良い実が結ばれるために
~“自由”の用い方~

パウロは使徒となって世界中を巡って宣教し、新約聖書の大半を記すなど大きく用いられた主の器でした。 しかし、そんな彼も、サタンに起因する大きな問題で、祈っても祈っても取り去られない苦しみがあったことが、コリント人への手紙 第二十二章七―九節に書かれています。

七 その啓示(けいじ)のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。 それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
八 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
九 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。 ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。”

ここにパウロが告白しているのは、サタンの使いが彼を苦しめているということです。 肉体のとげと記されていることから、それは病気であったかもしれません。 恐らく、彼の回心のきっかけとなった主との直接的な出会いにより、彼は目を患うようになったのではないかとか、あるいは、恐らく彼にはてんかんの発作があったのではないかともいわれています。 時にその弱さは、彼が教会で奉仕している最中にも現れ、彼のミニストリーに暗い影を落としていたのではないかと考えられています。 そのことを彷彿させる記事がガラテヤ人への手紙四章に記されています。

パウロはまさに力強い神様の技を行う勇士でしたが、同時に数多くの戦いの苦しみに満ちていた人でした。 彼はそれらの戦いを、自分が高ぶることがなく、どこまでも主により頼むことができるための、サタンの使いだと考えていたのです。
ここでパウロが言っていることは、ある意味で、彼が信仰を脱線しないよう防ぐために、悪魔が神様の主権の中で用いられているということです。 悪魔は、いくら強い力や多くの知恵知識をもって世界に暗躍していたとしても、私たちの神様に並ぶ存在ではありません。 彼らもまた私たちと同様に神の被造物であって、神の主権の下でのみ働くことができる存在なのです。
パウロはこのようなサタンとその一味との関係を通して、自分ではなく主にはできる、なぜならば、主はそのような自分の弱さの中で働かれるからである。 人の力はそれに付け加えることはないと学んだと語っているのです。

去年の話になるのですが、十二月一日の主日礼拝で私がお話ししたメッセージのテーマは、伝道者の書七章十六節に書かれている「正しすぎてはならない」でした。
自分の正しさが前面に出る、その時私たちは何かに、もしくは誰かに罪・悪を見出し、それを攻撃しているのではないでしょうか。 「私は正しい。あなたは間違っている」とどこまでも主張すると、それはしばしば破壊的な結果を招きます。 その人は正しさと引き換えにすべてを失ってしまうのです。 夫婦関係・友人関係・会社やコミュニティでの信頼関係も、“正しすぎる”ことが失うことにつながることがあります。 無くしてしまったその時、「自分は大切なものを失うために正しさを主張していたのか」と悔やんでも遅いのです。 人と人・コミュニティとコミュニティ、国と国、全ての中にそのような悲しい現実を見るような今日この頃です。
それは、私たちの信仰にさえ暗い影を落とすことがあります。 正しさは、人を謙遜(けんそん)にするはずの信仰さえ争いの原因としてしまうことがあります。 神学論争と言う言葉があるように、神様によって与えられた恵みであっても、一歩間違えると、それは自分を正当化するための強固な砦、相手を攻撃する砲台になります。

エペソ人への手紙四章には「私たちは主にあって一つである」という教えが書かれていますが、私たちに与えられた恵み・聖霊(せいれい)の賜物がどのような素晴らしい賜物・知恵や知識・特別な力を持っていても、それに専念する恵みは、あなたの周りにある別の賜物によって支えられているゆえに成り立っているのです。

お好み焼きは好きですか。 多くの人が大好きだと思います。 お好み焼きには名前のようにいろんな具材が自由に入れられます。 そして、各具材が互いに融合して素晴らしい味のハーモニーを形成するのです。
「味のハーモニー」は、複数の味や香り、食感が調和し、それぞれの特徴を引き立てながら一体となる状態を指します。 料理で異なる食材が融合して新しい美味しさを生むときに使われる表現です。 ちょうど音楽のアンサンブルのようなものと言えるかもしれません。 一つ一つの食材が、全体の響きを壊すことなく、美しい調和を作り出している状態です。 それぞれの特徴が引き立て合い、新しい一体感を生む瞬間は、まるで心地よい音楽の波に包まれるかのようです。

「味のハーモニー」の身近な具体例では、以下のような食べ合わせが楽しいです。

・きゅうり + はちみつ = メロン きゅうりに甘さを加えると、ウリ科特有の風味がメロンに似た感じになります。

・プリン + 醤油 = ウニ 甘みと塩味が組み合わさることで、ウニの濃厚な味わいに近づく瞬間を楽しめます。

・バニラアイス + 醤油 = みたらし団子 バニラアイスのコクに醤油の塩味が加わると、不思議と和の甘味が完成するのです。

これらの食べ合わせは、感覚や味覚の新しい発見を楽しめるという意味で「味のハーモニー」を感じることができます。

これに対して「味がけんかしている」という表現があります。 これは、異なる味がそれぞれ主張しすぎて調和せず、お互いが引き立て合うどころか、むしろぶつかり合ってしまう状態を指します。 まるで音楽の不協和音のように、どの要素も目立ちすぎて一体感が感じられないイメージです。 具体的な例を挙げると、例えば、

・ペペロンチーノのようなシンプルだけど奥深い辛さと塩味のバランスが命であるパスタに甘いメープルシロップをかけてしまうと、風味がかき消されてしまって全体のバランスが取れなくなる。

・酸味が強すぎるドレッシングが強すぎて、他の食材の風味が感じられなくなる。

これらの状況では、味が「主張」しすぎて、結果として全体の料理が不自然に感じられてしまいます。 「味がけんかする」は、料理では、「調和」がいかに重要かを逆に教えてくれる面白い表現です。

最近、美味しいコーヒー店を見つけて、私のお気に入りになりました。 教会の隣にヘブンズアイスクリーム&コーヒーがあります。 ヘブンズでもコーヒーをよくいただきますが、違うお店です。 名前は伏せておきますが、そのお店は清楚で余分なものが置いてない、ミニマムなたたずまいです。
皆さんはコーヒーをブラックで飲めますか。 そのお店で飲むなら絶対にブラックです。 本当に良い味わいを得たいなら、アイスコーヒーも選ばない方が賢明だと思います。
一口飲むと、初めにまろやかな香ばしい香り、ほのかな苦味がやってきます。 ゆっくりと味わいながら飲み込みます。 すると驚くのは、五秒後に柔らかくフルーティーな酸味と、なんと甘みが追いかけてくるのです。 選ぶコーヒーの種類によってその味は柑橘系だったりベリー系だったりします。 まさに初めて味わうコーヒー。 おそらく最適なお湯の温度と、マイルドで雑みのないこだわりの水も、コーヒーの味に一役買っていると思います。
マフィンを添えてみるのも乙です。 でも、主役はマフィンではなくて、あくまでコーヒーです。 マフィンも甘すぎない大人の味で、プレーン・ほうじ茶・抹茶・チョコレートから選びます。 マフィンにフォークを落として口に入れると、シュトロイゼルのカリカリした食感とともに、まずはマフィンの素朴な味が口に広がります。 その後でフレーバーの香りが鼻に抜け、直前に飲んだコーヒーの風味と混ざり合って、幸福感に包まれます。
マフィンを口にすると水気が欲しくなります。 しかし、コーヒーをこれに充てると必要以上に飲んでしまうので、ここはお水で対応するのがいいです。 ここのお水には、レモンやハーブが加えられていい味出しています。 またお水を飲むと、マフィンの風味がマイルドに和らげられて、なんとそこにもう一度コーヒーの風味がよみがえってくるのです。
このように、コーヒー、マフィン、お水、またコーヒーと、まさに三位一体のコンビネーションで、ゆっくり味わうことで一杯のコーヒーを三十分くらいかけて楽しむことができます。 すると心がリラックスして、ゆったりとした会話にもつながります。
その後お店を出るのですが、コーヒーの風味はその後も三十分くらい口の中に残っていますので、リッチな気分もその分長持ちします。 心が豊かになる一杯のコーヒー。 こういうものがあるんだなと知りました。

皆さん、こういうお店には、五、六人気の合う仲間でワイワイと行ってはいけません。 楽しい交流のためには行かない方がいい。 大勢で入っても、一杯一杯マスターがじっくり抽出するから、初めの人から最後の人までコーヒーが出るまで二十分くらいかかって場が白けてしまいます。 はっちゃけた交わりだとここのコーヒーの本当の良さは分からないと思うのです。
もし、私が皆さんとそこに行くとしたら、二人か多くても三人です。 しかも、たとえば若者なら結婚相手の相談とか、献身についての相談とか、皆さんの人生相談に乗るようなシチュエーションがいいと思います。 そういうまじめな話題の時に一緒に行ってあげますから、そういう気持ちになったら「雅也先生、美味しいコーヒー飲みたいです」と言って声をかけてくださいね。

話が脱線しましたが、いろんな味を楽しむ、味がけんかしておらず、互いを補完しながら融合していることで、私たちはその料理をおいしいと感じるのです。
あなたの賜物(たまもの)も、それがどんなに優れたものであったとしても、それが自己肯定・自己満足に結びつくのではなく、頭なるキリストと、その体なる各器官のためであり、どこまでも周りの益のためという自己犠牲が伴なわなければなりません。

去年の七月、創世記に描かれているヨセフの物語からご一緒に学ぶ時を持ちました。
ヨセフの物語を見る時、私たちは、神様が彼に与えられた素晴らしい賜物である、夢を見て未来を予知するという能力によって、彼の人生にもたらされた様々な苦しみと後の栄光に目が行きがちです。
しかし、聖書が語りたいヨセフ物語の最も大切なメッセージは、興味深いことに、イスラエル民族を統治する支配者、そしてのちの救い主の系譜が、ヤコブからユダに受け継がれる転機が描かれていることであると、その時学びました。

創世記四十九章で、自分の最期を悟ったヤコブが、十二人の子どもたちを呼び寄せ一人一人に祝福を与えました。 その時、他の子どもたちとは明らかに別格の特別な祝福をユダに与えました。 ヤコブは、ユダの子孫にイスラエルの統治者としての地位が約束されると宣言しました。
もしもこれを聞いたヨセフが、神様の摂理(せつり)に対して、心が整えられていなかったら、父にこう言ったかもしれません。 「お父さん。自分がイスラエル部族を飢饉から救い、滅亡を防いだんですよ」と。 自分の功績を前面に出して、自分こそがイスラエルを治める正統な後継者ではありませんか、と父に抗議したのではないかと思います。 しかし、ヨセフはその言葉を聞いて、受け入れることができたのではないかと思います。
なぜなら、ヨセフが人生を通じて知ったのは、神がどのようにイスラエルを特別に選び、導かれているのか、そして、その先にある全世界の祝福のためにこそ、自分に与えられた能力が用いられたのであり、彼が通ったあらゆる理不尽と思われた苦しみも、神の計画の実現のためであったことを理解した。 そのことが、ヨセフの通った人生で彼が得た最も大切なこととして描かれているからです。 自分は神様の目的のために用いられたただの器である。 ユダに統治者としての役割と賜物があるのならば、主がそのように彼を用いられますようにと納得したに違いありません。

イエス様の十字架の時、イエス様は「今すぐに十二軍団の天使を護衛として動かすことができる」とおっしゃいました。 しかし、イエス様はそうはされなかった。 ご自分の正義を主張することもせず、神様のみ心に従い、悪い者たちの悪に身をゆだね、十字架の苦しみを耐え抜かれ、死にまで従われたのです。 イエス様はその先にだけある勝利を見ておられました。 そうです、イエス様はその理不尽な苦しみの中でも“自分の正義”ではなく“神の正義”がどのようにすれば実現するのかということから目を離さなかったのです。 全人類の救いのために、自分が十字架につくことを父なる神様が望まれているのなら、自ら十字架につき苦しみを耐え抜くという“従順”を選択されたことによって、イエス様はサタンに打ち勝たれました。