「70年の満ちた2021〜回復と再建の年〜あなたは主の栄光を現す樫の木です」

2021年1月24日(日)新城教会主任牧師 滝元順

イザヤ書61章1〜3節

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

ハレルヤ!おはようございます。今日、皆さんと共に主を礼拝出来ます事を、心から感謝いたします。コロナ感染が広がっていて、心落ち着かない日々が続いておりますが、主に寄り頼み前進していきたいと願っています。

今年、新城教会に与えられている聖書のみことばは、大変素晴らしいものです。私に与えられている箇所は、イザヤ書四十四章二十六節から二十八節であるとご紹介させて頂きました。昨年、新城教会は宣教七十周年を満たすことができました。今年は七十一年目を迎えています。

かつてユダの民がバビロンに捕囚にされて、七十年が満ち、自分の故郷に帰り、何をしたのかと言うと、それは荒れ果てた都を再建し、神殿を回復する働きをしました。

新城教会におきましても、七十一年目に入ったこの年は、「回復と再建の年」であると信じております。一人一人の中にも回復と再建が起こされると心から願っています。

 

私も昨年から試練が続いています。なぜならば一昨年、私の家内に膵臓癌が発見されて、三ヶ月、四ヶ月の命だと宣告されたからです。しかし、皆さんのお祈りによって家内はそれから、一年三ヶ月が経ちました。本当に奇跡としか言いようがないです。本人は、結構、元気にやっています。皆さんのお祈りを心から感謝します。でも、まだまだ戦いがあります。

 

時々、人生の中には思わぬ事が起きて撃沈されるようなこともあります。しかし私たちには天地宇宙を造られた神さまがおられるという希望をしっかりと保っていきたいと願っています。

 

最近、イザヤ書からよくメッセージが語られています。今日もイザヤ書六十一章一節から三節のみことばをご紹介しております。この章に先立ち、四十三章では、このように語られています。一節、

 

『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』

 

主は私たちに「恐れるな」と語ってくださっています。

新型コロナ問題で先が見えず、恐れがあります。明日は我が身かという恐怖があります。新城でも感染があって、すぐ近くにまでウィルスが迫っている感じがします。しかし主は言われます。「恐れるな」と。

 

次に語られていることばは、大変有名です。四十三章四節、

 

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

 

日本の神々は、およそ愛してもらえる神ではありません。どうでしょう。日本の神々から愛されたいですか。愛されたら逃げ出したくなるような神々ばかりです。不動明王と一緒に手をつないで歩きたい人はいないはずです。千手観音に抱きしめられたら寝れなくなりますよ。愛してくれるような神々では決してありません。しかし聖書の神さまは、愛の神さまです。私たちに関心を持っていてくださる神様です。疫病の嵐のただ中でも、神は私たちを守ってくださるのです。

そしてイザヤ書六十一章からのことばは、

 

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

 

これは主を信じる者たちに与えられる約束であり、「主を信じる者たちに与えられる立場」を現すことばです。

今、イザヤ書の中から、いくつかのみことばを選んで、皆さんに紹介していますが、聖書を理解する上で、基本的に重要なことは、「聖書全体で神は何を語っておられるか」ということを捉える事です。ただ気にいったみことばだけを受け取るのではなく、全体的に理解する習慣をつけることは重要です。

イザヤ書は大預言書に分類され、六十六章もある分厚い書です。この全体像を理解するのは、なかなか難しいです。

 

最近、ネット情報が氾濫して、良い情報も悪い情報も同時に流れています。気を付けなければいけないのですが、一つ皆さんにご紹介したい動画があります。それは「Bible Project」という働きです。そこでは聖書の全体像を教えています。それも、わかりやすいアニメにして教えています。歴史的にも、神学的にも、しっかりとした土台と枠組みを持って作られている動画です。すごいと思います。聖書各書を概観できます。全体を理解した上で、中身を受け取れたら素晴らしいです。

イザヤ書って、本当に難しいです。イザヤという人物は、紀元前七百年ぐらいを生きた預言者です。でも不思議なことは彼は死後も語り続けているということです。イザヤ書の不思議さは紀元前五百年頃でも、あたかも自分が生きているかのように語っているところです。これはどういうことなんだろう?と。こんなこと、ありえるのだろうか?そこには諸説あるようですが、Bible Projectのイザヤ書概観で説明していました。是非、ご覧になって、イザヤ書の全体像を把握して、そんな中で神が私たちにどのように関わってくださるのかを知ることは、重要です。

 

イザヤ書六十一章の一節から三節は、イエスさまがナザレにおいてイザヤ書を開いて、「このみことばが今この場で実現しました。」と宣言された、聖書全体の中でも、大変重要な箇所です。

イザヤ書の「わたし」とは、イエスさまご自身であるということです。

 

『主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。』

 

と語られました。「油そそがれる」とは、「王としての権威を与える」という意味です。イエスさまは天から王としての権威をいただいて、この地上に来てくださいました。その王は、良い知らせを携えて来て下さいました。教会で「福音」という言葉をよく使いますが、その語源です。「福音」とは「良い知らせ」の宣言です。悪い知らせが満ちたこの世界にあって、良い知らせを宣言してくださるのがイエスさまです。

どんな内容の良い知らせを宣言してくださるのでしょうか。『心の傷ついた者をいやすために、わたしは遣わされた。』とあります。神さまは私たちを癒そうとされています。心の傷も、体の傷も、病も、癒すことができるのです。私も信じています。

 

パウロは将来と希望についてこう語りました。「過去、神が私たちを助けてくださったのならば、未来だって必ず助けてくださらないはずがない。これが私にとっての将来と希望だ。」

過去を振り返る時に、様々な局面で主は私たちを助けてくださいました。それは未来も同じように助けて下さる証拠です。

私も昨年、家内のことで、主から多く助けていただきました。今週もちょっと心が重いですが、きっと助けてくださると信仰を持って戦っていきます。

様々な問題があるかもしれませんが、過去を振り返り、神が助けてくださった記念碑を見ることができるならば、必ず、将来も助け出してくださるのです。

 

『シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせる』と約束しています。

聖書のテーマ、キリスト教のテーマは、「悲しみから喜びへ」です。悲しみの外套をまとって教会を訪れる人たちは多くおられます。しかし悲しみを、賛美の外套に変えてくださるのです。

悲しみから喜びに変えてくださる主に、心から期待しましょう。

 

そして次に、私たちの存在意義についての言葉が記されています。

『彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』とあります。

神を信じる民に対して、神はどのように呼んでくださるのか。それは「義の樫の木、栄光を現す主の植木」と呼んでくださるのです。

「あなたは義の樫の木です。神の栄光を現す主の植木です!」と神は言われます。

この箇所を新共同訳で読んでみますと、

 

『彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。』

 

聖書を見ますと、木々と人は、ただ比喩的表現だけではなくて、人とかなり密接な関係と関連づけを持って述べられています。「木(tree)」という単語を聖書検索してみれば、千箇所以上におよびます。ただ単に、木々を人に例えているだけではなく、木々は生き物で、主を賛美する存在であるという立場をとっています。

そして、ここでは人を「樫の木」と呼んでいるわけです。樫の木って、ご存知でしょうか?原語と英語では「Oak tree」を表しています。

 

 

 

日本でも樫の木を見かけますけれど、樫の木は、ご存じの方も多いと思いますけれど、大変堅い木です。そして粘りのある木です。そう簡単には折れないのです。

この写真のような樫の木ならば、地下に相当根を張っているはずです。でなければ上物を支えることができないです。この木が主を信じる者に例えられているのです。

時々、人生の中で波風立って、本当に苦しい時期があります。同様に木も風が吹いたり、雨が降ったり、嵐が来たりして、下に根を張るわけです。その結果、揺るぎない木として成長するわけです。

神は私たちを、弱い木ではなくて、強い木として育てようとされているという事です。

 

その目的としては、「主の輝きを現すための木」だと言うのです。新改訳聖書では、「彼らは義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」とあります。我々の存在を通して、神はご自分の栄光を現そうとされているのです。

今日皆さんが、この場所におられ、またネットで礼拝を守っておられるのなら、それは生きている証拠ですけれど、何の目的の人生かと言ったら、神がご自分の栄光を「あなたを通して現そうとされている」ということです。ですから一人一人の人生は重要です。

 

このように聖書を見ていきますと、木々と人との関係が密接であることがわかります。我々は木々を多く見ますけれど、そんなに重要視しないです。ただ普通の植物のように感じているのですが、木々とは、大変、霊的な植物である事が分かります。

第一歴代誌十六章にこんなことばがあります。十六章三十一〜三十三節、

 

『天は喜び、地は、こおどりせよ。国々の中で言え。主は王である。海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、勝ち誇れ。そのとき、森の木々も、主の御前で、喜び歌おう。確かに、主は地をさばくために来られる。』

 

木々は、我々と一緒に賛美する存在です。共に賛美する役割を持った、神が創造された植物である!ということがわかります。

 

神さまは人と交わるために、様々な仕掛けを被造世界に置かれています。神が人と出会うための法則が、聖書の中に記されています。

創世記の天地創造は、無から有を生じさせたというのですが、神さまは、「あってある方」ですから、無はありえないのです。『初めに神が天と地を創造した。』という意味は、神が被造物に、「機能を与えた」という意味です。そこには、神が人と出会うための機能・法則があります。

その一つが、「暦」であると、前回、お話しさせていただきました。今日は二〇二一年一月二十四日ですけれど、なぜ一月二十四日という認識があるのかと言ったら、暦があるからです。