神さまご自身は、私達が”今”という時を扱うかのように、過去も現在も未来も扱うことができる、全ての時を支配している存在であるということです。ですから、私たちが、全ての時を支配する神さまご自身の壮大なご計画を全て思い図り知ることはできないのは当然のことです。ですから、私たちが”今”という時しか生きることが出来ない限られた存在として神さまが用意されているご計画を受け取るためには、”今”、神さまが語られることに耳を澄まして、そのみ声をしっかりと聞いて、そして従順に従っていくということが鍵となるのです。2026年に私達に用意されている素晴らしいご計画を受け取るためにとても大切なことをヨハネの福音書2章から教えられております。
もう少し内容を見ていきましょう。婚礼の宴会においてぶどう酒がなくなってしまったことが背景にあります。当時の婚礼の行事はと大体一週間くらい行われていくものであったと言われています。宴会は花婿が主催するものでした。
その宴会の中でぶどう酒がなくなってしまうことは、祝福の象徴であるぶどう酒がなくなってしまうことであり、花婿の面目がもう丸潰れになってしまうそういった状況があったわけです。そのような状況の中でこのイエスさまの母マリアが、給仕の者たちにイエスさまが言われることを何でもしてあげてくださいと言付けていました。そしてイエスさまが出された指示は「水がめを水でいっぱいにしなさい」ということでありました。
当時ユダヤ人の家には、宗教的な汚れを落とすために手を洗うための水がめがあり、ユダヤ人にとって大切な習慣でありました。一つの水がめは80Lから120Lぐらい入るものでした。それが六つあったということなんですね。当時、パレスチナの地域では、現代のように水道をひねってもすぐに水が出るような状況ではなかったですね。
この給仕の者たちは、井戸から水を運ばなければなりませんでした。とても重労働であったと思いますが、給仕の者たちはイエスさまに従って水を満たしました。その後、7節から8節に当たりますが、ここにどれぐらいの時間があったのかは分かりませんが、イエスさまが給仕の者たちに「さあ、今汲みなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と言われて、給仕の者たちは宴会を取り仕切る世話役のところへ持って行いました。
この「さあ、今」という言葉は、原語のギリシャ語の意味合いは、①ちょうど今、今まさに、すぐに、今というその瞬間です。また、②〜だと〜なるから、さぁ今、という意味があり、だから今こうしなさいという背後に意図がある意味合いがあります。
そしてもう一つは、③命令、要請的な意味合いです。今そうしなければならないんだ。そんな強いイエスさまの訴えかけが、「さぁ、今汲みなさい。」という言葉に込められています。そのイエスさまの言葉に給仕の者たちは従いました。
そして、宴会の世話役の人が、それを味わってみると、なんと最高級のぶどう酒に変わっており、イエスさまが、素晴らしい奇蹟を行ってくだっさったということです。
この奇蹟の記事の中において、給仕の者たちの態度に注目すると、イエスさまの語られる言葉に対して、今も見てきたように、、本当に従順に従ったということを受け取ることができるかと思います。初めに水がめを水でいっぱいに満たすようにと言われました。どれぐらい水を運んだか分かりませんが、彼らはイエスさまの意図をはっきり理解することはできなかったと思います。井戸を往復する重労働に対して嫌だなと思うような時もあったと思います。ましてや、その水がぶどう酒に変わることなど、想像も想像もできなかったかと思います。しかしイエスさまの声に従って、それをまず満たしました。そしてさらにその水を宴会の世話役に持っていくようにとイエスさまに言われます。この給仕の者たちは、水だとはっきり分かったいました。当時は浄水設備もなく、普通の水というものは細菌感染するリスクがありました。当時の一般的な飲み物はぶどう酒でありました。濃い酒ではなくて水で薄めたものですが。酒は殺菌作用もありますので、一般的な飲み物とされていました。ですから、祝いの席に、世話役に水を持って行くということはありえない行為であります。
ましてやで、給仕の雇い人である世話役でもありますから、もし水なんかを持っていったならば、「お前は何を持ってきたんだ」と怒られるかもしれませんし、もしかしてその仕事を辞めさせられてしまうようなそんな危険性も給仕者たちにはあったわけです。しかし、そのような状況でさえも、給仕の者たちはイエスさまの声に従っていったということなんですね。
この現代社会において様々な情報が溢れています。私達の耳には隙間なくたくさんの雑音・情報が入ってくるこの現代社会だと思います。
2026年、私達は”今”という時の中でしか生きることができない限界のある存在として、神さまが”今”こうして欲しいと私達に語られる言葉に対して、従順に従う者となっていきたいと願います。給仕の者たちがイエスさまのことを100%理解できなかったように、私達も時に神さまの声に対して理解できないことがあるかもしれません。また給仕の者たちが自分の立場が危うくなるようなリスクを負ってイエスさまの言葉に従いました。イエスさまの声に従う時、私達もリスクを負う可能性がある時があるかもしれない、自分の身に危険が起こるかもしれない。そのようなチャレンジなことを神さまが私たちに語られる時があるかもしれない。
また、この水がめを水で満たすこと、水を世話役に持っていくような、自分の考えや常識、世の中の常識から一打逸脱するようなことを私達に神さまが語られることがあるかもしれないんです。しかし、そのような中においても、私達は主に仕える給仕の者として、しもべとして、勇気を持って大胆に神さまに仕えるものとなっていきたい、なってほしいと神さまが願っておられるとみ言葉を通して受け取らせていただいております。
そしてその延長線上に、主の不思議しるし奇蹟が現されていくことを覚えさせられております。私達の信じている神さまは全能の神です。どんなことでもすることができます。この奇蹟も神さまご自身だけで完結することもできたと思います。しかしこの記事の中では、給仕の者たちのイエスさまの言葉に従うという過程が必要とされていました。神さまは私達一人ひとりを必要とされています。この水をぶどう酒に変えるという奇蹟の意味は、イエスさまの十字架の贖いを示していると言われます。
この奇蹟が、イエスさまが主キリストであるということを示す最初のしるしでした。それはまさにこの旧約時代から新約時代へと新たな時代が切り開かれていく瞬間でありました。主の救いの業が現され始める瞬間です。そのために給仕の者たちが用いられたということです。
2026年、”今”こうしてほしいと神さまが語られるその瞬間のみ声に聞いて、従順に私達が従っていくならば、大胆に勇気を持って従っていくならば、私達主に仕える一人ひとりを通して、また新城教会を通して、イエスさまによって、新たな時代が大きく開かれていくような主の業、しるし、奇蹟が現わされていく。そんな2026年になると、神さまがみことばを通して語ってくださっていると信じます。主に期待して進んで行きましょう。
≪四元雅也牧師≫
ハレルヤ。こうしてここまで恵まれた集会のときを与えられましたことを感謝します。今年最後の集会ということで、私もこの1年間を省みながらどんなメッセージを語ってきたかなと思いながら今回のメッセージを組み立てさせていただきました。
私はこれまで、メッセージを受け取って編み上げていくその過程を楽しんだことはまったくなく、毎回必死に考えて、やっとのことで一つのメッセージを組み立てています。昨年私4回もメッセージをする機会がございまして本当に感謝でありますけど、他の先生たちはもっとたくさん機会があってメッセージされているんで、本当にすごいなと思っています。
でも毎回皆さんの前でお話するメッセージが完成して、準備が整ったときに、神さまが与えてくださったメッセージを自分自身がまず感動とともに受け取って、それから皆さんにお渡しさせていただいています。ですからお話する前に私自身がメッセージによって自分を省み、また反省し、また、へりくだらされる良い機会になっているわけです。
去年から今年にかけてのカウントダウンでは第1コリント8章9節のみことば、
ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。
また、昨年12月からつい先月の11月まで礼拝の中で語らせていただいた4回のメッセージでは、こういったテーマでお話ししました。
・2024/12正しすぎてはいけない
・2025/4クリスチャンの権利。あなたが主張する権利は愛に基づいていますか?
・2025/8クリスチャン人生に神様が与えられる本当の自由とは?御霊の実が結ばれるために
・2025/11御霊の賜物とそれを上回る道「愛」について
この一年間にお話ししたメッセージを、この機会に振り返ってみると、昨年のカウントダウンも含め、一本の筋道を見ることができるように感じます。それは、神さまの愛の広さ、その中で教会に与えられる一致です。そのことを通して教えられることは、神さまが私という愚かなものでさえも用いてくださり、私たちに必要な視点の一つを示してくださっているとしたら、本当に光栄なことだと感じます。今日は時間が短いので、そのことはこれからお話しすることも含め、別の機会にさらに掘り下げてお話ししたいと思っています。
この聖会の中で私がお話ししたいみことばは、使徒の働き 10章34~36節です。
34 そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、
35 どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
36 神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
今プレイズの中で、週に1回『今週の聖書のみことば』と題し、プレイズの各部署の責任者を中心に、社員全員にみことばを紹介するプログラムがあるんですけど、私11月のある日、このみことばをご紹介したんです。この年末にもう一度ここから話すように導かれています。
使徒の働きを読むと、聖霊に関する描写の多さに驚かされます。12使徒をはじめとする初代のクリスチャンたちは、聖霊の導きによって祈り・伝道し・行動し・困難に立ち向かい・敵と戦い・そして死んでいったのです。聖霊さまご自身が彼らの信仰にアクティブに語られ、彼らを導かれていたこと、そして、伴うしるしを持った生き生きと働かれていたことを見ることができます。
このことばの背景となった出来事について詳細を説明することは割愛したいと思いますが、「使徒の働き」10章に記されている、ペテロが異邦人の百人隊長コルネリウスを訪ねるエピソードは、キリスト教の歴史においてまさに、「コペルニクス的展開」とも言える極めて重要な転換点です。ここでペテロに起きた出来事は、キリスト教の世界的な宣教の拡大にとって、まさに革命的な出来事となりました。
この時ペテロは聖霊さまによる幻に促され、当時のユダヤ人にとっては忌むべきことであった、異邦人との接触、それも、家に入り食事を共にするという、ユダヤ人としては考えられない行為に導かれました。また、ローマの百人隊長コルネリウスもまた、天使の告知という超自然的体験によってペテロを自宅に招き入れ、福音の言葉を聞くように促されました。こうして双方の邂逅が実現し、コルネリウスはイエス・キリストの福音を聞きました。そのただ中に聖霊さまが臨まれ、あのペンテコステの日にペテロ自身も体験した聖霊の注ぎを、異邦人が受けるのを彼は目の当たりにしました。
その結果、ペテロがそれまで持っていた固定観念、ユダヤ人こそ神との契約により選び分かたれた聖なる民、神の民であり、異邦人は選びの外側にいる汚れた民であるという、ユダヤ的選民意識から、イエス・キリストの十字架の死による罪からの聖め、救いをもたらす福音は全世界・全人類のものであり、神の民としての契約も、律法によってではなくイエス・キリストを信じるすべての民に“信仰”によって与えられるものであるという、新しい視点に上書きされた瞬間でした。