2025年7月20日(日)新城教会主任牧師 滝元順
マタイの福音書 28章18~20節
”イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。』”
皆さん、おはようございます。ハレルヤ!
本日の教会カレーは特別です。ヘブンズファームで収穫された原種の人参を使った特製カレー。皆さん、「原種」が何かご存知ですか? これは交配していないということです。聖書はレビ記で種の交配を禁じています。つまり、交配していない人参とは、神が創造されたそのままの人参です。
その人参でカレーを作り、皆さんに召し上がっていただきます。神様が作られた原種の人参がどんな味がするのか、このことを知らずに食べると普通の味で終わってしまいますから、知っているとひとしお、素晴らしい味ですよ。
今日は「不思議としるしをなされる主」というタイトルですが、被造世界を見るだけで、神様が不思議としるしをなされることがよくわかります。
実はこの人参、種を蒔いたのは五月六日でした。人参の種を私は初めて見たのですが、まるで粉のようでした。フッと吹いたら飛んでしまいそうな種を五月六日に蒔き、「こんなものが成長するかな」と思っていましたが、しばらくすると芽が出ました。そして、それを皆で丹念に育てたところ、昨日七月一九日、実に七四日間でこのような立派な人参ができたのです。感動しました。これが不思議としるしでなくて何でしょう。元々は小さな種だったものが、条件が整えば今日の私たちのカレーの材料になるわけです。これを見ただけでも、神様が生きておられ、不思議としるしをなされる方であることがよくわかるのではないでしょうか。
種を蒔くと必ず実を結ぶという被造世界の法則があります。霊的な世界にも同じ法則があるのです。前回お話させていただきましたが、教会における霊的法則の種とは何か、教会が蒔く種は涙の種です。
明治時代の初期まで「高札」というものが各地に立てられていました。その中の一つに「キリシタン宗門禁制」という項目があり、江戸時代を通じて約三〇〇年間、日本中にこれが立てられていました。何と書いてあったかというと、「バテレン(カトリックの宣教師のこと)を見つけて通報したら銀五〇〇枚を進呈する」とあります。銀五〇〇枚がいくらになるか調べてみましたが、特定はできないそうですが、当時の人々が一生かかっても稼げない莫大な金額だったそうです。そして「イルマン(教会スタッフのような存在)を見つけたら三〇〇枚」、さらに「キリシタンを見つけ出したら一〇〇枚」もらえました。これは庶民が一年間働いても稼ぐことのできない金額でした。当時は「五人組」というものがありました。五人でグループを作るのです。日本で姓がつけられたのは明治時代からです。それ以前はファーストネームだけで呼ばれていました。なぜならば、士族社会を解体して、名前だけにし、知らない人たちと五人一組の五人組を作ったからです。
何のためかというと、キリシタンを見つけ出すためです。もし五人組の中でキリシタンを隠したら、五人組全体全員が処刑されました。日本にキリスト教がなかなか根付かないのはこのためです。日本人のDNAの中に、「キリスト教だけはやめておけ」という思想が入ってしまったかのようです。涙とともに種が蒔かれてきた現実があるわけです。
しかし、聖書はそれだけでは終わりません。「喜び叫びながら収穫の時が来る」とあります。自然界の法則を見るならば、それを見出すことができます。日本には涙とともに種が蒔かれてきたのです。
主の御業はどこに現れるのか。今の世代に現れる可能性も十分にありますが、やはり、新しい世代を選んでおられると思うのです。
今回、韓国の次世代キャンプのために祈っていたのですが、詩篇一二七編三節から五節のみことばが私の心に巡ってきました。
「見よ、子どもたちは【主】の賜物、胎の実は報酬。若いときの子どもたちは、実に勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは門で敵と論じるとき、恥を見ることがない。」
このみことばで「子どもたち」と訳されている言葉は、文脈によって二つの単語が使われているそうです。三節と五節にはヘブライ語の「バニム」が使われ、四節には「ベネイ・ハネウリーム」という言葉が使われています。「バニム」という言葉は、建てる、築くという意味を持っており、「ベネイ・ハネウリーム」は直訳すると「若き日の息子たち」とか「若い頃の子どもたち」という意味になり、その内容が違うのです。
バニムの意味は、子孫が家族の歴史と信仰を次世代へと受け継ぎ、神の計画が途絶えることなく進められるようにという、広範な神の祝福を強調するとのことです。神様の祝福は、世代を超えて流れていくのです。その流れを途絶えさせてはならないのです。今この世代が持っている祝福は、信仰をしっかり継承するならば、次の世代に受け継がれるというわけです。新城教会も、七五年といつも話していますが、主が今まで支えてくださったのは、初代の兄弟姉妹が一生懸命祈ったからだと思います。これからは、新しい世代の時代になりますが、これを受け継ぐために準備しなければならないのです。
そして、このベネイ・ハネウリームは、彼らがただの存在ではないということを意味しています。鍛えられ、目標に向かって放たれる存在であり、準備が必要だという意味だそうです。
先ほども「動き出して、走り出して、主のために戦おう」と、新城教会に新しい賛美が与えられてきています。不思議でしょう。これは新しい世代のためだと思うのです。ヘブライ語の原語に目を向けると、一二七編が描く子どもたちの姿が単なる愛らしい存在ではなく、家族の基盤を築き、未来を担い、そして霊的戦いにおいても親の力となる、神からの戦略的な賜物として深い意味合いを持っていることが理解できます。そして、子どもたち、若者たち、新世代には二つの役割があります。それは、信仰を受け継ぎ、神の計画を途絶えることなく継承する役割です。そして、ただ存在するのではなく、鍛えられ、目標に向かって前進することです。
今の子どもたちの中には、ただ存在し、ゲームばかりしているような子どもたちもいますが、鍛えられ、目標に向かって前進する子どもたちを育てていかなければなりません。そのために必要なのは何かというと、やはり聖霊に満たされることです。新城教会七五年の歴史を振り返るならば、各世代に聖霊が注がれて新しい展開がありました。私たちもそうでした。次の世代も必ずそのようなことが起こるはずです。昨年よく語らせていただきましたが、詩篇四八編一二節から一四節にこうあります。
「シオンを巡り、その周りを歩け。その塔を数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。」
来週の日曜日は「数えてみよ主の恵み」第四弾が行われます。岡本政広さんが本当に一生懸命準備しておられますから、ぜひ出席していただきたいと思います。昔話の会ですね。年をとると昔話も本当に多くなりますが、昔話はすごく重要なのです。特に教会の歴史の昔話は、重要です。なぜならば、聖書がそう告げているからです。昔何があったのかを、後の時代、新しい時代に語り伝えろ、というのです。エルサレムというのは要塞都市で、今でも残っています。塔が立っていたり城壁があったり、これは過去に多くの戦いがエルサレムにあったことを表しています。そして、何度もこの町は攻められましたが、その都度神が助けてくださったという歴史でもあるのです。
塔にしても城壁にしても、戦いのための、ある意味、街の武具です。このことを、新しい世代が知らないといけない、というのです。この教会に最近加わった方々も、この教会の歴史を知らないといけないのです。
新しい世代が歴史を共有していると、「神は死を超えて私たちを導かれる」と約束されています。古い世代が死んでしまっても、新しい世代は彼らの祝福を受け継ぎ、戦いは継続されるのです。
私は先々週、ここから一時間ほど山の中に入った設楽町田口の設楽教会の礼拝で奉仕させていただきました。すごく感動しました。小さな教会ですが強く感動したのは、以前も少しお話しましたが、私が新城教会以外で初めて招かれてメッセージを語ったのが、設楽教会だったからです。この教会の説教壇は、新城教会の会堂が一九八〇年に建つ以前に、新城教会で使っていた説教壇です。新しい会堂が建ち、説教壇が新しく据えられたので、当時の設楽教会の原田先生が「うちにその説教壇を下さい」と言われ、運んでいった思い出があります。今でも健在なんですよ。私はこの説教壇の前で婚約式も結婚式もしました。懐かしかったです。今でもここで礼拝が守られているのは本当に嬉しいです。
設楽町の北にある津具村で明治時代にリバイバルが起こりましたが、津具は当時も小さな村でした。設楽教会がある田口という場所は、結構町だったんです。今の姿がこれです。人口一〇〇〇人いるか二〇〇〇人いるか分かりません。最初にリバイバルが起こったのは、ジェームズ・バラによってですが、ジェームズ・バラは津具で伝道したかったわけではなく、田口を攻略したかったのです。やはり人が多かったからです。しかし、ここから追い出されました。続いて挑戦したのが誰かといったら、滝元明でした。父は、新城で伝道しようなどとは全く思っていなかったのです。田口で伝道したかったのです。既に仕事も見つけて、全て計画を立てていたのですが、私の父の父親が裏から手を回し、それを止めてキリスト教が入ってこないようにしたのです。私の父は本当にショックを受けたようです。この町、ジェームズ・バラ、滝元明、その後、河合、見城、原田、という牧師たちが伝道したのですが、うまくいかなかったのです。皆、涙とともに町を去っていったのです。現在、菅沼威先生夫妻がここで礼拝を守っています。教会はサイズではありません。神の大きな目的がこの町にあるのです。ゆえに、この町を巡って涙の歴史があるのです。しかし、神は必ずここにも大きな勝利を与えてくださると信じています。
なぜならば、イエス様が十字架を経て、復活されたときに語られた言葉に基づいています。これはよみがえられたイエス様の言葉です。
「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。』」
イエス様は十字架を経て、死を打ち破ったからこそ、この言葉を語ることができたわけです。イエス様は天においても地においても全ての権威が与えられているということは、イエスにとって権威が及ばない領域は何一つないということです。天の天から地のどん底まで、全ての領域にイエスの権威は及んでいるということです。そして素晴らしいのは、この権威を基として「あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父と子と聖霊の名によって彼らにバプテスマを授けなさい」と語られたことです。「私があなたがたに命じておいた全てのことを守るように伝えなさい」と弟子たちに言われました。何の権威も与えずに弟子たちを宣教に送り出したのではなく、全幅の権威を授けた上で彼らを宣教に送り出したということです。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」とのことです。この権威は新しい世代にも受け継がれたということです。キリスト教の二〇〇〇年の歴史は涙の歴史ですが、全ての権威は、各歴史を通して世代を通して今も私たちの手の中にあると知るとき、勇気が湧いてきます。この写真は新城教会の、今から四〇年ぐらい前の写真です。四〇年前に集っていた方々、誰一人現在いません。総入れ替えです。入れ替えでよくもやってきたなと思います。七五年ずっと同じ人が継続していればいいですが、そういうわけにはいきません。しかし、こうして続いているということは、神の権威が継続して与えられていることを物語っているわけです。これからも、私たちが心を一つにして主を礼拝していくならば、必ずこの権威は継続され、やがてイエス様がお帰りになる日まで実を結んでいくということです。