「70 年が満ちた2021 回復と再建の年!~永遠のいのちを得る為にパート2~」

それはイエス・キリストによってもたらされた、恵みの時代の到来そのものでした。この恵みの時代、イエス・キリストによって、どのような偶像があったとしても、偶像礼拝があったとしても、人は罪赦されて救われるのです。イエスさまが特に関心を持たれたのは、サマリヤ地方と、デカポリス地方であったのを、福音書から知ることができます。この地域は歴史的にどのような地域かと言いますと、元々、北イスラエルでした。

私たちは日々、様々な選択をしますが、それは本当に難しい事です。よく祈って選択しないといけないことがわかります。なぜなら日々の選択は、未来の新しい世代にも大きく影響を与えるものだからです。

先にも少し触れましたが、ガド族とルベン族の人たちは、自分たちの新しい世代のために、最も適していると思われた領地を手に入れました。モーセに頼み込んで、ヨルダン川の東側を手に入れたわけです。
しかし歴史は進み、それから千四百年後、イエスさまの時代、その地域はどのようになっていたのでしょうか。ガド族とルベン族の地は、「デカポリス」と呼ばれる異教の地となっていました。二つの民族は跡形もなくなっていたわけです。現代も、ヨルダン川の東側地域は、イスラエル領ではありません。ヨルダン王国に属しています。ヨルダン川の西側はかつてのサマリヤ地方です。そこは、「パレスチナ自治区」と呼ばれ、かろうじてイスラエル領内に含まれています。このように、良かれと思った選択が、未来を苦しめることにもなりかねません。神のみこころを第一に求めて、欲に駆られて選択しないようにしなければならないことを教えられます。

イエスさまはサマリヤ地方に強い関心を持たれ、何度もその地に行かれました。そして、そこにリバイバルが起こったと記録されています。ルカ十章においては、サマリヤ人を題材に、有名な「良きサマリヤ人の例え」を話されました。

エルサレムからエリコに下る道の途中で、一人の旅人が強盗に襲われて倒れていました。倒れていた人は、たぶんユダヤ人であったと思われます。この道を境に、ユダヤ人居住区、サマリヤ人居住区と分かれていました。二つの民族が道路を境界線として、住んでいたのです。しかしこの道は、両民族にとって、共有の道でした。民族とは、過去に仲が悪かった結果として形成されるものです。
倒れていた旅人を確認したら、ユダヤ人だったわけです。サマリヤ人にとって、敵方が倒れていたわけです。普通ならば、「やったー!」と喜ぶはずです。また、逆も真なりです。普通、敵方が倒れていたら、喜んで、側を通り過ぎるはずです。
しかしこのストーリーでは、サマリヤ人の敵が倒れていたのにも関わらず、サマリヤ人は、とことん敵であるユダヤ人を助けたのです。同胞の祭司とレビ人は、見ないふりをして通り過ぎたのです。しかし助けたのは、敵方のサマリヤ人だったわけです。
そして、隣人とは、敵方を愛し受け入れ、介抱することであると教えられたのです。サマリヤ人のようになることが、「隣人を愛する」こととして、示されたのです。
もしも自分が倒れていたとしたら、助けてほしいと思うはずです。だから「あなた自身のように隣人を愛せよ」というわけです。私たちも、敵が倒れたら喜ぶのではなく、介抱する者になりたいと願います。
イエスさまの時代に、ユダヤ人とサマリヤ人が、お互いにどのくらいの敵対関係であったのかを歴史的に知ると、このストーリーの理解は、さらに深くなります。聖書は、紀元前四世紀から紀元前一世紀までの間については、何も語っていません。この時代を「中間時代」と呼んで、その間のことを知るには、世界史の資料を見るしかありません。

実はイエスさまがお生まれになる、百二十八年前(紀元前二世紀)ですが、ハスモン朝という、ユダヤ王朝ができました。その王、ヨハネ・ヒルカノス一世は、隣に住んでいるサマリヤ人たちの地域に攻め込んで、彼らの神殿を破壊し、大勢のサマリヤ人たちを虐殺しました。それはイエスさまがお生まれになる、百年少し前の話しです。
この歴史を知るとき、イエスさまの時代の両民族の感情を推測できます。サマリヤ人にとって、ユダヤ人は最悪です。自分たちの神殿を壊し、仲間を殺したのですから。またユダヤ人たちはそれほどまで、サマリヤ人たちを憎んでいたのです。両者の緊張状態は半端じゃなかったはずです。
このような歴史的事実を知る時、隣人を愛するというテーマは、生やさしいものではないことが分かります。現代人はヒューマニズム的に、簡単に考えますけれど、かなり根深い民族対立を含んだテーマであるのです。
当時、ユダヤ人もサマリヤ人も、同じ神を信じ、礼拝していました。旧約聖書に出てくる、天地宇宙を造られた、唯一の神です。違うところは、礼拝の場所だけでした。サマリヤの女とイエスさまの会話の中で、それが分かります。彼女は「どちらが、本物の礼拝所ですか?」と聞いています。「エルサレムですか?それとも、ゲリジム山ですか?」と聞いています。サマリヤ人たちは、ゲリジム山に礼拝所を設けて、礼拝していたのです。しかしユダヤ人たちはサマリヤ人にとって、最も神聖で、重要な場所に攻め込んで、破壊し、殺したのです。これは、私がその場に行って実際に撮った写真です。
神殿が壊されているのが分かります。今でも、サマリヤ人たちは、サマリヤ教団を維持して、昔ながらの礼拝を行っています。彼らは、ユダヤ教徒よりもずっと律法に厳格です。彼らは今でも生贄をささげています。「大祭司」という人もいます。私は大祭司に会ってきました。ヘブル語の新約聖書を持って行って贈呈しました。私は、「この中にあなたたちのことが、書いてありますよ。」と言いました。「イエスさまはあなたたちのこと、良い人だと言ってますよ!是非読んでください!」と言ったら、喜んで受け取ってくれました。今頃、読んでいるかどうかは知りませんけれど、いずれにしても、イエスさまの時代の互いの感情は、半端じゃなかったわけです。

毎年、八月に入りますと、日本においても暗い歴史が色濃くなります。今日は八月一日ですが、一九四五年八月六日は広島に原爆が落とされた記念日です。一瞬にして、十四万人から二十万人という人が亡くなったのです。そして一九四五年の八月七日、その翌日、アメリカは何を行いましたか?豊川市上空に来て、海軍工廠に爆弾を落として、三十分ぐらいの間に、二千五百人ほどの若者たちが死に、一万人以上が負傷したのです。
しかし日本人は案外、アメリカに対しては、あまり憎しみを持っていないみたいです。アメリカはうまく戦いました。彼らは、空から自分たちの顔を見せずに爆弾を落としたからです。そして戦争に勝って日本に入る時は、日本を助ける救援隊のようにして入ってきたわけです。「日本人を助けますよ。食料をあげますよ。衣服、あげますよ。」それで日本人はアメリカに騙されたところがあります。
それはさておき、どうしてこのような戦争に発展したのかというと、日本が「大東亜共栄圏」という地域を設定して、世界を支配しようとしたからです。これは一九四二年のアジアの地図です。赤いところ全て、日本でした。「日本の神々を世界に知らせよう」という国家神道のイデオロギーにより、海外にも神社を建てて、植民地政策を施しました。その結果、多くの人たちを苦しめ、やがては太平洋戦争にまで及んだのです。
そんな中、最も強い植民地政策を実施したのが、お隣の朝鮮半島でした。日本は朝鮮総督府を作って、韓国語を日本語に置き換え、文化・習慣も全て日本式に変えました。
日本が朝鮮半島に攻め込む前、そこにはリバイバルが起こっていました。しかし日本が入って、神社を多く作り、教会を強く迫害しました。
実は、今日の午後から「リバイバル聖会・スペシャル」がありますので、是非とも出席して下さい。そこで誰がメッセージを語るのかと言うと、私の父、滝元明がメッセージを語ります。天国から帰ってきてメッセージというわけではないですが、二〇一四年、彼が召天する一年前、韓国で語ったメッセージを視聴します。
今から皆さんに、そのメッセージの中心的部分を見ていただきます。実際は一時間のメッセージですが、七、八分にまとめたものです。彼は自分の体験から、日本が韓国でどんなことをしたのかを語っています。父はこんなメッセージを語っていたのかと、ちょっと感動しました。では、よろしくお願いします。
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いかがでしたでしょうか。ここに隣人という概念が、強く含まれていたと思われます。私たち日本人は、かつて、このような大きな罪を犯しました。しかし苦しみを受けた韓国の皆さん方の立場に立って、隣人として歩んでいるでしょうか?日本人から大きな被害を受けた、韓国の方々の立場に立って、韓国を愛することが「隣人を愛する」こととなります。
一九九二年に霊的戦いが始まった時、ピーター・ワグナーという先生が、新城教会で何が起こったのか、説明してほしいと言われました。それでいろいろと話しましたら、彼は目を丸くして、「それはアルゼンチンで起こったことと同じだ!」と言われました。それで、アルゼンチンで霊的戦い国際会議が開かれるから来なさい、と言われてアルゼンチンに行きました。
そうしたら、シンディー・ジェイコブスという、新城教会にも来てくださった先生がおられて、私たちに預言をして下さいました。それは、「日本列島は一見、空を飛んでいる龍のように見える。しかしひっくり返すと剣に見える。」と言うものでした。そして、「日本はやがて聖霊によってひっくり返され、霊的戦いの剣として、かつて日本が傷つけた諸国に良き隣人として、神の国をもたらす器として出て行き、用いられるでしょう。」という預言でした。
近年、まさしくそれが実現しました。気がつけば、私たちは、アジアに霊的戦いの剣と共に、和解の使者として遣わされるようになりました。一見矛盾に見える、「神を愛する=偶像の破壊」「神を愛する=隣人を愛する」という概念が、「霊的戦いの概念」が重なるとき、矛盾なく実現するのです。暗闇の力を打ち破りながら、かつて傷つけた民族のところに、良きサマリヤ人のように出て行き霊的解放のために遣わされるとき、神の国が実現するのです。
今日、ここに韓国の方もおられますし、韓国系の方もおられます。また、様々な国の方が新城教会には来てくださっています。民族的軋轢を越えて、お互いの立場に立ち、愛し合っていくことは、神の国到来のために、最も重要なことです。
この八月、戦争の記憶が色濃くなる季節に、もう一度、私たちは神の前に悔い改め、神を愛し、隣人を愛する者とさせていただきたいと願っています。

最後に一言お祈りさせていただいて、私のメッセージに代えさせていただきます。

天の父なる神さま、み名をあがめて、礼拝をささげることができ、心から感謝します。聖霊さま、一人ひとりに語ってください。日本が二度と剣を持って世界に出てゆく事がありませんように。霊的戦いの剣を持って、諸国を悪しき力から解放するために、人々を愛して出て行く国となりますように。イエス・キリストのみ名によって祈ります。尊いイエスさまのみ名によって、祈りをみ前におささげいたします。アーメン。