2025年12月31日(水)
≪ジョー・ハイト師≫
皆さん、こんばんは。月曜日の夜に日本に着きました。 午前の礼拝でもお分かちしましたが、私たちが激しい戦いの中にあったとしても、神によって命を吹き込まれ、生き返らせていただくことについてお話しします。
私たちは神に仕える歩みの中で、困難に直面し、くじけそうになることがあります。そのような時こそ、私たちは霊的に新しくされ、生き返る必要があるのです。 私たちは本来、神の栄光を反映し、神の臨在の中で生きるために造られました。しかし、堕落し、罪にまみれた壊れた世界に生きているため、その目的を果たすのが難しく、心身ともに疲れ果ててしまうことがあります。
出エジプト記の中で、神がイスラエルの民を奴隷の状態から解放された際、十戒を与えられました。 かつてイスラエルの民はエジプトで奴隷となっていましたが、神はその民を救い出されました。日本にいる私たちもまた、罪の奴隷から解放される必要があります。 十戒の中で神はこう言われました。「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、いかなる形も造ってはならない」と。神以外のものを拝んではならないと言われたのは、神が私たちのことを深く心にかけておられるからです。
これは神のエゴによる命令ではありません。私たちが神の栄光を反映しているときこそ、人間にとって「最高の状態」でいられることを神はご存じなのです。もし神を礼拝しないなら、私たちは創造された本来の目的を見失ってしまいます。 私たちは神の似姿に造られました。この姿を反映しているとき、私たちは自らの使命を果たしているのです。逆に言えば、そうでないときは目的が果たされていない状態なのです。
敵との戦いにおいて重要なのは、私たちが「神に似せて造られた者である」というアイデンティティに根ざすことです。 ここで、預言者エリヤがバアルの預言者たちと戦った時の話をしましょう。 エリヤは民に対してこう言いました。「今日、あなたがたは誰に仕えるのかを決めなければならない。バアルに仕えるのか、それともあなたがたを造られた神に仕えるのか」。 エリヤは、二頭の牛を用意し、450人のバアルの預言者たちに「お前たちの神に叫んでみよ」と言いました。彼らは一日中叫び、自らの体を傷つけてまで呼びかけましたが、何も起こりませんでした。エリヤは彼らを皮肉って言いました。「お前たちの神はどこにいるのか。トイレにでも行っているのか、それとも寝ているのか」。
次にエリヤの番が来ました。彼は12の石で祭壇を築き直し、薪を積み、いけにえを載せました。そして、祭壇の周りに溝を掘らせ、あることを命じました。「大きな器に水を入れて、このいけにえと薪の上に注ぎなさい」と。彼はこれを三度繰り返しました。
パレスチナのような地域において、干ばつの時の水は極めて貴重です。現代の日本やアメリカのように蛇口をひねれば水が出る環境とは違います。当時の水は命そのものであり、回復の象徴でした。 聖書を読み返すと、この時すでに三年間も雨が降っていなかったとあります。アハブ王が家畜の草を探させるほど、飢饉は深刻でした。そのような極限状態の中で、エリヤは「貴重な水を持ってきなさい」と言ったのです。それも、溝が溢れるほどの大量の水を三度も注がせました。 そしてエリヤが祈った時、何が起こったでしょうか。天から神の火が下り、いけにえも、薪も、石も、塵も、そして溝の水さえもすべて焼き尽くしたのです。
私は、敵が打ちのめされるこの箇所を読むたびにワクワクします。しかし今回、この箇所を読み直して気づいたことがあります。当時の人々がいかに過酷な状況にあったかということです。 食べ物も飲み物も底を突きかけていた時、人々は自分たちが持っていた「わずかな水」を、エリヤのいけにえに捧げることを選んだのです。
時として私たちも、「自分にはこれっぽっちしかない」と感じることがあります。エネルギーも枯れ果て、一筋の信仰にしがみついているだけのような時です。 しかし神様は、「その少しを持ってきなさい」と言われます。
新城教会の皆さんはこれまで素晴らしい歩みをされてきました。しかし中には、「本当に疲れた」「もう何も残っていない」と感じている方もいるかもしれません。「共に歩んだ大切な人たちが天に召され、いなくなってしまった」と寂しさを抱えているかもしれません。 それでも、神は言われます。「あなたが今持っているその少しを、私のもとに持ってきなさい」。 そのわずかなものを捧げる時、神は大きな勝利を与えてくださいます。アーメンでしょうか。
お祈りしましょう。 愛するイエス様、感謝します。これからも新城教会に勝利を与えてください。私たちが持ち寄るわずかなものを用いて、あなたの大きな勝利を現してください。私たちを生き返らせるあなたの臨在を、今ここに現してください。2025年になしてくださったすべての御業を感謝します。2026年も、あなたが大いなることを成し遂げてくださると信じます。アーメン。
≪鈴木陽介副牧師≫
私が2026年に示されたみことばはイザヤ書55章8節9節です。
8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──
9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
実は、2025年の途中からこのみことばが私の心の中にいつも巡っていました。
2025年は特に4月から、教会の体制においても変化があった年でした。賛美の領域において、新しい世代が新しい歌を以て礼拝賛美を導くようになっています。
それぞれが、みことばの学びのときも持ちながら、真剣に主から与えられた役割を果たそうと、主に心を向けて前に進んでいます。ぜひ、お祈りください。
個人的にも、以前少し触れましたが、私は特別に賛美、音楽の領域に召されているものではないと思っていますが、不思議とそのような私にも賛美が与えられるということがこの年、起こされました。
まさにイザヤ書55章8節9節の内容のとおりだと思います。私達が思っているよりも、主が思っていること、また主が用意されている道は遥かに高いものであります。そのことを痛切に感じています。
少し話が変わりますけども、2025年この教会は、「主が働きを加速する年」と掲げて1年間進んで来ました。こちらもまさにそのとおりであり、様々なことが加速的に進んだ1年であったと感じます。みなさんのなかでも、2025年を含め、近年は時が経つのがとても速いと感じる方も多いのではないでしょうか?
ここで少し興味深い話があります。実は、本当に時間の流れが速くなっている可能性があるというのです。
以前から、ジャネーの法則というものが提唱され、人間は年をとればとるほど、体感的な時間の経過が速くなるのだと考えられています。それは理論的にも明確で、例えば5歳の人間にとっての1年は人生の5分の1にあたり、相当な比率となります。しかし50歳の人間にとっての1年は50分の1で、人生に占める割合は5歳と比べれば随分希薄されるわけです。
また、近年指摘されている人々が時間の経過が速まっていると感じる理由は、スマートフォンの普及です。ほとんどの人間がスマートフォンを手にする社会に変化して以来、暇な時間というのがなくなったのです。人間は嫌なことをする時間や暇な時間を主観的に長く感じますが、スマートフォンの普及により、電車を待つなどのほんの少しの間でも、自分が望む時間を持つことができるようになったため、時間が過ぎるのがあっという間になってしまったと言うのです。
考えてみると、「暇つぶし」という言葉自体がなくなってしまったのではないでしょうか。
ここまでは人間の感覚的な領域の話ですが、最後にご紹介する話は、本当に時間が速まっているという説です。
現代の科学において、宇宙の終わり方についてもいくつかの説がありますが、そのなかの一つに、ビッグクランチというものがあります。宇宙は現在膨張しているわけですが、その膨張が止まり、収縮に転じて、やがてすべての物質やエネルギーが一点に集まり潰れるという考えです。この説が正しい場合、宇宙が収縮に転じた時点から時間の経過が速められ、それは最終的な一点に近づけば近づくほど加速していくというのです。これは時計と時刻が合わなくなるというような領域の話ではなく、次元そのものが変化する話だと言うことです。
現代人の多くが時が速くなっていると感じるのであれば、本当にそのような事が起こっている可能性も完全に否定はできません。
さらに言えば、我々信仰者が主にあってそのように感じているのであれば、真に創造主である主がそれらのことを起こしていると考えることは、決して荒唐無稽なことではありません。
いずれにしても、私達は、主が用意されたかたちでの世の終わりをいつか迎えます。また、その時を待たず、私達の地上の命は限られています。そのような中、いかにこの地上の命を過ごすかということを2026年も考えて歩んでいきたいと思います。
イザヤ書の55章8節、9節もう一度お読みしますけども、
8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──
9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
この前の3節から5節にはこうあります
3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。
4 見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。
5 見よ。あなたが、あなたの知らない国民を呼び寄せると、あなたを知らない国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者のゆえである。主があなたを輝かせたからだ。」
ここにも以前から度々触れているダビデ契約が出てきます。ダビデに約束されたことが今の私達にも契約として履行されているのです。私達の人生に用意されている出来事は、偶発的に起こることでもなく、昨日今日始まったことでもありません。それは、主の契約に基づく永遠の計画によるものです。それは、主ご自身の物語であり、私達はそのなかで生かされているということを決し忘れることなく、日々1日1日を歩んでいきたいと思います。
今年私に与えられた新しい賛美も、その多くが不思議とダビデの信仰の歩みや戦いに根拠を置くようなものでした。
その一番初めが「動き出して走り出して」でした。このフレーズが与えられました。ダビデは唯一、主のみ名によってゴリアテに立ち向かった者でした。私達自身もそのようにあるべきです。戦いを放棄し、この地上で何もしなければ、その使命を果たさなければ、何も変わりません。
しかし主にあって私達が動き出せば、主の計画が動き出します。繰り返しになりますが私達にとっては、それが賛美の領域で起こされたのがこの2025年でした。
そして先程の5節には、主が私達を輝かせるということが書かれています。主が必ず祝福をくださいます。2026年はもっと大胆にそのことを受け取りましょう。私達自身が輝くのが目的ではありません。しかし、主が私達を輝かせてくださる、その主のみわざを受け取っていきましょう。
昨年、2025年に向けて、第2ペテロの3章11節から14節からお話をさせていただきました。ポイントは、「主の到来を早めなければなりません」、そしてまた「努力しなさい」という点でした。
2025年、私達は1人1人精一杯努力しました。そしてここまで主が働きを進めてくださいました。2026年は、主が道を備えてくださること、主の道は私達の道よりも遥かに高いということを受け取りたいと思います。私達が真剣にこの地上的な人間的な努力をするとともに、しっかりと主の御心を受け取る。それが2026年に向けて示されていることです。