2025
神が働きを加速される年!
地のうめきを聞き、とりなす者となろう!

二十節、

“被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。”

人類は悪魔にそそのかされて、自ら罪を犯した存在です。しかし管理人の下に任されていた被造物は、自ら罪を犯したわけではありません。人が罪を犯した結果として、「親亀こけたら子もこけた」状況になってしまったのです。

人類が被造物を背に乗せ、正しい方向に進んでいれば、すべてがうまくいっていたはずです。しかし人類が堕落した結果、他の被造物も共に倒れてしまったのです。これが現実です。ですから、被造物は「自分のせいではない」と理解しているのです。

そして、二十一節には、

“被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。”

イエスさまが地上に再び来られたら、自分たちも解放される、栄光の中に入れられると、被造物たちは待ち望んでいるのです。

そして、二十二節には、

“私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。”

これは今から二千年以上前のパウロの記述です。この記述は、現代人や、クリスチャンたちと、理解がまったく異なっていたことを示しています。ここで、「私たちは知っています」とパウロは言い切っています。
当時のパウロをはじめ、クリスチャンたちは、当然のこととして、一つのことを理解していました。それは、「被造物のすべては今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている」という事実でした。

どうでしょうか? 目の前にあるさまざまな被造物、動物や植物、そして無機質に見えるものさえも、今に至るまで、うめいている、産みの苦しみをしていることを、どのくらい感じ、理解しているでしょうか?
ここでは、「ともに」という言葉が二度使われています。「ともに」ということは、「私たちは知っています」と言い切っているように、当時の教会に集まっているすべての人たちが、一つのことを理解していました。つまり、自分たちも地上でうめいているけれど、被造物も一緒にうめいているんだと。一緒に産みの苦しみをしている、と理解していたのです。

産みの苦しみとは何か?それは新しい天と新しい地が生み出されることを意味します。「当然、知っているだろう」とパウロは読者に述べているのです。
現代の教会、クリスチャンたちは、そのような意識をほとんど持っていないのかもしれません。むしろ、「人と被造物の間には隔たりがあり、被造物は人が自由に操作できる存在だ」といった意識かもしれません。
皆さんの家で飼っているペットにも、感情がありますよね。意思がありますよね。愛情だって通じるのではないですか。あのような意思、感情、愛情は、誰が与えたのか。それは神が与えたものです。人と、動物に与えられた感情、意思は、同じ発生源、神なのです。

では、彼らは何を期待しているのでしょうか。それは、新しい天と新しい地が訪れるようにと、真剣に願っているのです。彼らは言葉では表現できませんが、そのように願っているということです。それを理解し、ペットと関わりを持っているでしょうか。
私の家にはペットはいません。しかし最近、一匹ペットのような存在がやって来ます。でも、やはり人間は人間です。動物とかは、普通のコミュニケーションとは違うかもしれません。しかし彼らは彼らで、ちゃんとした意識を持っているのです。

今回、「どうしてなのか」という不可解な問いに関して、「被造物の管理人」という視点からもお話しさせていただきました。
そして、クリスチャンは、揺れ動く大地の上で、主の十字架を掲げ続ける存在であるということをお話しさせていただきました。

震災が起こった後、ボランティアが入る前に、救援隊が入るのですが、救援隊と同じヘルメットをかぶり、蛍光色の服を着て、多くの窃盗団が紛れ込んでくるというのです。ビニールシートを持ってきて、「使ってください」と言い、受け取った人たちに、後ほど高額な請求書が回ってきたりしたそうです。本当に、人が信じられなくなったと言っていました。
窃盗団は、もしかしたら、毎日のように「日本に地震が起こるように」と祈っているのかもしれません。ボランティアが入るころには、彼らは去っているというわけです。
だから、住民たちはボランティアを警戒し、窃盗団じゃないかと疑うようになったそうです。本当に、ひどいことをする人がいるものだと思います。

先週は、東日本大震災の記念日でした。二〇一一年の三月十一日、私はこのとき韓国にいてテレビをつけたら、本当にびっくりしました。「これで日本が終わってしまうのではないか」と思いました。あれ以来、日本各地で大きな地震が頻発しています。私たちの地域に地震が起こらない保証はどこにもありません。
揺れ動く地に立ち、うめいている地とともに、とりなし、和解するならば、きっと状況が変わるのではないかと期待します。
そもそも、日本では一年間にどのくらい地震が起こるのかご存じでしょうか?もしかしたら、日本列島は、神が天地創造をされたときに、大陸を守る防波堤のように造られたのではないかと考えることがあります。日本列島で、すべての地震や台風、災害を削ぎ落とし、大陸を守るために造られたのかもしれません。
しかし、先祖がこの地に住むようになったがゆえに、大変な目に遭っているわけですが、逆を言えば、この地に住まわされて、クリスチャンとして歩む私たちは、大きな使命が与えられているということではないでしょうか。

聖書が掲げる福音とは何でしょうか。以前にも学んだことがありますが、コロサイ人へ手紙一章を読むと、六節にはこのように記されています。

“この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それを本当に理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で実を結び、広がり続けています。福音はそのようにして、あなたがたに届いたのです。”

キリスト教の歴史は迫害の歴史です。かなり多くの迫害を受けて、福音がなかなか広がらなかった歴史があります。
しかしある時、パウロは一つのことを体験しました。勢いを持って世界中に広がる福音、自動運転の福音を体験したわけです。別に何もしないのに、世界中に福音が広がっていったのです。今まで困難だったのが、いとも簡単に広がる体験をしました。
そのときの状況に関して、「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それを本当に理解したとき」、と述べています。
「福音を本当に理解したとき」、世界中で実を結び広がり続けた、と言うのです。
私たちが福音とは何かを真に理解しきったら、福音はどんどん広がるはずです。

コロサイ一章では、その後、「福音とは何か」の全容について述べられています。一章二十節から、

“その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。”

この二十節から二十三節までの間に、「福音の全容」が述べられています。家に帰ったら、詳しく読んでいただきたいと思います。これをまとめてみますと、こうなると以前お話ししました。

第一に、十字架の贖いは、人との和解だけでなく、「万物との和解」だと言うのです。イエスさまが十字架において死に、復活されたのは、人のためだけではなくて、神と万物との和解であったのです。
二番目、その結果として、人類も神と和解したのです。
神がすべての被造物と和解をした結果、被造物の一員である人類も、神と和解したと述べています。
三番目、「上記の福音からはずれることなく、信仰に踏みとどまれ」と励ましています。
四番目に、「福音は天の下のすべての被造物に対するものである」と、もう一度強調しています。
五番目に、「私、パウロは上記の福音に仕える者である」と述べています。

パウロの福音理解は、現代の教会の理解とはかなり異なっていました。福音とは、人だけでなく、すべての被造物との和解であり、人がその中で果たさなければならない役割について述べられているわけです。

「すべての造られたもの」、日本語で「もの」と言うと人を連想しがちですが、「クティシス、被造物」を意味しているわけです。
コロサイ一章二十節のほとんどこの一節に、キリスト教の救済論が含まれていると言われています。

「万物、すなわち地上・天上のすべてのもの、人間も動物も植物も無生物も、個人も社会も国家もキリストによって、神と和らがせることが神の欲し給う処であり、悦び給う処である」と。

福音とは、すべての領域に及ぶものであると理解すれば、福音は広がるとパウロは教えているわけです。

人には究極的に、どのような役割があるのでしょうか。詩篇百四十八篇十三節にはこう述べられています。かつてよく学びましたが、

“彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。”

詩篇百四十八篇について、よくご存じだと思いますが、この詩篇百四十八篇を解説したある方が、このように書いていました。

「詩篇百四十八篇の作者は、被造物が「聞き」「従う」ことを期待し、ほとんどすべての神の被造物に対して直接語りかけ、すべての被造物が主をほめたたえることができると考えていた。生物にも無生物にも同じように語りかけ、それらが同じように主をほめたたえるようにと勧めている。同じ一文の中で、彼は人間、海の巨獣、そして火や雹(無生物)に語りかけている。また、同じ一文の中で、彼は飼い慣らされた動物と野生の動物(獣と家畜)、耕作地とそうでない土地(実のなる木とすべての杉)を区別することなく語りかけている。」

神がどのような権限を人に与えているのかと言うと、「被造物に直接語りかける権限」です。私たちは「被造世界に、主をほめたたえさせ、賛美させることができる」のです。
すべての被造物に対して「主をほめたたえよ、賛美せよ」と命じることができるのです。

先日の聖会にモンゴルの先生方も来られました。私はモンゴルの先生方と一緒に行動して、一つの事を強く教えられました。県民の森で祈ったときのことですが、彼らはひざまずいて、土地に手を置いて祈っていました。彼らは広大な草原で生活している遊牧民ですが、土地と自分たちとの関係性を、私たち以上によく理解しておられると思いました。彼らは祈るときにひざまずいて、土地に手を置いて祝福を祈っていたのです。

私は今回、北陸を回らせていただき、クリスチャンが、日本の守りのために、土地に手を置いて祈る必要性を教えられました。
今週皆様に一つ宿題を出したいと思います。それは、皆さんが住んでいる土地に手を置き、その土地との和解、土地の祝福、そして土地が暴れて人に危害を加えることがないように祈っていただきたいと思います。
ヤコブはルズ(後にベテル)で夢を見、朝になって、その土地の石を立て、油を注いで祈ったことが記されています。これは何を意味しているのでしょうか。それは土地に油を注いで祈ったことになります。ヤコブは被造物の管理人であることを理解していたのではないでしょうか。

ある地震学者がテレビで、「愛知県だけあまり大きな地震が起こっていない。これは不思議だ。ひずみがどんどん溜まっていて、将来、大きな地震が愛知県に起こるのではないか」と語っていましたが、私はそうではなく、今までこの土地のために祈り続けてきたからこそ、このような結果になっていると信じます。
新城市には中央構造線が通っており、かつて大きな地震が起こった町でもあります。桜淵に行けば、対岸は異なる地質であることがわかります。
この近くには原発もあり、稼働していない浜岡原発を維持するのに一日一億円かかるそうです。もし壊れたら大変なことになるのは明らかです。