスさまの親族であることを聖書の記録から知ることができます。ヨハネは、ガリラヤ湖で漁をしていた漁師でした。イエスさまとは、何の親戚関係もありませんでした。しかしイエスさまの十字架の時に、ほとんどの弟子たちは逃げてしまいましたが、使徒ヨハネは十字架の足元まで行ったのです。そこにはイエスさまの母、マリアもいました。母は十字架についた息子をどんな気持ちで見ていたのでしょうか。
その時イエスさまが十字架上からヨハネに声をかけました。「ヨハネ。そこにあなたの母がいます。」と、ご自分の母をヨハネに託したのです。それで、ヨハネはマリアを引き取って、生涯世話をしたと言われます。
ですから肉的にも、イエスさまは、ヨハネにとって買い戻しの権利を有する親族であったことが分かります。
しかしこの記述は、ヨハネにとどまらずに、人が罪を犯したことによって、全人類が被造物とともにサタンの手に渡ってしまった現実を、イエスさまが命をかけて、解放してくださった証書でもあるのです。
ゆえに、私たちは神の親族となり、「あなたは王です!祭司です!そして、この地の支配者です。」と呼ばれるのです。
私たちは試練の中で苦しんでいるように見えますけれど、大患難時代とは、私たちを苦しめるためのものではなく、敵を打ち破るためのものです。

”地上に大患難が襲うのは、悪魔が行なっている不法な活動を中止させるためであり、悪魔が裁かれるためである。ゆえに、黙示録十一章十五節、十九章五節などは、ラッパが鳴った後、「主は永遠に支配される。」という賛美が織り込まれているのである。”

現在、大患難時代のように見えるのかも知れませんが、不法行為を行っているサタンが打ち破られる季節であると信じます。このような時にこそ、私たちは主に近づくチャンスなのです。

新城教会の70年の歴史で悲しいことは、主から離れた方々もおられるという事です。その方々にも回復と再建が訪れるよう祈っています。新型コロナや様々な試練を通して、もう一度主を、呼び求めてほしいと願います。
試練の中にあるようでも、「試練を通して、私たちは神に近づき、神は今まで体験したことがないみわざと共に応えて下さるのです。なぜなら、あなたは贖われた者だからです。十字架の血によって、贖われ、勝ち取られた者だからです。あなたは王です!祭司です!そして、地を治める者です!
現在のような環境の中でも、決して、恐れることなく、雄々しくありなさいと主は言われます。
最後に一言お祈りさせて頂いて、終わりにさせていただきます。

天の父なる神さま、み名をあがめます。私たちは贖われた者として、王国として、祭司として、地を治める者として、天の礼拝に参加できることを心から感謝します。
周りは、まさに大患難時代のようです。しかしこれは敵が打ち破られている証拠であると信じます。この地を支配する者たちが打ち破られて、神の国が現れるプロセスであることを確信し、感謝します。
今週は主よ、私たちが王であり、祭司であり、地を治める者であることがわかる週となりますように。見たことも聞いたことも、思ったことがないような奇跡を現してください。内側の病もまっさらにしてください。白紙になりますように。悪い情報は全て消えますように。霊も魂も肉体も癒されますように。
尊いイエスさまのみ名によって、祈りをみ前におささげいたします。アーメン。