立ち直らせる力

 そして家に帰ったら、桜が咲いていたのです。もうすごい、なんか神さまは励ます方だな、と本当に思います。

 ですから、とりなしの祈りというのは、本当に現実的な力です。私たちはお互いのために、ぜひ祈り合いましょう。自分の思いをはるかに超えて、祈りの力は働くことができるのです。

 

 二つ目のポイント。これは「砕かれた心」です。立ち直らせる力、その必要なもの、その要素の中に、「砕かれた心」が必ず必要です。今日の二十二章三十三節と三十四節、

 

シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」”

 

 これは最初にペテロが、「絶対に私はあなたと一緒だったら死んでもいい。死も覚悟してる!」と発言していた場面です。でもイエスさまは、「いや、あなたは私を知らないって言うよ」と、そう言われていた場所です。

 この後、先ほど読んだ五十四節以降の話が続くわけですが、五十九節からもう一回読みます。

 

それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。

主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく泣いた。”

 

 このやり取りを見ていると、本当に切ない気持ちになります。ペテロは絶対裏切らない!と、イエスさまと一緒に最後までついていく、仮に死なないといけなくなっても、私はあなたと最後まで一緒に行くんです!と、心の底から彼は言ったと思います。「覚悟はできている」と言いました。だから本当に覚悟していたのです。人間の意志の力で、できる最善のことを彼はしようとしました。でも、その言葉を守ることはできませんでした。

 一番大事な瞬間に、主を裏切ったのです。「絶対に裏切らない。周りの弟子はみんな見捨てるかもしれないけれど、私だけは裏切らない」とまで、他の福音書を見ると言っています。彼はそこまで言ったのに、その覚悟、本気の覚悟は何の役にも立たなかった。そして彼は、激しく泣いたとあります。

 この「外に出て激しく泣いた」という六十二節の言葉ですが、これこそが立ち直りに実は不可欠な涙です。自分の弱さを本当に痛感して、言い訳ができない自分の罪に向き合うことがないと、立ち直りもありません。これは逆説的ですが、「まだ自分は大丈夫」とか、「俺の力でやっていける」と思っているうちは、本当の復活を体験することができません。

 

 ペテロが裏切ったとき、「主は振り向いてペテロを見つめられた」とありました。このイエスさまの眼差しを、ペテロは本当に忘れることができなかったと思います。この眼差しは決してペテロを責め立てるような、「やっぱりお前裏切ったな」という目ではなかったと私は信じています。もちろんどういう目だったかは想像するしかできませんが、「本当にわかっているよ」という、愛の眼差しでペテロを見てくださったのだと思います。

 

 主は私たちの弱さに同情できない方ではないと、聖書にはっきり書かれています。ヘブル人への手紙四章十五節に、

 

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです”

 

とあります。イエスさまが人間になってくださった意味は、まさにここにあります。

 イエスさまは罪を犯さず、誘惑にもすべて打ち勝った方ですが、その誘惑がどれほど厳しいものであるか、本当に追い込まれたときに人間がどのような反応をしてしまうかということを、よく理解してくださっています。だから、ペテロの局面でも、「絶対裏切らない」と言っていたのに、「いや、知らない」と言ってしまった、その弱さ、その彼の心の痛みも、イエスさまは同情してくださって、あのとき主は、ペテロを見つめておられました。

 この、砕かれて神さまの前に「私は本当に何て弱い人間なのだろう」と涙を流す経験が、彼のその後の立ち直りには必要だったのです。自分の力でできると思っているうちは、ダメです。

 

 私は今、保護司という仕事をしています。それは、罪を犯して刑務所にお世話になった、保護観察とか、仮釈放などになった人が、社会にもう一度復帰するのを助けるという仕事です。保護観察中に面談をして、「困っていることはないですか」「会社にはうまく馴染めていますか」など、いろいろな話をし、相談に乗る仕事です。

 この仕事を始めてもう十年目になりますが、これをするようになってから、残念ながらまた再犯して刑務所に戻ってしまう人もいれば、更生して社会に復帰できる人も両方見てきました。その両者を見ていて、非常に教えられたことがあります。

 それは、「俺は大丈夫だよ」と面接のときに強がるタイプの人、つまり「全然問題ないです。うまくいっています」と言っている人ほど、再犯するということです。本当に自分の弱さを認め、「家族とうまくいっていない」と素直に悩みを話せる人のほうが、助けを得て、立ち直っていくことができるのです。これは本当に原則です。クリスチャンも皆、同じです。私たちは刑務所に入ったことがないかもしれないけど、弱さを抱えていて、さまざまな失敗をしてしくじってしまう存在です。そのことを認めず、「いや、運が悪かっただけです」とか、「みんなやっているし、別に大したことじゃありません」といった態度を取る人は、本当の復活の力を体験することができません。

 だからこそ、「こんなに弱い、イエスさまを十字架にかけてしまうほど、本当に駄目な人間だったのだ」「言い訳できない」ということをまずは痛感することが、とても大切なポイントなのです。

 

 そして最後に、立ち直らせる力の三つ目、それが「復活の奇跡」です。これは最も重要なことです。イエスさまが実際に死を打ち破ってよみがえってくださったという出来事が、ペテロが本当の意味で立ち直るための最後のピースとなりました。

 今日は読んでいないのですが、ルカの福音書二十四章の、復活の出来事の後の箇所を開きます。二十四章十一節と十二節です。

 

この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。”

 

 これは復活の朝、最初に女たちが墓に行った場面です。み使いが現れて、「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」と告げました。そのみ使いの話を聞いた女たちは驚き、十二使徒たちのところに戻って報告した場面です。ユダはいないので十一人ですが。

 この時に、「たわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。」とあります。「何を頭のおかしいことを言っているのか」と。「もう十字架でイエスさまは死んでしまい、墓に入ったじゃないか。」みんな絶望していましたから、「イエスさまがよみがえったらしい」と聞いても、「そんな馬鹿な」と思う、それが普通の人間の反応です。

 

 しかしペテロは、ここで見ると、立ち上がって墓を確かめに行っています。彼はもちろん、一番つらい思いをした人でした。 イエスさまを裏切らないと言い、近くまで何とか見に行き、心配して何とか助けたいと思っていたはずです。しかし最後の最後、裏切って泣き崩れ、そのまま落ち込んでいました。

 そんな中、復活したという話を聞いたとき、みんなは「馬鹿な」と言いましたが、ペテロは心に何か思うところがあったのでしょう。自分の悔いもあり、「とにかく、嘘か本当かわからないけれど見に行こう」と決心し、自分の目で確かめに行ったのです。

 すると、墓は空っぽで、あま布だけが残っていました。ここではまだ復活のイエスさまに直接出会っていませんが、少なくとも墓が空であることは確認しました。そして、驚きながら帰っていきました。

 

 本当の意味でペテロが立ち直るまでには、さらに時間がかかります。その後、ヨハネの福音書に記されているとおり、ガリラヤでイエスさまに出会い、「私を愛するか」と三度問われる、まるでトラウマを克服するようなカウンセリングのような再会がありました。さらに、ペンテコステのときに聖霊が注がれ、彼はついに本当の意味で立ち直ることができました。

 

 しかし、そのすべては、この復活の瞬間から始まったのです。女たちの話を聞いた後、ペテロが墓に走って行き、もし遺体がそのままそこにあったらどうでしょうか。「ああ、やっぱりイエスさまは死んでいるじゃないか」と彼は思ったでしょう。一生、彼は後悔の念に囚われ、「あのとき、なぜ裏切ってしまったのか」「なぜあんなときに『知らない』と言ってしまったのか」と、ずっと悔やみ続ける人生を送ったはずです。彼は惨めな後悔の中に囚われたまま、一生を寂しく終えるはずでした。

 

 しかし、使徒となって、一度は挫折しましたが、最後にはイエスさまのために命を捧げるまでに従う男に変えられたのです。それは、墓が空っぽだったからです。この復活の奇跡ということが事実として起こったからこそ、彼の人生が本当に立ち直りに導かれたわけです。

 キリスト教、いや、このイエスさまの福音が伝わってきた歴史のスタートを考えるとき、これは非常に重い意味を持ちます。パウロも「復活がなければ私たちの信仰は虚しい」と語りました。今、二千年が経ったこの時代に、日本で毎週、私たちは主を礼拝するために集まっています。主日というのは主が復活したことを記念して、日曜日に礼拝をしています。「イエスさま、あなたはよみがえられました。私たちのすべての呪いを打ち破り、死からいのちへと移ってくださった。この方は今も生きておられます!」そうやって私たちは証しするために、ここで礼拝しているのです。それがずっと続いて、ペテロが立ち直ったおかげで、バトンが繋がって、復活を本当に体験した弟子たちがどんどん世界に福音を伝え、ついには日本にまで届きました。すごいことではないでしょうか。

 

 皆さんも、その立ち直りの力を今、受け取っているのです。イエスさまは皆さんのために今日もとりなしてくださっています。そして、私たちの弱さもよくご存知であり、それをすでに十字架で引き受けてくださいました。それだけでなく、死に勝利し、よみがえり、「もう絶望して生きる必要はない。あなたはもう、いつまでも後悔し、死の力に引っ張られる必要はない。私のいのちを受けなさい」と、永遠のいのちを約束してくださったのです。何と素晴らしいことでしょうか。

 

 最大の挫折者であったペテロにとって、取り返しのつかないはずだった失敗からの立ち直りが現実となりました。私たちの人生にも、それは起こるのです。私の人生にも、それは起こりました。

 

 私はクリスチャンホームに生まれながら、大学時代、悪魔の声にとらわれ、「この人間は消えてなくなるべきだ」「この人がいるとみんなの害になる」といった思いに支配され、自分が嫌いで仕方なくなりました。ついには、「お前が死んでしまえ」と鏡の中の自分に向かって朝からずっと罵倒し続け、その果てに自殺未遂を起こしてしまいました。大学四年生に上がる春休みのことです。その後、ICUで治療を受け、命を取り留めました。そんな人間なのです。しかし、命が助かっても、私は「なぜ生きているんだろう」と、ずっと思い続けていました。そんな人間をイエスさまが本当に回復させたのです。自分はもう何のために生きているかもわからなかった、そんな人間でしたが、そのときに本当の意味で福音というものがどういうものなのかを体験しました。

 

 当時、私は東京大学に通っていましたが、未遂事件を起こしてしまい、休学して学校にも行けなくなりました。教会で熱心に仕えていた奉仕もすべて失いました。教会に行くこともできなくなりました。何もしなくなったとき、もう一流のクリスチャンではなくなったような、そんな気持ちになりました。