これどういうことかというと、調べてみると、当時の一種の魔術だと言われます。ヤコブは当時の魔術の影響を受けていたということです。しかし神はそれさえも使って、栄光に変えたというわけです。
「ルズ」という街を考古学で調べると、ヘブル人のものになるはるか以前から、既にカナン宗教の祭壇であったことを示唆しているというのです。「アーモンドの木」とは、ここが魔術の場所だったことを表しています。子どもを捧げるような悪しき祭壇があり、霊的に悪い場所だったのです。しかしそこに神の家が現れて、名前が変えられたのです。
教会とは、そのような影響を地域に現わす場所であるべきです。
様々、紆余曲折を経て、新城教会も新城市に根を下ろしたわけです。新城市は神の家、天の門と、やがて名前が変えられるぐらいに成長しなければならないのです。
今、新城市は絶滅寸前のような過疎の町ですが、教会はこれからも存続し、新しい世代が、また年を取った私達も一緒になって町のために祈っていくならば、ルズがベテルへと変えられたように、地に聖霊が注がれ、町が変わると期待しています。
「新城」という名前の由来を調べますと、16世紀にさかのぼるようです。菅沼定継という人が、新城市の石田地内に新城(シンジョウ)という城を作ったのです。しかしその44年後、設楽原の戦いが起こって、奥平信昌が現在の新城小学校のあたりに新たなる城を築いたというのです。この城は既にあった新城(シンジョウ)と区別するために、新城(シンシロ)と名付けたというのです。なんかアバウトに名をつけた感じですが、シンジョウ、シンシロと、名前の背景は戦争です。血で血を洗うような戦いがあって町ができたのです。まさしくルズではないですか。そんな只中に、突如、新城教会が誕生したのは、何のためか。教会の原点から見るならば、町の名を変えて、神の国を現すためであるはずです。そのためにはこの地に油が注がれなければならない。そして天の門となって、ここから天に向かってはしごが伸びる町にならなければならないのです。
また教会は個人をも現しますから、一人一人からヤコブのように天に対してはしごが伸びて、頭上に天使たちやイエスさまが上り下りする人物になりたいですね。
・教会は「神の軍隊」:真理の柱と霊的戦い
何度も語っているのですが、教会とはギリシャ的な世界観と、ヘブル的な世界観の両面を含んでいます。旧約聖書における教会と同一概念は「カーハール」という言葉が使われているそうですが、それは「呼び集める」という意味です。これに対して、新約聖書のギリシャ語で教会を表す用語は「エクレーシア(Ekklesia)」です。元々それはギリシャ世界にあった「議会」を表す言葉で、聖書学者のバークレーは、これが「種々の軍事行動に対する作戦と宣戦布告の決定機関」であったと書いています。
エクレシアというのは元々ギリシャ・ローマ社会にあった軍事関係の組織だったのです。
そんな時代にクリスチャンの集まりが組織されました。人々がそれを見て、既にあったエクレシアと比較し、社会に新しく出現したクリスチャンたちの集会とよく似ていると感じたのです。いつしか、クリスチャンの集いがエクレシアと呼ばれるようになったというわけです。
ということは、最初の教会は現在とは性格が全く違ったということです。日本では漢字で「教会」とは、「会衆を教える」と書きますから、教室みたいなイメージです。先生と生徒、そういうふうに明治時代の人たちには映ったのでしょう。だから誰かが「教会」と名付けたわけです。でも最近、日本の教会も、教室ではいけない、大きなファミリーだと言うようになりました。しかし、教会はファミリーでもないのです。
教会は、ヘブル的世界観とギリシャ的な世界観を合わせると、「戦いのため呼び出された者たちの群れ」となります。すなわち「教会は神の軍隊」であるということです。なんと敵の真ん中に出現する神の軍隊、神の軍事基地が教会であるということなのです。 ルズをベテルにするには、その背後の暗闇の力と戦って勝利しなければ、教会は実現しないということです。
それとともに教会は、「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は真理の柱、また土台です」と述べられています。世界には悪いことがいっぱい起こっています。しかしこれ以上悪化するかと思うけれど、案外、ギリギリのところで止まるではありませんか。悪が蔓延して、侵略され、完璧に置き換えられるかと思いきや、停止する傾向があります。
アメリカでLGBTQの概念が広がり、性別の定義がむちゃくちゃになって、トイレだって男性も女性も一緒にどこでも使えるような、公衆浴場で男が「私は女だ」と主張すれば女湯に入っていくようになって、訴訟も起こったのです。それがトランプ政権になって、「性別は男と女だけだ」と宣言されてから変わったのです。今回、アメリカに行ったらトイレは男性、女性、ファミリーしかありませんでした。日本のマスコミも以前は、LGBTQのことをどんどん扱っていましたが、あまり言わなくなりました。
どうして止まったのか。それは地域に教会があるからです。教会が真理の柱、土台なのです。真理を受け持っているのは教会です。教会はサイズではないのです。その意味合いです。日本に教会があるのは、教会があることによって、街の真理が保たれるのです。悪の拡大を阻止する力となるということです。
新城において真理の柱はどこにあるのか。それは政治の中にも経済の中にも教育の中にも、真理はありません。絶対にありません。なぜなら、「わたしは道であり、真理であり、命です」とイエスさまは語られたからです。イエスさまを閉め出している世界には、真理はないのです。これは新約聖書の中心的概念です。案外、私達はどこにでも真理があるように誤解しています。しかし「真理はイエス・キリストそのもの」なのです。このことは重要です。というのは、街から教会が手を引いたら、真理の柱が折れるのです。教会は重要な役割を担っているということです。
そして教会は軍事基地です。先週も賜物について学んだと思いますが、エペソ人の手紙は霊的戦いについて教えている書簡です。パウロはこう語っています。4章11節・12節。
11節「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。」 12節「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」
キリストの体は、「エクレーシア」軍事基地です。軍隊の能力を高めるためには組織が必要です。最近、「教会に組織があるのは嫌だ」と、コロナ以後「ネットだけでいいんじゃないか」と、教会として施設や組織を持たなくてもいい、みたいな風潮があります。牧師とか伝道者とか、組織の役割をすべて取り払い、「関係は平らですよ」みたいな意見が流行っています。しかしこれは間違いです。もしも軍隊に組織がなかったら、みんな戦死します。霊的な組織は、優劣ではなくて役割としての組織です。
モンゴルに行って不思議な光景を見ました。羊やヤギが羊飼いがいないのに一定の方向に歩いていくわけです。しかし夜はちゃんと羊飼いが用意しているねぐらに戻ってくるそうです。羊飼いがいなくても、羊の中にリーダーがいるそうです。だから羊飼いは羊の中から、「この羊にはリーダーシップがある」とにらんだら、その羊を教育するそうです。そのリーダーがうまく機能すれば、敵からも逃れて、牧草のあるところに行って、ねぐらに戻るというのです。教会とよく似ている感じがします。羊飼いはイエスさまです。
ぜひ教会のリーダーたちのためにお祈りいただきたいと思います。そして一人一人が主から委ねられた賜物を駆使して、敵と戦う教会となりたいです。
・天の法廷と教会の役割
悪魔は「ディアボロス(中傷者・告発者)」という意味です。日々、悪魔と悪霊どもは、神の前に我々を訴え、落とそうとしています。エペソ人への手紙の6章10節〜12節で、
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
この記述は、悪魔・悪霊どもの組織を表しています。初代教会時代、この記述に、たいへんとまどったそうです。それが、「天上にいる諸々の悪霊」という記述についてとまどったそうです。なぜなら、天上とは神の国、天国のことを表しますから、地上で戦いが多くあって、やがて天国に行ったら、まだ悪霊どもがいたとなれば、「冗談じゃねえぞ」という感じです。
だから初代教会の教父たちは、諸霊とは堕天使の働きであるが、問題は諸天にあると、「諸天にいる」を省いたりした写本もあったそうです。しかし残念ながら、それは成り立たないのです。「諸天の下にいる」と読もうとした教父たちもいましたが、これも無理だとベストという注解者は語っています。諸天に、確実に悪霊がいるというわけです。
どうしてかに関して、以前、お話させていただきました。イエスさまは今、どこで奉仕しておられるのかというと、天の神殿で奉仕しておられるのです。
イエスさまの時代、エルサレムには神殿がありました。しかしそれは本物の模型にすぎない、人の手で作った聖所であったと述べられています。地上の神殿は、天にある本物の神殿の模型なのです。
先日、ある方が「私、新車を買った」と言いました。ものすごい高級車の新車を買ったというのです。「いくらしたの?1000万円?」と聞いたら「1000円だ」と言うのです。よく聞いてみたら新発売されたトミカの「ミニカー」というオチでした。最近のミニカー、模型でもすごくよくできています。
同様に、地上にあった神殿は天の神殿を精巧にコピーしていたということです。
かつて地上の神殿には「サンヘドリン」という裁判所があったことを話しました。神殿は俗的な人は入ることができない場所でした。しかし記述によると、サンヘドリンは神殿の北部の壁に組み込まれており、半分は神聖な領域、残り半分は非神聖な区域にまたがっていました。裁判所は非ユダヤ人たちも入れる神殿の外側の区域内に位置していたのです。壁から突き出た部分には、俗人たちが訴える窓口があったのです。
さて、これが模型ならばどうでしょうか。天にも天国の城壁に突き出た部分があって、訴えの窓口があることを意味するのではないでしょうか。最高法院について、マタイの福音書で述べられています。サンヘドリンとは、ギリシャ語では「シュネドリオン」で、字義的には「ともに座る」という意味です。エペソ人への手紙2章6節、
「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」
これは何を意味するかというと、「ともに座る」とは、天の最高法院サンヘドリンに、私達はイエスさまとともに座しているということを意味します。天で訴える力があったとしても、それに対して対抗するメンバーとして、私たちは連なっているのです。そして、エペソ人への手紙2章5節・6節、
5節「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」 6節「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」
「あなた方」と複数になっており、「ともに…ともに」という言葉が二回使われています。これは、座しているのは「個人ではなく、神の共同体である教会」だということです。
さらに、教会とは天のサンヘドリンのメンバーであり、悪魔が訴える窓口で、教会は主席裁判官のイエスさまと共に座して、悪魔の訴えを取り下げることができる存在なのです。 これは個人ではなく、教会なのです。ということは、教会に属することは大変重要なことなのです。
・主の勇士となるための条件
キム・ガンホ先生の教会はソウルでも貧しい地域にありますが、その地域には脱北者の方々や、中国から来た人たちなどが多く集まっています。教会から、ちょっと奥に入っていくと、危険なところも多いというのです。「ちょっと来て、こっから眺めてください。旗が見えますか?」と言われました。 見ると赤い旗が並んでいるのです。それは「ムダン」という悪霊を呼ぶ霊能者たちが店を出しているサインでした。そこでムダンの力が破られるよう、祈りました。まさにあの教会は敵の真ん中に油注がれてできた神の家、教会そのものだと感じました。