食事時には彼らに食事をきちんと与えるような 忠実な賢いしもべ

もう一つ、一九九二年の七月に霊的戦いが始まりました。神さまは私たちに戦いの中で声を出してくれました。「どこどこに行きなさい」。と預言の賜物が与えられて、神さまが映像を見せられたり、神の声を聞いて、私たちは祈ることができました。あのときも神の声を聞いたなと思います。そんな中で、新城教会は少しずつですけれども増え広がって、皆様方が来てくださって素晴らしい教会になってきています。

九二年からもう三〇数年間、教会全体に聖霊の体験がありません。また、主の声をもっと聞かなければいけないと教えられました。聖霊の働き、それも教会全体に聖霊の激しい働きと、神の声を聞いて、「食事時に食事を与える」器になれるように、主の働きをすることができるように、しっかり求めて行きたいと願います。先ほどお読みしたマタイ二四章四五節もう一回読みます。

「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう」。

ここに「忠実」って書いてあります。忠実っていうのはどういう意味か、もう皆さんご存知だと思いますけど、辞書を見ますと「真心を込めてよく努めること・内容をごまかしたり省略したりせず、そのままに示すこと」と書いてあります。真心から一切省略することなく、付け加えることもなく祈り、とりなす器になりたいと願います。モンゴルからスウェーデンの宣教師が来てくださった。それも、戦後すぐ海軍工廠の爆撃で多くの犠牲者が出た地をいやし、魂の救いのために来て下さいました。そしてリバイバル・ミッションがこの教会を通して起こされました。

また、「思慮深い」「言葉を注意深く十分に考える様」という意味です。霊的に敏感になって、「食事時に忠実な思慮深いしもべになるように」と祈っていかなくてはなりません。

正直、今家内が施設に入所しているものですから、私は自分の食事の準備をしなくてはいけません。自分でやらなければいけないのですが、面倒くさいんです。食欲というか、何か食事に対しての欲があんまりなくなってしまって、もう食事しなくてもいいやと思う時があります。正直夕方帰って、なんか小腹がすくと果物を食べたりお菓子を食べて、「これで夕食いいや」と思ってしまうときがあります。良く栄養あるものを食べてといわれるのですがめんどくさいのです。我が家には、恵太がいるんです。彼がこの頃はしつこく聞くんですよ。「何食べた?食べてない?だめだ食べなくちゃ病気になる」なんて行ってくれるんです。私のために考えてくれてるんですけど、本当に自分の中で霊的に、何もかも鈍感だなと思うんです。第二コリントの二章十一節にこんなみことばがあります。

「これは私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません」。

知らない間に霊的な鈍感になって、サタンに騙されてしまい、欺かれて策略にまんまとはまり、面倒になってしまいます。またマルコの福音書七章の三節から四節にこんなみことばがあります。

「パリサイ人をはじめユダヤ人が皆、昔の人たちの言い伝えを固く守って手をよく洗わないでは、食事をせず、また市場から帰ったときには体を清めてからでないと食事をしない。まだこの他にも杯水差し銅器を洗うことなどを固く守るように伝えられた。しきたりがたくさんある」。

私これ読んだときにドキッとしたんです。パリサイ人たちには、「しきたり」が沢山ありました。昔の人たちの言い伝えを固く守って手をよく洗わないでは、食事をせず、また市場から帰ったときには体を清めてからでないと食事をしない。まだこの他にも杯、水差し、銅器を洗うことなどを固く守るしきたりがありました。私たちも信仰がしきたりになってるんじゃないかって思います。今日皆さん礼拝に来られましたけど、どんな気持ちで来ましたか?「毎週来るものだから」そのくらいの気持ちかもわかりません。

それはしきたりじゃないですか?食事の前に祈る、それもしきたりになっていませんか?
マンネリ化した信仰。自分でこれで良し。これを行っていれば主は喜んでくれると思う。などハンコ押したように、いつもやってるから、いつも朝祈ってるから、いつも聖書読んでいるから、いつもこうしてるから、心からではなく、自分の中でしきたりの信仰を持ってしまっていませんか?

マタイの福音書四章四節、

「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」。

みことばを食べなさい。私たちは何気なくしきたりで聖書を読んでしまってますけど、もっと注意深く「今日何を神さまは語ってくださるのか」、それを受け取る準備をしながら、しきたりではなく、みことばを吟味しなければいけません。エペソ人への手紙六章一七節、

「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」。

その日その日に受け取る剣を神さまが用意し、「これで戦ってくれ」と私に語ってくれてるのに、しきたりで読んでしまってその剣さえも目に入らずに戦うところも過ぎ去ってしまうときがあります。しかし今日神のみことばをしっかりと受け取っていかなければいけないと思います。

そんな中で、私が教えられたみことばがあるんですけども、第一コリントの一二章二七節、

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」。

教会っていうのは、建物じゃなくて皆さん一人一人で、皆さんは人間の体の各器官を担っている。その器官が元気になって役割を果たしたら私たちの教会。体は動くことができるわけです。今日、私たちは「食事時に食事を与えるしもべ」となることができるように。間違って他の人を叩いてしまうようなとんちんかんの戦いをしているんではなくて、神の前に食事時に食事を与えて、真の敵に向かって戦う事できる者。神が今望んでおられることを行う者になりたいと思います。

そしてもう一つ、エレミヤの四八章一〇節、

「『主』のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ。その剣をとどめて血を流さないようにする者は、のろわれよ」。

このみことばをリビングバイブルで読むともっとわかりがいいと思います。リビングバイブルですと、

「モアブの血を流すのをいとい、剣を抜くのをひかえる者は、のろわれよ。わたしが与えた仕事に手をつけない者は、のろわれよ」。

リビングバイブルで読むとわかりやすいです。主が「この仕事をしてくれ」と言われてるのに、手をつけてなかったことが、私はいくつあります。その後なんて書いてあるでしょう。「わたしが与えた仕事に手をつけない者は、のろわれよ」って書いてあるんです。

今日、私たちは「食事時に食事を与える」ことができるような、神の声をしっかりと聞くことができるような、主の前に正しく主の声を聞いて、聖霊の油注ぎをいただいて、さらにみことばを私たちがいただいて、この日本のためにこの地域のために戦っていかなければいけないということを教えられます。「あなた方はキリストの体であって、一人一人は各器官です」。任せられた器官があるわけです。その器官を、しっかり努め励みなさい。「任せられている仕事をちゃんと器官として役割を果たしなさい」と、主は語ってくださっています。みんなが正常に各器官が動いていけば体は健康になっていきます。「わたしが与えた仕事に手をつけない者は、のろわれよ」主の求めているものをしっかり聞いて、食事時に食事を完璧にこなしていきましょう。

終わりにしますけど、二〇二五年は「主の働きが加速される年」。私このテーマ、あんまり今まで重要視してなかったんです。二〇二四年も二三年も振り返ることなかったんですけど、今回、今年あと三分の一残した中で、大きな前進を与えて下さいました。今日、私たちは食事時に食事をする器になりたいと思います。主が仕事を任せたのに、手をつけなかったものは呪われる。そんな呪いではなくて、「よくやった忠実なしもべ、よく食事時に食事を与えた。全財産を任せることができる」。神様が、私たちの神です。

今日もう一度聖霊の力をいただいて、神の声を聞いて、主が早く帰ってきてくださるように、その前に日本に皆さんの住んでいる地域にリバイバルのわざが起きるように、主のわざが起きるように、もう全てを持っておられる。「私の小さなミッションの心配とか、家内の心配とかあるけど、全部任せなさい。主があなたを助け導いてくださる。あなたは高価で尊い。私は愛している」。さまざまなみことばで私たちを励ましてくださっています。

今日、あなたの役割を与えていく器になって行き、主の全財産を任せて頂ける働きをさせて頂きましょう。もう一度だけ告白の意味で読んでみたいと思います。全員でこれを神のみことばとして、今日の宣言として、告白し、受け取りましょう。

マタイの福音書二四章四五〜四七節

「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります」。

お祈りします。

「愛する主よ。今まで聞けなかったことを許してください。あなたの食事だというときに、食事を与えなかったことを許してください。これから神の声が聞こえる耳にしてください。聖霊の油注ぎをいただける器とさせてください。この教会、私たちを任せられている学校や会社、さまざまなところに剣を置いて、日本にリバイバルのわざが表されますように。弱いしもべですから助けてください。主からの全財産を任せて頂けるものとさせてください。いつも助けてくださる主に感謝し、主にすべて栄光をお返ししてお祈りいたします。アーメン」。