2026年カウントダウン・ワーシップ

この箇所が伝えようとしている主要なメッセージは、まず、いま申し上げた 福音の『壁』の撤廃、救いはユダヤ人だけのものではなく、全人類に開かれているということです。当時、ユダヤ人は異邦人を「汚れたもの」と見なし、交際を禁じていました。しかし、 神はペテロに、汚れた動物が並ぶ敷布の幻を見せ、「神が聖めたものを、聖くないと言ってはならない」と告げました。これは、人種や民族による差別の壁を神自身が取り払ったことを意味します。

第二に、聖霊による承認です。このエピソードのクライマックスは、ペテロが説教している最中に、割礼を受けていない異邦人の上に聖霊が下ったことです。
ペテロや同行したユダヤ人信者たちは、これを見て驚愕しました。神が聖霊を与えたという事実は、「神が異邦人を受け入れた」という動かぬ証拠となりました。これにより、「ユダヤ教を経て・割礼を受けてからでなければクリスチャンになれない」という当時のクリスチャンの常識が覆されました。

そして三つめは、先入観からの解放と教会の成長です。この出来事は、指導者であるペテロ自身の変革を促すものでした。ペテロほどの使徒であっても、「異邦人は救われない」という強い先入観を持っていました。神は幻と実際の出会いを通じて、この出来事の後、パウロを主がとらえられ、彼を通して異邦人への宣教が本格化する前に、教会の中枢に「異邦人伝道の正当性」を認めさせたのです。11章で、ペテロはこの出来事をエルサレムの教会に報告し、教会全体が「神は異邦人にも命に至る悔い改めを与えられたのだ」と納得することになります。

この一幕が伝えるメッセージは「人を分け隔てなさらない神の愛の広さ」です。
使徒の働き10章34節

34そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、
35どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。

この後、使徒の働き15章には、エルサレム会議が開かれて、ペテロが確信したこの原理は世界共通の公同の教会として承認されるところとなりました。

使徒の働き15章28~29節
28 聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。
29 すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」

エルサレム会議で決定したことは、キリスト教の歴史においていわば「教会の憲法」が決まった瞬間とも言えるほど、極めて重要な決定です。
この会議で最も大きな争点となったのは「異邦人クリスチャンにも割礼を受け律法を守らせる」という、ユダヤ人と同等の宗教的生活様式を要求することに対する是非をめぐるものでした。そして、もしそうと決まっていたら、福音はユダヤ人を中心とした小さなグループにとどまり、今日のように私たちのもとに届いて大きな実を結ぶことはなかったと思われます。
異邦人に律法を守らせることを要求しないことを、もともとユダヤ人であった使徒たちが決定するということに、どれだけの勇気・へりくだり・そして神さまにある兄弟愛が必要であったか想像に難くありません。彼らは、自分たちが人生を通して正しいと信じてきた習慣を福音の元に放棄したのです。
『聖霊と私たち』と記してある通り聖霊さまが真理を明らかにされ、使徒を中心としたキリストの弟子たちがそれを受け取ったことがはっきり描かれています。

新しく迎える一年、神さまがどのようなことをされるか、私たちには知ることができません。ただ、日曜日に充彦先生が語られていたように、一歩一歩、主に信頼して歩んでいく。私たちにはそれしかできません。五歩も十歩も、いや二歩でさえ、私たちには飛び越えて進むことはかないません。一歩一歩、信仰によって進む、それがどれほど苦しく、心細いものであったとしても、時にとどまりときに後退してしまったとしても、また立ち上がって一歩一歩、それだけです。
新しい年も、神さまが下さるものを受け取れるように備えていきましょう。これが今晩の私からのメッセージです。古いものにとらわれることなく、新しい油注ぎの中で、神さまが下さるものを受け取れるように。「聖霊と私たち」と初代のクリスチャンたちが語ったように、聖霊に導かれて一歩一歩です。振り返るとき、私たちは神様がなさった輝かしいみ業によって信仰励まされ、さらに進むのです。



≪岡本信弘師≫

『行いのともなった信仰』

ハレルヤ! 主のみ名を賛美します。
皆さんのお祈りに支えられ、この一年も守られて感謝します。本当に月日の流れるのは早いですね。この二〇二五年最後の日、この場所で共に主を賛美し、新しい年を迎えることができる恵みを心から感謝します。

プレイズが始まってすでに三十五年となりました。事業も拡大し、今年は農業部門も開かれましたが、いつも皆さんにお祈りいただき、守りがあることを心から感謝します。
印刷・出版の仕事もいろいろ与えられていて、少し前、商談のために東京に行きました。そこで相手の担当者から、難しい要望が出されました。それを聞いて、「こうします」と即答できず、「頑張ります」と答えました。するとその担当者は私に、「岡本さん。頑張らなくてもいいから、結果を出してください。結果がすべてですから」と、笑いながらですが一喝されました。世の中では、特にビジネスにおいては結果が求められ、プロセスではなく、数字がすべて、「結果を出せ」と言われるわけです。
クリスチャンの世界においては、結果がすべてというわけではありませんが、神様に選ばれた私たちには、選ばれた目的、役割がありますから、どれだけ神様の役に立てるか、結果を残せるかはやはり重要です。それは、もちろん、この世的な、人間的な査定ではなく、神様の基準においてですが…。

さて、来年に向けて祈っていたときに私に与えられた御言葉は、ヤコブの手紙二章十七~十八節です。読みします。

『同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。』

この御言葉の中では、行いをもって信仰を表すということがポイントになるわけです。「信仰による行いなのか、行いによる信仰なのか」、信仰と行いのどちらが優先されるべきかとよく言われますが、パウロは、へブル人への手紙十一章で、『信仰がなくては神に喜ばれることはできません』と、信仰が要だということをはっきりと語っています。

また宗教改革で有名なルターも、「救いは神の恵みと信仰のみによる」と語り、信仰義認を主張しました。これは、当時の教会で、儀式や善行を重視し、お金を払えば罪が軽くなるとか、天国に近づけるといった教えが広まっており、聖書の教えが二の次にされていることに対する反発から、語ったことでした。ルターは、人は行いではなく、信仰によってのみ救われると確信していたのです。
また、人は信仰によって義とされ、その信仰をとおして聖霊が与えられると考えていました。信仰は聖霊の賜物であり、その信仰によって人はさらに聖霊を受け、キリストに結ばれて生きることができると言っています。

ヤコブの手紙二章十四~十六節をお読みします。

『 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。』

皆さんもよくご存じの御言葉だと思いますが、「目の前に、お金もなく、空腹で困ってる人がいます。皆さんならどうしますか」と、問われたらなんと答えますか? 多くの人が、「そんなに困ってる人がいるなら、もちろんその人にお金をあげますよ」、「食べ物をあげますよ」と答えるのではないでしょうか。しかし、この御言葉が語られた当時は、誰もが食べるにも困っていて、明日のこともどうなるかわからないというような状況下に置かれていました。そんな、自分が苦しくて、明日もわからないという状況の中で、自分を犠牲にしてまでも、その困っている人に手を差し伸ばし、愛を示すことができるかどうかということを問われているわけです。

アブラハムのことを少し考えてみましょう。彼は神に選ばれ、神に召され、行く所を知らずして信仰によって出て行った人でした。そして彼は、神様から、「わたしはあなたを大いなる国民とする」という約束を与えられました。すでにかなりの歳を取っていて、現実には子孫を持つことは難しいと思われましたが、アブラハムは神様の言葉を信じたのです。
このことによって、アブラハムは信仰によって義とされ、「信仰の父」と呼ばれるようになりました。しかし、本物の信仰とは、これで終わりではありません。イエス・キリストを信じ、クリスチャンとなった私たち。救われてまだ一年足らずの人もいれば、何十年もたっている方もいらっしゃいます。中には、途中で信仰から離れた方もいらっしゃいます。「ある一定の期間だけ私はクリスチャンでした」と言っても何の意味もありません。常に、イエスさまと共に歩む人生でなければ、意味がないのです。

アブラハムは、子孫を与えるという約束を与えられましたが、しばらくは子どもが与えられず、何度も、もう駄目かもしれないと不安になり、信仰がぐらついたことがあったかもしれません。しかし神様は、「あなた身から出る者が跡取りになる。あなたの子孫を空の星のようにおびただしい数にする」と、再び約束してくださり、彼はそれを信じ、受け取り、結果として百歳で、イサクを自分の手に入れることができたのです。
アブラハムは息子のイサクを本当に愛していました。しかし、イサクが成長したとき、イサクを捧げなさいと命じられました。これほど残酷な命令はなかったでしょう。不安や恐れ、葛藤があったでしょう。しかし、アブラハムは常に神と共に歩んでいました。その神への信頼の証として、彼は神様の命令に従ってイサクを捧げようとしたのです(このところでは、アブラハムの信仰と行いの、両方を見ることができます)。しかし、神様はアブラハムのその信仰を見られ、代わりのいけにえを与えたのです。アブラハムは試練を乗り越え、イサクを取り戻すことができました。神への全き信頼が、神様に喜ばれたのです。それで、後に彼は、『神の友と呼ばれたのです』(ヤコブの手紙二章二十三節)。

信仰と行いについて、考えてみましょう。例えば、皆さんがスポーツクラブに通って、優れたコーチに出会ったとします。しかし、いくらコーチが優れていても、出会っただけでは上達することはできません。コーチの指導を受けて、それを信じて行ってはじめて、上達していくわけです。
クリスチャンも同じです。私たちにとってイエスさまは最高の霊的な指導者であり、教師です。皆さんは、そのことを知っており、認めていますが、認めただけでは信仰が成長することはありません。今日の御言葉で語られていることは、単に、誰かを助けなさい、貧しい人に食料を与えなさいということではありません。イエスさまが願っておられるのは、私たちの信仰の成長です。そのためには、イエスさまが私たちのために犠牲を払ってくださった、私たちの神であるということを信じ受け入れ、そしてイエスさまの教えに従って歩み、実践していくことが大切です。そのときに初めて、成長していくのです。

そのことが本当にわかったとき、私たちは犠牲を払ってでも、愛を持って自分がどうなっても相手のために、隣人のために手を差し伸べることができるようになるのだと思います。神への信頼は、まず御言葉を受け取るところから始まります。
ヤコブの手紙一章二十二節には、
『みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。』とあります。
ですから皆さん。御言葉を実行していきましょう。「信仰」をいくら語っても、それに伴うものを見せていかなかったなら、主の働きは前進していきません。