〜2022年〜 「それは主の復讐の年」
今日の復活祭に期待しよう!!
〜復活の力を受け取ろう〜

2022年4月17(日)新城教会主任牧師 滝元順

マタイの福音書 27章50~54節
『しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」 』

ルカの福音書 24章1~3節
『週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!
素晴らしい演奏を聴くことができました。音楽を奏でる人には四種類の人がいます。「上手くても下手な人」、「下手でも上手い人」、「下手で下手な人」、そして「上手くて上手い人」の四種類です。新城教会の方々は、上手くて上手いか、下手でも上手い人たちです。バラエティに富んだ演奏を毎回聴かせてくださっていますが、今日は上手くて上手い人たちが、心を込めて演奏してくださいました。もう一度、大きな拍手をして感謝しましょう。
この二組の演奏者たちは、午後からの召天者記念会でも演奏してくださいます。楽しみにして下さい。ネット配信もされます。

 今日は復活祭ですが、毎年の復活祭とは違います。毎年、教会で行われている復活祭は、復活祭もどきと言いますか、イエスさまの十字架と復活の日程をドンピシャで表している日程とは違います。前回、その理由をお話しさせていただきました。
イエスさまの時代は、我々が現在使っている暦とは違い、「太陰暦」でした。太陽暦の中に太陰暦を落とし込もうとすると、日にちはばらつき、金土日にもハマりません。変動するわけです。
当時、ローマ帝国は太陽暦を採用していました。キリスト教が国教化されたとき、教会が使っていた暦を廃止して、太陽暦に変えさせたわけです。
そのため復活祭は、「春分の日の後の、最初の満月の。翌、日曜日」と決められてしまいました。毎年、日程は変化し、変わらないのは「曜日だけ」です。ローマ帝国は日曜日を重要視していました。なぜなら、日曜日は太陽の日として、太陽神を拝んでいたからです。そこにキリスト教は接ぎ木されたわけです。異教の神々の礼拝の日を、イエスさまを礼拝する日に無理矢理変えられたのです。その片棒を担いだのが、ローマ・カトリック教会でした。聖書は、神が定めた時と法則を変えてはいけない!と告げています。しかしローマ・カトリック教会は、神の命令を破り、暦を変えたのです。

しかし今年は、真の復活祭の日程と、変更された太陽暦の日程が上手く重なる特殊な年です。聖書暦第一の月(ニサンの月)十四日・十五日・十六日が、ユダヤ暦によるイエスさまの十字架と復活の日です。聖書からそれは明らかです。第一の月十四日に過越祭があり、毎年、ユダヤ人たちは子羊を屠ってその血をかもいと柱に塗っていたのですが、イエスさまが過越の子羊となって、十字架にかかって下さったのです。
そしてイエスさまがよみがえられたのは、第一の月十六日です。それは折りしも「初穂の祭」の日でした。大麦の初穂を神にささげる例祭を、ユダヤ人たちは代々、守っていたのですが、イエスさまは、よみがえりの初穂として、その日に合わせて、よみがえってくださったのです。すごいと思います。イエスさまこそ、神が人となってくださった方であり、人類を救うため、被造物全体を解放するために来られた神のひとり子であることがよく分かります。

教会は毎年「金・土・日」に復活祭を固定して祝っていますが、これは本当の日程ではないのです。
しかし今年に限っては、第一の月十四日が、太陽暦四月十五日金曜日で、イエスさまが十字架にかかられた日と重なっています。
そして今日は四月の十七日ですが、聖書暦の初穂の祭と重なっています。イエスさまがよみがえられたドンピシャの日程です。
この事実を知っていても、知らなくても、今年は世界中が、真の復活祭を祝う事になります。

旧約聖書を見ますと、神さまはご自分のカレンダーを持っておられる事がわかります。そのカレンダーに従って、天が開き天が地に降りて来るという法則を設定されたのです。我々が神の法則を知って、神の日程に合わせると、天と地が重なるのです。
今日はイエスさまがよみがえられた記念日です。かつて、復活の力が地上に及んだ記念日です。ゆえに今日は重要な日です。メッセージのタイトルを「今日の復活祭に期待しよう!~復活の力を受けよう!~」とさせていただいたのは、そのためです。

イエスさまがよみがえられたのは、第一の月の十六日、今年の太陽暦では、四月十七日「週の初めの明け方早く」です。イエスさまは、日の出とともによみがえられたと考えられます。
「週の初めの日」とは、安息日の翌日を指します。四月十六日が安息日、それも、大いなる日と呼ばれる、特別な安息日でした。それが昨日でした。ゆえに今日が「週の初めの日」となるわけです。
今朝の明け方にイエスさまのよみがえりをお祝いしましたか?あまりいないですね。私は歳を取って、早く目覚めたので礼拝しました。
しかし皆さん、心配しないでください。イスラエルと日本には時差があるからです。イスラエルでは、まだ夜が明けていません。今日のエルサレムの夜明けを調べてみました。日の出は「六時七分四十五秒」です。それを日本時間に直すと「十二時七分四十五秒」となります。今、何時ですか。「十一時十二分三十秒」です。ということは、良かったですね。夜明けに間に合います。今日の礼拝、十二時七分四十五秒まで、何らかの形で継続したいと思います。
新年にはカウント・ダウンをしますが、今日は、イエスさまのよみがえりをカウントダウンしたいです。どうですか、楽しみですね?今日は朝早く起きて祈るべきだった、ミスしたと思っていた方、心配しないでください。まだまだ、夜は明けていません。

イエスさまのよみがえりは、歴史的事実です。この世の物理的法則とは全く違い、イエスさまは死の力を打ち破ってよみがえられたのです。もしもこのことが事実ならば、イエスさまに人生を賭けたら、必ず良くなるはずです。
イエスさまのよみがえりを信じますか?人類の歴史の中でただ一度だけ、死を打ち破って、自らよみがえられたのがイエスさまです。

キリスト教では「救い」という言葉をよく使います。どうしたら救われるのでしょうか。それは本当に簡単です。修行しても救われないです。東洋人たちの多くは禅を組んだり、様々な修行をしたら救われると考えています。一生懸命修行をして、救いにまで届いたか?と思ったら、「あぁ、駄目だ!」となります。

私は以前、オウム真理教の裁判に呼ばれた事があります。裁判所に来てくれと頼まれました。なぜかと言ったら、オウム信者が、その日、釈放されるというのです。釈放された信者を捕まえて、脱退するように説得してくれと頼まれました。「そんなの無理だ」と思ったのですが、お世話になっていた人から頼まれたので、茨城県だったかな・・、裁判所に行きました。彼らの裁判を傍聴しましたが、本当に馬鹿らしいと言うか、彼らは司法を舐めている感じでした。被告はサリンをまくような罪ではなかったので、執行猶予付きで判決後その場で釈放されました。
その日の裁判を報道するために、テレビ局が一斉に来ていて、釈放された瞬間、被告は走り出し、私たちと追いかけっこになりました。私は当時若かったので、オウム追跡競技で一番でした。私はオウム信者の迎えの車に飛び込んで、「おい、俺と話そう!」と言ったら、「誰だお前は、うるさい!出て行け!」と車から放り出されてしまいました。
でもその後、オウム信者たちと、いろいろ話すことができました。彼らは私に「おまえは誰だ?」と言うのです。「何に見える?」と聞くと、「刑事だろう。」と言うのです。「違う」と言うと、「じゃぁ何者だ?」と聞くので、「俺は修行者だ。」と答えたら、彼らは心を開いてくれました。私たちだって主の前に出て祈っていますから、修行者と言えば通じるかなと思って答えたら正解でした。「そうですか!修行者には敬意を表します!」と態度がかわりました。一緒に行った人が、私のことを「この人は、四十日間断食した人だ。」と嘘を言いました。私は三日以上断食したことはありません。そうしたら彼らは、めちゃくちゃ心を開いて、「えっ!本当ですか!四十日間にどんな体験がありましたか?」と聞くわけです。
私も彼らに「麻原があれだけ悪いことしたのに、なぜこの団体に未だ残っているの?」と聞いたら、「オウムは一人ひとりの修行場だ。麻原だって初めはいい線まで行っていたけれど、最後にこけたんだ。私も一生懸命修行している。そのうち、いいことがあるかもしれない・・・。」と言うのです。
それで「私は修行者と言ったけれど、修行者じゃないよ。」と言いました。「キリスト教は修業しなくても、信じるだけで救われるよ!」と言ったら、たいへん興味を持ってくれました。「教会に来たら、子どもたちだって聖霊を受けて、素晴らしい体験をしているよ。」と言ったら、「それは本当ですか?」と言うのです。「本当だよ。」と答えたら、「教会に行きたいなぁ。」と言いました。「いつでも来てください!」と名刺を渡したのですが、「なかなか、社会の目もあって難しいんですよ。」と言っていました。それが本音ではないかなと思います。
聖書の中に、こんなことばがあります。
ローマ人への手紙十章九節、

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

救われるのは修業ではないのです。救われる為には、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、救われるからです」と約束されています。
ということは、イエスさまがよみがえられた事を疑わないで、信じ、告白したら救われるのです。本当に簡単ですね。
ちょっと、このみことばをご一緒に読んでみましょう。そうしたら救われるはずです。まずは心に信じてくださいね。では、いきましょう。

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

イエスさまは私たちの主、救い主です。神はイエスを死者の中からよみがえらせたという事を信じたら救われるという、この言葉は大変重要です。努力をやめて、ただ信じなさい!ということです。

今日はよみがえり記念日、喜びの日です。しかし礼拝が終わり午後一時半からは「召天者記念会」が行われます。新城教会、今年で七十二年の歴史があります。私たちと共に礼拝を守っていた方々が、人生を終えて、天に帰って行かれました。その方々を偲び、主を礼拝する集まりです。
今まで肉親とか、兄弟だとか、友人の死に遭遇したことがあるかもしれません。人生の中で最も辛いのは「死別」だと思います。人生が進めば進むほど、そういう場面に多く出くわすわけです。
私が若い頃、自分の両親が死ぬなんて、全く考えませんでした。しかし両親も次々と天に帰っていきました。私の親父は滝元明、母は清子というのですが、この二人、教会の中庭に座っていた頃もあったのです。
しかし今は天に帰ってしまいました。人生とは、ある時は華やかですが、やがて地上から出て行かなければならない寂しさがあります。

実は私は八人兄弟です。しかし生きているのは七人です。なぜなら、妹が一人、私が小学校六年生くらいの時、三ヶ月で亡くなったからです。あの時やはり悲しかったです。学校から帰ってきたら、「ますみ」という子だったのですが、「ますみちゃんが死んじゃったよ!」と聞かされました。「えーっ!」という感じでした。
朝、私が学校に行く前まで、ニコニコしていました。それが疫病にかかって、呼吸困難になって死んでしまったらしいのです。妹の顔は覚えていないです。三ヶ月でしたから。
でも昨年、ある方から、妹の写真をいただきました。これが献児式の時の写真です。今では誰も彼女のことを記憶していません。
 考えてみれば、地上で共に過ごせる期間ってあんまり長くないです。死んだら全てが終わりだとしたら、本当につらいです。