今日本は経済的に苦しい人もたくさんいますが、物や食料が大量に捨てられている状況もあります。矛盾しているように思えますが、多くの日本人は、日本は豊かだと思ってるかもしれません。しかし、霊的には飢餓状態にあります。あなたは霊的に渇いてる人に対して、見て見ぬふりをしてはいませんか。それは、困ってる人に手を差し伸べない、食料を与えないことと同じではないでしょうか。
では私たちは何をすべきですか。マルコの福音書十六章十五節にはこうあります。
『それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」』
二〇二六年、今年よりも来年のほうがもっと良くなるだろうと思っている人は少ないのではないかと思います。
主が帰ってこられるのが近いと言われている今、クリスチャンにとっては、間もなくイエスさまにお会いできるという希望があります。一方で、サタンは必死に人々を惑わしてきます。霊的危機に直面している人を、主のもとに導くことが、急務だということです。ですから皆さん。二〇二六年は、行動をもって主を証ししましょう。そして、「神様は本当にいるんだね」と、多くの人に知っていただけるよう、伝えていきましょう。
ヤコブは、アブラハムの信仰を称賛してます。それは、アブブラムが人生のすべてを神に捧げ、信仰においても行いにおいても、主の御心を現していったからです。行いは救いの手段とはなり得ませんが、信仰をもって行っていくとき、さらに信仰が成長し、完成していくのです。
『信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです』(ヤコブ二章十七節)の御言葉どおり、二〇二六年は、聞くだけの者ではなく、言うだけの者でもなく、生きたクリスチャンとして、主の素晴らしさを証しする信仰者として、主に喜ばれる、主の役に立つ働きに励んでいきたいと、切に願っています。
≪上條実牧師≫
ハレルヤ。二〇二五年も皆さんにお祈り頂いて守られてきたことを感謝します。
特に、家内のためいつも皆さんが祈ってくださり感謝します。高いとこからですが感謝いたします。家内がいつ今の病気が発症したかと思い調べました。私が異変を感じたのは二〇〇八年です。二〇〇八年にちょっと精神的に調子が悪くなって来ました。それがパーキンソン病から来るものだと、私はわかりませんでした。その後多くの病院に行きました。そして精神的な病気もパーキンソンから来ると分かり、治療をして来ました。一時直ったかと思う様に普通となりましたが再度、悪化してしまい、治療し続けましたが病が悪くなり、現在に至ります。約十七年間の月日が過ぎましたが、主が守ってくださり現在悪い中でも安定し日々を過ごしております。皆さまに祈られてるという事とは感謝なことだと思います。
さて教会に多くの素晴らしいことを行ってくださいましたが、二〇二五年は新しい世代が主のために働き始めました。礼拝での賛美リードや伴奏も世代交代し、新しいことが始まりました。第2コリント十二章九節~十節
『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』
これはパウロが語ったことばです。パウロは素晴らしい預言者であって、素晴らしい働きをした人物です。しかしそのパウロが「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と語っています。彼は第二コリント十一章二三節~二七節を見ると、様々な苦難、苦労をした人物です。
『彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば 食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。』
誰も体験していない壮絶な人生を送って来た人物です。パウロは「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と語りました。
神は、弱さを通して勝利を現される、逆説的な方法を好まれます。
聖書を見て行くとパウロだけでなく、無学のただ人であったペテロやヨハネを通して世界全体の歴史をひっくり返されることをなされました。弱い者を用いて偉大なことをなされたのです。
伝道中のパウロやイエスは何度も危険な状況に陥りましたが、神のご計画がなされるまで命は守られました。そしてイエスは私たちの罪のために十字架にかかり死なれましたが、よみがえり勝利を収められました。同じように私たちも試練の中にあっても勝利や強さを体験させていただくことができます。弱さを覚えるような状況は、私たちの信仰を成長させ、逆転の勝利の極意にまで到達させてくれるチャンスの時なのです。
私たちは病や様々な問題、人間関係等々によって弱いものです。しかし弱い者を強くしてくださったっていうことを感じるときにすごく私は励まされます。
ヨエル書3章10節に
『あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ち直せ。弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ。』
とあります。また第一コリント十二章二二節に、
『それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。』
弱さに目を止めてしまうと、どんどん悲観的な思いに、暗闇に引き込まれてしまいます。
これは霊的戦いです。悪魔は生きていて、いろんな声を私達に本当に聞かせて来ます。
「この頃の賛美は知らない賛美ばかりだ」など、否定的な考えや思いが襲ってきます。しかし弱さは比較的弱いものと見られる器官がかえってなくてはならないものなんです。
神は弱さを確実に強めてくださる、そして祝福に変えてくださるということです。第1コリント十二章十九節から二二節のところには体の器官のことが書いてあります。先ほど読んだ二二節に
『それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。』
若い世代が動き始めました。始めは弱さが見えるかも知れませんが弱く見える部分が、かえってなくてはならないであり、弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ。パウロは「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と語りました。神は、弱さを通して勝利を現される、逆説的な方法を好まれます。教会が世代交代して行く時、神は弱さの中に働かれます。私たちは、年を取ってもなお実を結びます。そして若い者は勇士となり、弱いときにこそ、私は強いからです。年を取ったものも実を結んでいくことができるし、しかしこの弱さの中で、若い人たちは主が強くしてくださる。働いてくださるということなんです。ですから、この教会はこれから大きく変わっていくと信じます。二〇二五年恵みを与えて下さいましたが、若い世代が主に力を求めて、先ほども岡本牧師が「行動しなさい」と言いましたけども、主のために働き始め、行動し始めたらすごいことが更に教会に起こってくることを信じます。私二〇二六年に与えられたのは、弱いときにこそ神が強くしてくださる。だから自分は駄目だと思わないで主に期待し、主に祈りましょう。行動しましょう。子どもからお年寄りまで、さらに大きな恵みを与えてくださることを信じる時、大きな業が起こされることを信じましょう。期待しましょう。
皆さんぜひとも若い人たちがもっと主にあって活躍するように、祈っていきましょう。そして、本当に自分が弱さを覚えている人たちがいたならば、その弱い人に本当に主が働いてくださると信じます。
私はこの頃メッセージするとき、弱さを体験している家内に祈ってもらうんですね。彼女は弱いものですが、神の油注ぎいただいていると信じて祈ってもらいます。弱さが見えるかも知れませんが弱く見える部分が、かえってなくてはならないであり、弱い者が勇士なのです。二〇二六年は弱さが強くなっていく年。弱いものが更に更に用いられていることを信じていきたいと思います。