神はいつも語られる

そのような場面で、必ずしもサタンのせいにしてはいけません。ときに神は私達を取り扱おうとしておられるのです。あなたの人生において、モーセの時代が終わり、ヨシュアの時代を始めるためには、どうしても荒野が必要なのです。荒野は避けられません。荒野は私達を祝福し、私達を強くします。私達をしならせ、ときにはもう折れてしまうとあなたは思います。ニュース映像で見たことがあると思いますが、沖縄で嵐や台風が来ると椰子の木が大きくしなって曲がります。もう起き上がれないだろうと思いますが、風が去ると椰子はまた元の位置に戻っていきます。ここに椰子の木のスピリットを持った人がいると私は思います。「ああ折れてしまう。」と言いながら、また立ち上がる人たちです。何があなたを強くするでしょうか?人に受け入れられないとき、何があなたを癒しますか。人の評価に依存して生きているために苦しんでいる人がいます。何がその人を癒すのでしょうか?人に評価されなくなることです。何の返事も来ない就職活動や、またどの大学にも受からないことや、どの医者も解決策を見つけられないことなど、皆さんが人生のそういう時期を通ってきたことを私は知っています。どの弁護士も希望を与えてくれない、どの医者も解決策を見つけてくれない、自分の家の買い手が見つからない、など、行く手をバリケードで閉ざされているような、扉がふさがれている感じがすると、これはサタンの仕業だと言います。しかし、いつもサタンとは限りません。使徒パウロの人生を見てください。パウロはシラスとテモテと共に第二次宣教旅行に出かけます。そこでこう書かれています。あまり有名ではありませんが聖書にこうあります。
使徒の働き16章の6節~7節。

それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリギア・ガラテヤの地方を通って行った。
こうしてムシヤの近くまで来たとき、ビテニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。

神が開かれるとき、それを閉じる者はいません。しかし神が閉じられるとき、それを開けるものがありません。私達は神がカンマ、「点」を置いたところにピリオド、「終止符」を打ってしまうのです。ラザロの姉妹たちはこう言いました。もしあなたがここにおられたなら、私の兄弟は知らなかったでしょう。なぜ主が置いた点(カンマ)に終止符を打つのですか。そしてまた、なぜ神が終止符を打ったところにカンマを置くのですか。だからあなたは続ける必要のない関係を続けてしまうのです。毒のある関係、あなたの油注ぎを吸い取る、対立と消耗の関係を続けてしまうのです。

このお読みした箇所には、こうして彼らは北にも南にも東にも行けず、アジアへの扉は閉ざされたとあります。そしてヨーロッパの扉が開かれます。聖書はヨーロッパにルデヤという女性がいたと書いています。
使徒の働きの16章の14節と15節をお読みします。

テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私が主に忠実な者だとお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。

彼女は福音を受け入れました。神はヨーロッパの扉を開いておられました。神は「日本人も韓国人も待ちなさい」と言われたかのように、アジアは閉ざされ、ヨーロッパへと導かれました。そして女性が差別されていた時代に、神は彼女を男性と同じ相続人とされました。ルデヤはヨーロッパで福音を受け入れた最初の女性です。パウロの前で一つの扉が閉じ、彼が思ってもみなかった場所で福音を述べ伝えなければならなかったからこそ、西洋での最初の改宗者が女性となったのです。神は荒野と閉ざされた扉の神でもあります。
神は若いサラの胎を閉ざし、老いたサラに自分の力を表されました。神は王宮の扉を、王子モーセのために閉ざし、荒野を通して彼を群衆の解放者へと造り替えられました。そしてイエス様でさえ、閉ざされた扉を経験しました。「父よこの杯を私から取り去ってください。」と。しかし神は「ノー。」と応えられました。
それはあなたに「イエス。」というためでした。永遠の命への「イエス。」です。神は御子に「ノー。」と言われました。それは今日あなたがここにいて主を礼拝し、永遠の命を持つためだったのです。ですから「閉ざされた扉」には価値があると思いませんか?私が言っていることはおわかりでしょうか?
また、主は私に言われました。私の教会にこう伝えなさいと。閉ざされた扉に対して不平を言わず、怒らないようにと。なぜなら、神が扉を閉ざされるとき、それは働き終えたのではなく、分岐させるようにされ、そして良い道へあなたを行かせようとしておられるからです。神はあなたをどこへ導き、どのようにあなたを整えるかをご存知なのです。危機こそがあなたを変えて、あなたが人生でしっかり立てるようにするのです。誰もそこを通りたくありません。しかし覚えてください。荒野から出てこられたイエスは、荒野に入られたときと同じではありませんでした。あなたがその荒野を勝利して通り抜けることができるのは、あなたが神の声を聞くからです。声を聞き分けることを学びましょう。
ヨブの怒りを覚えていますか。彼は窓を見つめ、最初に問うべきだったお方に問いかけます。何が起こっているのですかと、すると驚くべきことが次に起こってきます。
ヨブの部屋に神の声が鳴り響きます。ここで聖書全体を見ても最も壮大な神のスピーチが始まります。神はヨブに語り、苦難の只中で答えられます。そして言われます。ヨブ記の38章の3節をお読みいたします。

さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。
わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。

つまり、しっかりせよ、と神さまはヨブに言います。私は私があなたに問うから、あなたは私に答えなさいと。
ヨブ記の38章4節から7節と13節(2017年版)をお読みします。

わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
分かっているなら、告げてみよ。
あなたは知っているはずだ。
だれがその大きさを定め、だれがその上に測り縄を張ったかを。
その台座は何の上にはめ込まれたのか。
あるいは、その要の石はだれが据えたのか。
明けの星々がともに喜び歌い、神の子たちがみな喜び叫んだときに。
これに地の縁をつかませ、悪しき者をそこから振り落としたことがあるか。

この神の問いは、ヨブに答えを求めているのではありません。神がなさろうとしておられたこと、また成し遂げようとしておられたことは、ヨブを沈黙させることでした。ヨブは自分が間違っていたことを悟ります。そして神は続けられます。
ヨブ記の38章の17節から21節(2017年版)をお読みします。

死の門があなたに現れたことがあるか。
死の陰の門を見たことがあるか。
地の広さを見極めたことがあるか。
そのすべてを知っているなら、告げてみよ。
光の住む所への道はどこか。
闇のあるその場所はどこか。
光をその国境まで連れて行くというのか。
闇の家に至る通りを見分けるというのか。
あなたはよく知っているはずだ。
そのとき、あなたは生まれていて、
あなたの日数は多いのだから。

そしてヨブはもう耐えられません。私はこうイメージするのですが、多分ヨブはそこにいた全ての御使いたちが笑う中でこう言います。私は取るに足りないものですと。
ヨブ記の40章の3節から5節(2017年版)をお読みします。

ヨブは主に答えた。
ああ、私は取るに足りない者です。
あなたに何と口答えできるでしょう。
私はただ手を口に当てるばかりです。
一度、私は語りました。もう答えません。
二度、語りました。もう繰り返しません。

ヨブはまるで、農夫が王に王国のおさめ方を教えているようなものです。読み書きのできないものが、言語学者に書き方を教えているようなものです。ヨブはチームの給水係がメッシにPKの蹴り方を教えているようなものです。ヨブは粘土が陶器師に向かって、そんなに強く押さないでくださいと言っているようなものです。
そして神はこう言われ、締めくくられます。ここの箇所をよく見てください。本当に驚くべき神であることがわかります。ヨブ記の41章の11節(2017年版)をお読みします。

だれが、まずわたしに与えたというのか。
わたしがそれに報いなければならないほどに。
天の下にあるものはみな、わたしのものだ。

「まだ質問があるかヨブ。」と、神は聞かれました。ヨブは「何もありません。」と答えます。
神は説明も言い訳もなさいません。神は誰にも負債がなく、誰かに帰すべき恩義もありません。神は人に何一つ義務を負っておられません。何もです!それゆえ、神は私達に何の義務も負っておられないのに、全てを与えてくださったこと、その御子でさえも与えてくださったことが、最も驚くべきことなのです。私達に何の借りもないのに、神は全てを私達に与えられました。これは人からこう言われるときのための言葉です。「もし神が真の神なら、なぜ地上に飢えがあるのですか。
もし神が真の神ならなぜ交通事故が起こるのですか。」という人への言葉です。神は私達に何の義務も負っておられないからです。ヨブに言われたと同じです。私はあなたに何の借りもない、しかし全てを与えようと言われました。それは唯一のもので、それは私の子だと、私の子の血であると言われました。それは計り知れない価値を持つものです。これは無料なのではありません。計り知れない価値があるのです。私達は支払うことができません。それは無料とか安価なものである物とは全く意味が異なります。私達には支払うことができないのです。しかし神は全てを私達に与えられました。そして神はヨブを増し加え、ヨブに非常に大きな祝福を与えられました。そして彼の膝は孫やひ孫4代にわたる子孫で満たされ、家畜は以前よりも良くなりました。再びウォール街で評価され、また自家用機を持つようになりました。再びヘビー級のボクシング観戦もできるようになり、億万長者となりました。神に取り去られたと思っていたものよりも、遥かに多くを、神は彼に与えられました。しかしこの物語の最も良い点はそこではありません。たくさん祝福を与えられたことが良いことではありません。最も良い祝福は、聖書がこう語っていることです。
ヨブ記の42章の5節

私はあなたのことを耳で聞いていました。
しかし今、私の目があなたを見ました。

主の御名によって皆さんに言います。あなたの荒野は過ぎ去ります。イエスが試みに遭われたときのようにあなたはその荒野から出ることができます。しかし、この荒野を出る直前に何が起こったかをもう一度読んでください。
マタイの福音書の4章の11節をお読みします。

すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。

あなたがイエスのように荒野を通っているなら、あなたのところに御使いたちが来ます。
治らない病と闘っている人、変わらない病気の診断と向き合っている人、また終わらない経済的危機の中にいる人に主はこう言われます。諦めるな。戦い続けなさい。御使いたちが来るまで戦い続けなさい、と言われます。なぜなら、神は語られるからです。神は御使いたちがあなたのところに来ると語っておられます。そして主は言われます。私はあなたをここから連れ出すと。私はあなたを祝福し、私はあなたを祝福する、と。

この御言葉を信じる方はどれぐらいいますか。アーメンですか?
それでは神さまに拍手しましょう。ありがとうございました。