「70年が満ちた2021 回復と再建の年!伝道礼拝 The Gospel」

私は「一度しかない人生、本物の神さまを信じたほうがいいですね。」と話しました。そして「この世の中には、光と闇の世界があって、本物の神さまもいれば、悪魔が支配している世界もある。」と話すと、悪魔がいることはよく分かる、と言うのです。それで私は「お母さん。あなたは霊感が強いでしょう。」と言うと、「何んでわかる?」と聞くのです。私は「このような職業をやってれば、一発でわかる!」と言い切ったら、私を尊敬してくれました。多分、私を、霊能者かと思ったのでしょうか。
「今までいろいろ、霊体験があったでしょうね?」と言うと、「いっぱいあった。」と言われました。そして「人が死ぬ時が分かる。」と言うのです。そりゃぁ、誰でも人は死にますから、私だって分かります。「あなたは死にます。」と言っても間違いではありません。百年以内にはみんな死にますから。
でもその人はそうではなくて、「この人、まもなく死ぬな・・。」と感じると、本当に、その後死んじゃうと言うのです。そんなことが何度かあったと言うのです。
それで私は、「あなたは人が死ぬとわかっても、その人が死なないように助けたことはありますか?」と聞くと、「助けたことはない。みんな死んでいく。それが辛い・・。」と言うのです。
私は「あなたが本物の神さまに属していたら、人が死ぬという情報を受け取ったら、死ではなくて、命に置き換えることができますよ。私の家内も、助かって生きてます。」と話したら、「私もそうなりたい。」と言うのです。「じゃあ、イエスさまを信じて、偶像から離れましょう。」と話しました。
もう一つ、「あなたの人生で、最も印象深い不思議体験って何んですか?」と聞いたら、「私はある会社に十年以上勤めていた。」と話し始めました。
ある朝、会社の社長が朝礼で訓示をしたとそうです。しかし社長の話を聞きながら、「あっ、この社長は二度と、会社に戻ってこれない・・・。」と感じたそうです。その後、その通りになったと言うのです。「あの日のことが一番ショックだったね。」と言いました。人が死ぬことは分かっても、助けることができないので、悶々としていたみたいです。

それで私は、私が最近体験したことを、その方にお話ししました。
今年になって、コロナで、県民の森の祈祷会にも行けなくなりました。それで、「個人で地域を祈ってください。」ということが多くありました。それで私は、この地域のために祈らなくてはいけないと思いました。特に、飯田線沿線の為に祈らなければいけないと感じました。
今年、新城教会は宣教七十一年目にあたります。しかし歴史を振り返ると、教会周辺と飯田線の線路上で結構、悲惨な事件が起きています。
私の幼い頃、近くの人が耕耘機で飯田線と衝突して、おばあさんが即死し、お父さんも重傷を負った事故がありました。
また悲しいことに、若い女性の飛び込み自殺があったり、悲惨な事件が起きています。
また十数年前ですが、沖縄から一人の女性が「悪霊に支配されているので祈って下さい。」と新城までわざわざ来られました。ご主人が空港からレンタカーで、奥さんを連れて来ました。私は教会で待っていたら、飯田線のキーーー!という異常なブレーキ音が聞こえました。何かなと思ったら、その奧さんが、車から降りるや否や、走って行って、線路に飛び込んのです。しかし幸いにも、電車が急停車して、助かりました。本当にびっくりしました。
その後、その奥さんは教会に連れて来られて、解放を受けました。その人は、占いとかに強く関わっていて、悪霊との深い関係があり、死の力に覆われていたのです。それを断ち切る祈りをして、沖縄に帰って行かれました。
二年前まで、私は沖縄によく奉仕に行ったのですが、ある教会にいくと、「私のこと覚えていますか?」と、集会後、一人の女性が出て来られました。よく見たら、飛び込み未遂の女性でした。
そんなことなどを思い出して、この地域のために、祈るように強く導かれました。茶臼山の駅も最近、近くの高校が閉鎖されたことによって寂れて、人の乗り降りも少なくなり、そのうち廃止になってしまうのではないかと心配しています。「この駅が祝福されて、大勢の人たちが電車を利用して、教会に来ますように!二度と、悲惨な事件が沿線で起きませんように!」とよく祈っていました。
特に、近くにの踏切に立って、「ここで事故が二度と起きませんように!」と祈りました。
十一月の初めの週、一つの新聞記事が出ていました。それはその踏切に関する記事でした。その踏切上に、朝、老人が倒れていたというのです。それも遮断機が降りていて、列車が迫っていたというのです。それを出勤途中のある女性が見つけて、すぐに、踏切にあるSOSボタンを押しました。しかし、飯田線の運転士が信号を見落としたのです。それで列車は、線路上に倒れている人に向けて、そのまま突っ込んできたのです。しかしその女性は、バーをくぐって、勇敢にも踏切の中に入って、老人を引きずり出したのです。列車が迫っていたので、「二人とも死ぬか」と思ったそうです。
後からその女性に実際に話を聞くと、「あの時、天から神さまが降りてきたみたいだった。」と言うのです。特殊な力が働いて、倒れていた老人をバーの外に出したというのです。本当に、危機一髪でした。聞けば聞くほど、怖い話でした。

私は直近の体験を、家庭集会に参加したお母さんに話してあげました。「今の話は先週のことですよ。私はその踏切で事故が起こらないように、毎晩のように祈っていました。すると私たちの信じる神さまは、その老人を助けてくれたのですよ!」と、人を殺すのではなく、生かす神さまの証しを語ることが出来ました。
しかしその後分かったことですが、ちょっと鳥肌ものだったのですが、踏切で倒れていた老人は、家庭集会で出会ったお母さんと、かつて同じ会社で働いていた元同僚でした。社長の最後の朝礼も、同じ場所で一緒に聞いていたはずです。
何の脈絡もないように見えますが、背後に神の計画があったのです。この話は十一月の初めに起こった出来事でした。

私たちの信頼する神さまは、素晴らしい神さまです。人を殺すのではなく、生かすお方です。そのお母さんは私の話を聞いて感動して、「私もイエスさまを信じたい!」と言って、はっきりとイエス・キリストを救い主として受け入れる祈りをしてくれました。「これからも時々、家庭集会やりましょう!」と勧めると、「毎日でもいいからやってください。」という勢いでした。主は生きておられます!ハレルヤ!
町のためにとりなし、祈っていると、町全体のための素晴らしい知らせ、福音がもたらされるのです。
今年、回復と再建が語られていますが、そのことが今、この場所で起こっていることを感謝します。

先ほど、最初に福音が告げ知らされたのが「羊飼いたち」であったと話しました。
今回、霊的戦い専門課程十一月度の為に、クリスマスに関して、いろいろ勉強しています。そこで意外な事実を発見しました。
イエスさまがお生まれになったのは、十二月二十五日ではありません。三百六十五日中のどこかでお生まれになったわけです。十二月二十五日は、イエスさまの誕生日ではなくて、「誕生を記念する日」です。じゃあ、イエスさまが生まれた日は、一体、いつなのか?しかし聖書には記録されていないのです。けれども、それを特定する情報は聖書の中にあるのです。詳しく聞きたかったら、霊的戦い専門課程にご参加下さい。

ベツレヘムの野で羊を飼っていた羊飼いの所に、なぜ、最初に主の栄光が現れたのでしょうか?
そこには大きな理由があります。ミカ書五章では、『ベツレヘムから支配者が出る。』と預言されています。実は一人のユダヤ人の聖書学者が、興味深いことを著書に記しています。

“エルサレムとベツレヘム、および周辺の野原は、普通の羊が飼われていたのではなかった。ユダヤ人の規則によれば神殿奉仕のための羊であった。ベツレヘムの羊飼いたちはやがてエルサレムの神殿で犠牲となる運命にある羊たちを見守っていたのである。
天使たちのメッセージは、やがてイエスご自身がささげものとなり、動物犠牲の時が終わることを意味していた。イエスの誕生によってもたらされた福音は人類だけのものではなく被造物全体のものであった。”

ベツレヘム郊外で飼われていた羊は、単なる羊ではなかったと言うのです。ベツレヘムからエルサレムは、たった十キロぐらいの距離です。エルサレムからベツレヘム間で飼われていた羊は、やがて神殿に連れて行かれて、人間の罪の犠牲として血を流す、生け贄用の羊たちであったのです。
そんな所に主の栄光が現れて、福音を伝えたのは、福音が人だけのものではなく、羊も含めて、被造物全体への福音を意味していたというのです。羊はもう死ななくてもいいと。イエスさまの十字架の死は、羊に対する福音でもあったのです。

The Gospel。「The」が付くと、それ以外ないという意味です。イエスさまの誕生は、神が創造された被造物全体に対する良い知らせであったのです。

“キリスト教というのは、たましいの救いだけを言っていると勘違いする人が多いが、たましいの救いは被造世界の救いのワンステップである。”と、ある神学者が語っています。
“たましいの救いを得た人々は、被造物の救いに乗り出すべきである。我々が神の目的と計画に従って、各自の使命を実行する時に、被造物全体が救いの中に入っていく。”

イエス・キリストを信じるとは、被造世界の救いのためのワンステップです。人間に被造物全体を救うためのスイッチが神から貸与されているのです。我々は救われたら、今度は、被造世界全体が救われるために働く必要があるのです。

“聖書は、人類と被造物全体の救いを約束するがゆえに恵みを与える書物なのである。”

ということです。
今や、被造世界も含めてこの世は、悪魔の手に陥っています。しかしイエスさまがこの地上に来てくださったのは、悪魔の手から人類を救い出し、さらには、神が造られた被造物全体を救い出す為でした。
先ほどもお話ししましたが、福音とは、戦争に勝利したことを国民に伝える良い知らせとして、聖書は描いています。敵に囚われていた人類が、被造物が、イエス・キリストの誕生によって解放される。これが福音の神髄です。

一度しかない人生、本物の神さまを信じていただきたいです。その方は決して人が死ぬ事を喜んでおられません。傷つくことを望んでいないのです。救い出してあげたいと願っておられます。
救い出された者たちは、『彼らは昔の廃墟を建て直し、かつての荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。』とイザヤ書六十一章四節で結んでいます。
まさしく今年、神さまが七十年が満ちた二〇二一年に与えてくださった「回復と再建の年」というテーマと一致するものです。そのようなことが、残された月日の中に顕著に表されますように、心から願っています。

天の父なる神さま。み名をあがめて心から感謝をいたします。今日こうして礼拝で証しをさせて頂きました。主がなしてくださった素晴らしい証です。残された日々、さらなるみわざを現してください。福音が、私たちだけのものではなく、被造物全体のものであることを感謝いたします。私たちを、被造物全体の救いのために用いて下さい。
尊いイエスさまのみ名によって、この祈りをみ前におささげいたします。アーメン。

主に大きな拍手をいたしましょう。お隣の方に、「主は生きておられます!」と宣言してあげてください。ありがとうございました。