2025
神が働きを加速される年!
教会は神の家、天の門
〜主の勇士になろう〜

2025年11月16日(日)新城教会主任牧師 滝元順

創世記28章17節〜19節
”彼は恐れて言った。『この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。』翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。”

ハレルヤ!今日、素晴らしい礼拝に出ることができ、心から感謝しています。

もうすぐ12月、クリスマスになります。巷のスーパーなどでも、クリスマスソングが流れています。

新城教会では恒例のクリスマスコンサートがあります。この素晴らしいコンサートに、多くの方々をお連れいただきたいと思います。ご家族、ご親族、ご友人で、イエスさまを信じてほしいと願っておられる方が多くおられるのではないでしょうか。そのような方々に、イエスさまのことを知らせる機会を提供しなければなりません。機会がなければ、福音を聞くことができず、救われることもありません。こういう時期は大チャンスです。

12月はイエスさまを表す月ですから、25日までが勝負です。26日からは雰囲気が変わりますが、25日までの期間に福音を伝えたいと願うのです。

私の為に祈っていただき、この二週間、様々なところで奉仕をさせていただきました。二週間前は滋賀県の教会で、先週は韓国で奉仕をさせていただきました。今回は私一人ではなく、私の長男の長女、つまり孫が一緒に行ってくれました。彼女は韓国文学に興味を持っている文学少女です。大学も決まり、暇になったので、一緒に来てくれたのです。大変良いときでした。前回、アメリカへは娘の長女を連れて行きましたが、孫と一緒に奉仕ができるのは感謝です。お孫さんがおられない方には申し訳ないのですが、私個人のこととして、また、妻を失った男の話として聞いていただけると幸いです。本当に主からの励ましだと感謝しました。

孫について「この子は文学少女なんですよ」と、色々な所で紹介をさせていただきました。先週の日曜日は、「神の羊の教会」という、ソウルの格式高い伝統的な教会で奉仕をさせていただきました。あまりこういう教会での奉仕は得意ではない、やはり元気なところで奉仕する方が好きですが、とても良い礼拝でした。

ここで私は、かつてリバイバルミッションを支えてくれた申賢均(シン・ヒョンギュン)先生という、韓国の有名な先生の話を写真も出して紹介しました。すると礼拝が終わった後、一組のご夫妻が喜んで来て、「本当に今日は良かった」と言いました。なぜかと言ったら、「私達は申先生に結婚式の司式をしてもらった」というのです。そして、ご主人のご両親は、北朝鮮で申先生が牧会していた教会に属していて、韓国戦争のときに、申先生と一緒に南に避難してきたというのです。本当に大変な中で教会が形成されてきたのだと思い、すごく恵まれました。

チュンチョンとソウルで、霊的戦いセミナーを今年は三回行わせていただきました。

先週の日曜日の午後は、キム・ガンホ先生という脱北者の方が新しく建てた教会で礼拝させていただきました。「NK命の木の教会」という教会です。「North Korea」、すなわち北朝鮮の宣教に特化した脱北者たちのための教会です。

私がこの先生と初めて会ったのは十数年前です。昔の彼は中国でマフィアをやっていましたが、救われて神学校を卒業しました。韓国で牧師になるのは大変で、神学大学院まで出ないと牧師になれませんが、彼は本当に立派な牧師になりました。教会に来られている方々は、ほとんどが脱北者の方々です。賛美のリードをしている方も脱北者の方です。一人一人がすごいドラマを持っています。『ビヨンド・ユートピア』という映画を見ましたが、それは最低限誰でも経験することだと話していました。

彼も大変な人生だったようです。集会が終わってから私の孫と話していたのですが、彼が「君は今何やってるの?」「私、高校生です」「卒業したらどうするの?」「大学に行きます」と孫が答えていました。
すると彼がこう言うのです。「僕も勉強したかったな…。僕は小学校二年生までしか勉強してない」と言うのです。なぜかと言ったら、ちょうど彼が北朝鮮で小学校に行っているときに金日成が死んで、配給が全て止まったというのです。学校もやっていけなくなり自然解散だったそうです。それで彼は、市場に行って働きながら、落ちている物で生き抜いたというのです。19歳までずっと市場で働いていたそうです。家族もみんなバラバラになったと言います。

そして私の孫娘にこう言うんですよ。「君は文学少女だろう。将来、何か歴史の本を書くようなことがあったら、僕らのことも忘れずに書いてくれないか。僕たちのようなことは、誰も記録してくれないんだ」と切実に訴えていました。本当に心がジーンとしてきました。私達は日本で温かい中で暮らしていますが、世界に目を向けるとき、大変な中で生き抜いている人たちがいます。そのような方々のために、私達は心を尽くして祈らなければいけないのです。また、教会はそのための使命があるのです。今年は様々なところに行かせていただき、それを強く感じたわけです。

・ヤコブの夢:荒野のただ中に現れた「ベテル」

今日引用させていただきました聖書のことばは、何度も語らせていただいているみことばです。しかし今回、脱北者の教会で、もう一度教えられ、礼拝メッセージでも語らせていただきたいのです。

今日読んだ箇所は、ヤコブが荒野で見た不思議な夢の記録です。その背景のストーリーは、創世記27章41節から記録されています。

41節「エサウは、父がヤコブを祝福した祝福のことで、ヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。『父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。』」 42節「上の息子エサウの言ったことがリベカに伝えられると、彼女は人を送り、下の息子ヤコブを呼び寄せて言った。『兄さんのエサウが、あなたを殺して鬱憤を晴らそうとしています。』」 43節「『さあ今、子よ、私の言うことをよく聞きなさい。すぐに立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。』」 44節「『兄さんの憤りが収まるまで、おじラバンのところにしばらくとどまっていなさい。』」

ヤコブは、ちょうど北朝鮮から脱北するのと同じように、家を出たことが記されています。長子の祝福を受け取ったがゆえに、兄のエサウに命を狙われ、家からも、住んでいた土地からも脱出し、他国に行かなければならなかったのです。

途中は荒野で、行く先にも何の希望もなく、絶望の中を旅したわけです。ある場所まで来て、日が暮れたので、彼はそこで野宿して横になったのです。何の計画性もなく、ただ夕方になったので、そこで一夜を明かすことになりました。イスラエルの荒野には、様々な獣がいて危険なのです。

最近、日本で戦争が始まりました。それは悪魔との戦争ではなく、熊との戦争です。その戦いに自衛隊まで投入されています。生活圏のただ中にクマが侵入してくることが全国的に起こっています。ちょっとおかしいと思いませんか。県民の森の後ろの山の辺りで熊が出て、県民の森に祈りに行けません。そのために祈っているのですが、クマが互いに連絡を取り合って、「一斉に人里に出るぞ!」みたいな感じです。何か意味があるのかなと思います。

ヤコブもそんな危険な中で一夜を明かさなければならなかったのです。しかしその場所で、彼は歴史に残る夢を見たのです。創世記28章17節〜19節。

17節「彼は恐れて言った。『この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。』」 18節「翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。」 19節「そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。」

なんと「神の家、天の門」を現わす夢を見たのです。自分の上にはしごが伸びていて、天使たちや主がおられるという、神々しい夢を見て、感動し、翌朝、自分が枕にしていた石を柱にして、記念として油を注いだのです。

・教会は「ベテル」:真理の柱と土台

実はこの言葉は、新約聖書でも重要な意味を持つことになります。その夢は、何千年後かに重要な意味を持つことになりました。それが第一テモテ3章15節に記されています。

「たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。」

みことばを理解するときに、旧約聖書の土台を意識して新約のみことばを理解することは重要です。ヤコブが見た夢、「神の家」とは「生ける神の教会」のことだったのです。

「神の家」はヘブル語で「ベテル(Bethel)」と呼ばれます。これはヘブライ語の二つの単語が統合した言葉です。「ベイト・エル」。「ベイト」(または複合語連形で「ベト」)は「家、場所、住居」を表し、「エル」は「神」です。したがって、「ベテル」とは文字通り「神の家」と化したわけです。

ヤコブは荒野のただ中で、何の希望もなく、恐れの中にありました。猛獣に襲われるかもしれないような恐怖の中で一晩明かしたのですが、そこがなんと「神の家」になったのです。天使たちが上り下りする、天とつながる場所になったのです。それがやがて、教会として位置付けられるという、歴史的な夢を見たのです。

教会は、どのような場所に、どのような形で現れるのかが、ここで既に預言的に示されているのです。

先ほどもお話ししたキム・ガンホ先生の教会に行った件です。彼らは命がけで北朝鮮から脱出し、川を渡り、山を越えて中国に入り、東南アジアの国々などを経由して、何年もかかって韓国にたどり着いた人たちです。私が出会った青年も、国境を越える時、何の望みもなく、恐れしかなかったはずです。将来自分に何が起きるのか、まさに荒野の只中に旅立ったヤコブのようでした。しかし、その過程の中に、主は教会を建てられたのです。まさにヤコブに見せられた夢そのものではないでしょうか。創世記28章18節。

「翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。」

油は新約聖書では「聖霊」を表しています。猛獣や盗賊という敵の只中に、荒野の中に油が注がれ、神の家ができるのです。それが教会の姿です。八月にモンゴルのゴビ砂漠に行きました。大平原で私達は主を賛美し、大地に手を置いて油が注がれるように祈りました。まさにそれは神の家ベテルではないのかと感動しました。

・「ルズ」から「ベテル」へ:町の名前を変える使命

新城教会は来年で、教会として正式に設立されて70年になります。まさに私の両親がこの地域に入った時、なんの保証も、希望もなく、将来何が起きるのか全く分かりませんでした。ちょうどヤコブが荒野に出て行ったのと同じような状況であったと思われます。

しかし、そんな中に何が起こったかといったら、教会が立ったのです。様々な奇跡が起きながら、教会が建て上げられました。新城教会の初代の代表的な人たちも、荒野の只中、希望のないただ中でイエスさまと出会ったのです。まさしくこれは、荒野の中に突如現れた「神の家・天の門」であったのです。

教会とは、このような形で進んでいくことを、今回、脱北者の方々が集っておられる教会に行って、強く感じました。ベテルと名前が変えられた場所は、創世記28章19節

「その場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。」

と記録されています。「ルズ」とは、「アーモンドの木」という意味です。アーモンドの木という町の名が「神の家・天の門」と改名されたのです。教会ができると、元々の町の名前が神の家と改名されるのです。

「ルズ」は「アーモンドの木」で、良い名前じゃないかと思うかもしれません。しかし、ヤコブがやがてラバンの家に行ったときのエピソードがあります。アーモンドの木の枝を取って皮をむき、その枝を群れが水を飲みに来る水がめの中に、群れと差し迎えに置きました。それで群れのヤギたちは水を飲みに来たとき、盛りがつきました。こうして羊やヤギは枝の前で交尾し、縞毛、ぶち毛、斑毛の子どもを産んだというのです。