2026年3月1日(日)新城教会主任牧師 滝元順
イザヤ書 62章10節~11節
10 通れ、通れ、城門を。この民の道を整えよ。盛り上げ、土を盛り上げて、大路を造れ。石を除いて、もろもろの民の上に旗を揚げよ。
11 見よ、【主】は地の果てに聞かせられた。「娘シオンに言え。『見よ、あなたの救いが来る。見よ、その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。」
皆様、おはようございます。
いよいよ三月を迎えました。花粉の飛散する季節となり、心身共につらい時期を過ごしておられる方もいらっしゃるかもしれませんが、花粉にも主を褒めたたえさせ、この季節を力強く乗り切っていただきたいと願っております。
現在、世界はたいへん危険な状態にあります。本当に祈りが必要とされます。なぜならば、昨日、イスラエルとアメリカがイランに対して攻撃を仕掛け、ホルムズ海峡が事実上閉鎖されたからです。これから情勢がどのように展開するのか、世界的な情勢は極めて危険な状況に向かっています。
日本人は、わが身に難が降りかかってこない限り、なかなか実感が湧かないところがあります。しかし早めの段階から、真剣に祈っておくことが大切です。ぜひ、このテーマについても祈りたいと思っております。
さて先週は、皆様にお祈りいただきまして、モンゴル、韓国、日本という枠組みによる聖会が開催されました。このような聖会は、そう簡単に実現できるものではありません。まさに聖霊の導きの中で与えられた聖会であったと確信しています。
そして本日は、先週も語った「国々の上に旗を掲げよう」という御言葉から、「パート2」としてお話しをさせていただきます。したがって先週の復習となる箇所も加えまして、今回、新たに与えられた不思議な証しもありますので、期待を持って聞いていただきたいと思います。
本日読んでいただきましたイザヤ書62章10節から11節の箇所は、何気なく読みますが、その内容は誠に深く広く、そして永遠の世界にまで及んでいる箇所です。先週もこのことの意味についてお話ししました。
「この預言は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放され、故郷へ帰る道が整えられる様子を描いています。しかしそれだけに留まらず、神が彼らを救い、栄光をもたらすという希望に満ちた約束のメッセージです。さらには、この預言は旧約聖書の文脈を超えて、イエス・キリストの到来と彼がもたらす普遍的な救いを指し示しており、キリストの再臨によって完成する『新しいシオン』、すなわち神が人々と共に住まわれる『新天新地』の預言でもあります。」
たったこの二節の中に、過去・現在・未来と預言は展開していくのです。
イザヤ書62章10節から11節の文脈の中に、私たちも過ごしていることになります。そして教会のすべての働きがどこを目指しているのかと言えば、それは、やがて来るべき「新しい天と新しい地」、すなわち、イエス様の再臨を目指して働きは進んでいくわけです。先週もそのことをお話しいたしましたが、今回のモンゴル、韓国、日本の聖会もまた、永遠を目指す働きでした。
会場は「カチョン」という場所で、ソウルにある一つの教会が所有しているキャンプ場といいますか、聖会のための施設で、三つの国が集まっての聖会でした。
詳細につきましては、本日の午後、参加された方々の証しを含め、様々な映像などもご紹介させていただきます。また韓国で購入したお菓子も用意しています。この素晴らしい聖会の報告を聞いていただきたいと願っています。
モンゴルからも三十名ほどの方々が来られました。その方々の半分はゴビ砂漠から来られました。昨年、私たちが訪れたゴビ砂漠の教会のメンバーの方々、先生方が来てくださいました。この方々は、ここに来るまでに一体、何頭の羊を売って旅費を作ったのだろうかと思わされました。彼らは猛烈に感動しておりました。彼らが一番感動したのは何であったかと言えば、聖会もさることながら、それは「海」でした。生まれて初めて海を見たと言うのです。モンゴルには海がありませんから、彼らは東海、すなわち日本海側の海を見て、まさに狂喜していました。「これが海か」といった様子です。私たちは大草原を見て感動しますが、彼らは海を見て感動していました。
先週もお話ししましたが、私の父が1985年に主から語られた言葉を、私が偶然発見したというお話をいたしました。「滝元明記念ルーム」にあるファイルの中から見つけた、彼が1985年に主からいただいた言葉です。これは1985年に主が滝元明に、愛知県民の森の山上で語られた言葉です。
「その時、私に神様がビジョンといいますか、神の啓示というものを心の中に静かに語りかけてくださいまして、このような御言葉を与えてくださいました。それは、使徒の働き13章41節の言葉の中に、『わたしが一つの事をあなたがたの時代に行うからだ。それは、だれかが告げても、あなたがたには信じがたいことである』という一節です。この言葉を私のうちに神が語ってくださいました。この教会の中に、この新城の中に起こしてくださることを、心から私は信じております。ですから、期待を持っていただきたいです。」
1985年、今から四十一年前の言葉ですが、振り返れば、この四十一年間、信じられない、考えてもみないようなことがたくさん散りばめられていました。しかしこれは、現時点において、未来に向かって主がもう一度、天から語ってくださった言葉ではないかと私は受け取りました。
使徒の働き13章41節
「見よ、嘲る者たち。驚け。そして消え去れ。わたしが一つの事をあなたがたの時代に行うからだ。それは、だれかが告げても、あなたがたには信じがたいことである」
皆さん、期待してください。これから、誰が告げても信じることができないほどの、予想もつかない主の業が起こっていくということです。
しかしそれは、ただ待っていれば棚からぼた餅式に降りてくるものではありません。私たちに任された領域を受け取り、主の御心に忠実に従っていく必要があるわけです。
この言葉の発見と共に、輝君に不思議なことが起きたことも先週語りました。韓国の聖会の中で、輝君に起こった出来事をお話ししましたが、皆、大変びっくりしていました。今回、この聖会のために祈っていた時に、二つ、主は不思議なことをしてくださいました。これは非常に大きな励ましでした。
「石を除いて諸々の民の上に旗を掲げよ」とありますが、「石を除く」とは、第一に、日本、韓国、そしてモンゴルの国々の間にある「妨げ」を取り除くことです。歴史を振り返れば、様々な負の歴史があり、その石を取り除かなければ、なかなか一致できない部分があります。また、悪しき霊的な石も転がっています。この石を取り除くためには霊的戦いが必要です。
「旗を掲げる」というのは、ただ単に旗を振れば良いというものではなく、戦いに勝利した結果として掲げられるものです。旗を掲げるに至るまでには、様々な霊的戦いがあるということです。今回、日本、韓国、そしてモンゴルという、通常ではあり得ない枠組みの集会でしたが、第一聖会の中で、イ・ビョンチョル先生が語ってくださいました。この三つの国は「矢」のようであると話されました。矢とは、先端に矢じりがあり、棒が長く伸び、一番後ろに羽がついています。モンゴル、韓国、日本というのは一本の矢であり、最先端の矢じりがモンゴル、あるいは脱北者ではないかと。そして韓国が柄の部分であり、羽の部分が日本ではないか、というお話でした。羽は小さく、強くはないですが、羽がなければ矢は真っ直ぐに飛ぶことは出来ません。日本の教会は、方向性を示すために主が建てられた教会であると話をされ、預言的なメッセージとして受け止めました。
モンゴルは、かつて世界の大帝国でした。大陸の半分ほどを自国としたチンギス・ハーンの時代、彼らは騎馬民族としてどこへでも行くような人々でした。韓国人も日本人もその子孫です。三つの国が一つになる時、主が大きな御業を現してくださるというメッセージでした。
神様は一つの国だけでは事を成就されません。一致の中で神の業は進んでいくのです。
モンゴルは、共産諸国、イスラムの国々のただ中にあって、1992年から自由諸国の一員となりました。ユーラシア大陸の鍵穴のような国です。イエス様が再臨されるためには、共産諸国とイスラムの国々を突き抜けて、エルサレムまで福音を伝えなければなりません。現在、福音宣教が最も困難な諸国は日本を含め、特にイスラム諸国です。
今回、イスラムの中心であるイランで戦争が始まりました。これからどういう展開があるのでしょうか。そこへ福音を届けなければ、終わりは来ないということです。モンゴルは、歴史的にもこれらの国々と密接な関係があり、今でも良い関係を保っています。ですから、この鍵穴のようなモンゴルを拠点として、アクセスできるのです。
「み国の福音は全世界に宣べ伝えられ、すべての国民、民族に証しされ、それから終わりが来ます」という御言葉があります。福音はエルサレムから西回りに進み、ヨーロッパ、アメリカ大陸、そして日本へと入ってきました。最後はエルサレムに戻らなければならないわけです。そのために突破しなければならない国々があります。そのための戦いの「矢」となるのが私たちであるわけです。
この働きは偶然出来上がったように感じられますが、そうではなく、背後に聖霊の強い促しと導きがあったことを今回強く感じました。
私たちは、このみ国の福音を全世界に宣べ伝えるわけですが、「福音とは何か」ということです。実はキリスト教は、本当に不思議な宗教です。今日、聖餐式がありますが、聖餐式についての御言葉の中に、このような言葉があります。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」
福音とは何か。聖餐式の中にすべてが凝縮されていると言っても過言ではありません。それがイエス様の十字架です。聖餐式の中で「主の死を告げ知らせる」ということです。「主イエス様は死なれました!」と世界に告げよと言うのです。
イエスが死なれたことを告げることが宣教の中心であると、あまり強調されてこなかったかもしれません。通常、教祖が死んだことを宣伝すれば、その宗教には人が集まらなくなります。教祖が亡くなったと言えば、皆が離れてしまいます。普通、自らの教祖が亡くなったことを宣言して回るような宗教はありません。
しかし、キリスト教は凄いです。なんと「イエスが死なれた」ということを世界に告げ知らせよと言うのです。なぜかと言えば、イエスの死は、我々人類が超えることのできなかった「死」を、内側から打ち砕いたからです。非常に逆説的です。死を、自らの死によって打ち破られたのです。イエスの死は、死を打ち破る最も強力な武器となりました。ですから、私たちは「イエスは死なれました!」と、世界中に告げ知らせるのです。そうすれば、人類を覆っている死の力から解放され、永遠の命を得ることができるということです。本当に私たちは素晴らしい福音を受け取っています。本日の聖餐式でも、主の死を告げ知らせ、宣言するのです。
キリスト教がどのように発展してきたかと言えば、「死」をテーマに発展してきました。先週も語りましたが、殉教者です。
「殉教者の血は教会の種である」は、二世紀の教父テルトゥリアヌスが残した有名な言葉です。殉教者の死が教会を成長させる原動力となったのです。
振り返れば、二千年の教会史を見れば、どれほどイエス様のために命を捨てた人々がいたか、計り知れません。その死により、それが教会の種となって、教会は今日まで成長し続けたということです。
特に韓国は、世界でも稀に見るキリスト教大国ですが、なぜ韓国の教会がこれほど成長したのか。それは多くの殉教があったからです。先週もお話ししましたが、韓国におけるキリスト教の歴史は、世界でも類を見ないほど、激しい迫害と殉教の歴史でした。韓国の教会は自発的に信仰を受け入れた信徒から始まり、その後の過酷な試練を乗り越えて、世界有数のキリスト教国家へと成長しました。そして、その迫害に関わった国がどこであったかと言えば、誠に悲しいことに、日本であったのです。提岩里(テガンリ)教会で起きた事件に触れました。1919年7月19日、日本軍はこの教会に村人を押し込めて封鎖し、多くの人々を殺害したという事件です。この事件は、韓国人ならば知らない人はほとんどおりません。韓国の歴史の中で、必ず語られます。
日本は韓国の土地に多くの神社を作りました。韓国国内だけでも千五百ほどの神社を作ったと言われます。春川にも春川神社がありました。今でもその跡地が残っております。そのような殉教の血によって、韓国教会は出来上がったということです。
ヨハネの黙示録6章9節から10節の御言葉は、殉教者たちが今、何をしているのかを主が教えた箇所です。