神はいつも語られる

2026年1月25日(日)新城教会牧師 公畑フェルナンド

ヨブ記 42章5節
私はあなたのことを耳で聞いていました。
しかし今、私の目があなたを見ました。

ハレルヤ!おはようございます。
いつも私たちのためにインターナショナルのために祈ってくださることに心から感謝します。数日はとても寒い日が続いていますし、今日も寒いですね。しかし会堂の中は、本当に暖房がきいていて気持ちいいですね。ただし寝ないでくださいね。ぜひこのメッセージ聞いてください。
今聖書のみことばを読んでいただいて、皆さんこの神の人が語ったあの言葉を聞いたと思います。
「私はあなたの噂を耳で聞いていました。しかし、今この目があなたを見ました。」

今から少しの間、この男の悲劇をちょっと比喩的に、ちょっと膨らまして語りたいと思います。その悲劇はあまりにも突然で、全ての新聞の一面、そして全てのニュース番組を埋め尽くしました。ある日、彼は最も高級なゴルフクラブでプレーするような立場にありましたが、次の日、わずか24時間後には、キャディになることさえできず、ボール拾いなることすらできなくなっていました。ある時は自家用ジェットに乗り、ラスベガスへ飛んでヘビー級ボクシングの試合を観戦していましたが、次の日には全てを失いました。彼の乗り物は公共のバスになり、もしくは誰かに送ってもらわなければならない立場となりました。自分のオアシスが文字通り砂漠へと変わってしまったのです。それも24時間のうちに変わってしまったのです。
このような物語はほとんど前例がありません。男は自分の帝国を全て失いました。おそらく彼の名前はフォーブス誌のような有名な雑誌の億万長者リストに載っていたことでしょう。彼の口座、会社そして株式はウォール街で取引され、資産がすごかったと思います。しかし、市場が崩壊し、株価は暴落しました。
そして彼が持っていた流動資産が干上がり、彼は破産状態になりました。彼は高級な机の前の皮張りの椅子の中で、崩れ落ちます。しかしその机さえも数時間後には競売にかけられてしまいます。彼には机すら残されないのです。彼はこう考えます。これ以上どんな災いが起こるのだろうかと。すると携帯電話が鳴ります。 インドネシアの海岸で穏やかに休暇を過ごしていた彼の子供たちが、嵐に遭い、大きな高波にさらわれて、全員亡くなったという知らせでした。これは本当の悲劇です。物理的にものを失うことは、家族がいなくなるという事実に比べれば、意味を失います。彼は怒ります。
怒りに満ちて窓を見つめ、神に向かってこう叫びます。これ以上悪くなることがあるのですか。まだ何か起こるのですか、と。しかしさらに状況は悪くなります。彼は胸に強い圧迫感を覚えます。次に彼が思い出すのはケーブルや針や点滴に繋がれ、救急車で運ばれている自分の姿です。彼は病院の一室で心臓の動きを監視するモニターに繋がれています。彼は誰かがこの災いに対する答えを与えてくれないかと求めます。そして必然的に彼と同じ悲劇を味わっている彼の妻がやってきます。なぜなら災いにあったのは彼女の子供たちでもあり、彼女の資産でもあったわけです。
彼女が病室のベッドに近づいてきてこう言います。「どうしてあなたの神を呪わないの?」と。「神を呪って私を開放してよ。」と言います。そして彼をそこに置き去りにして行きます。彼女は呼吸器を外しても構わないと言います。彼女は彼を責めて安楽死を望み、人生を終わらせることを求めます。神を呪って死になさいと。しかし彼女を責めないでください。子どもを失った母親であり、夫が破産し、その上、心臓発作をも起こして、全身腫物ができている状態なのですから、呪いの言葉を吐くのも当然かもしれません。

その男はヨブという名前でした。彼は現代の人間ではありません。何千年も前の出来事です。しかし歴史として読むと、何かどこか詩的に感じられるかもしれません。けれどもこれは詩ではありません。これは実際に起こったことです。ヨブは苦しんでいました。妻から「機械を外してさっさと死になさい。」と言われたときの彼の気持ちをちょっと想像してみてください。
皆さんは、彼には友達がいるのかと聞くかもしれません。彼にはいました。しかしその友達は言うべきでないことを彼に言います。きっとあなたは何か悪いことしたのだろう、神があなたにこんなことをするのは、きっとあなたが何か悪いことをしたに違いない、と。しかしヨブには答えがありません。彼は「私は正しい人間だ。」と言います。すると友達はこう言います。あなたは神と悪魔の大きな争いの只中にいるのだと、だからこんな目に遭っているのだ、と。あなたは何か悪いことをしたに違いない、と友達たちは言います。何か告白したくない罪があるのだろう、と言います。そしてさらにそこに1人の預言者が来ます。エリフという名の人でした。この人は神学校を出たばかりの若い人でした。彼はまだ十分な人生経験がなく、いつ語り、いつ黙るべきかを知りませんでした。
そして彼はヨブにこう言います。「この災いはあなたの益になるものです。」と。ヨブは彼を見もしません。答えもしませんでした。なぜなら自分の子供たちが死んで、また全てを失うほどの苦しみが、どうして良いことに繋がるのかというのを理解できなかったからです。そして彼はついに最初から聞くべきだったお方に聞こうと決心します。彼は懇願するように聞くのではなく、怒りを持って聞きます。聖書にはこのような場面が多く出てきます。例えばモーセが、もしあなた御自身が私達と一緒においでにならないなら、私達をここから上らせないでください、と言ったときのように。神が、私はあなたの民を滅ぼすと言われると、モーセは、これは私の民ですか?いつから私の民になったのですか?あなたの民でしょう。あなたが奴隷状態から導き出した民でしょう。民が良いことを行うとあなたの民と言い、悪を行うと私の民というのですかと、モーセは怒りを持って神に言いました。
あるいはアブラハムが、もし正しい人が50人40人いたとしても滅ぼされるのですか、とユダヤ人らしく神と交渉したように、神に対して怒りを表した人は聖書にたくさん出てきます。
ヨブもその中の1人です。彼は神に怒りを覚えました。「答えをください。」と言います。そして神は語られます。神は答えられます。神はいつも語られるのです。愛する兄弟姉妹の皆さん、今日これを聞く必要がある人がいます。神はオアシスでもあなたに語られ、また砂漠でもあなたに語られます。棺の中の子供を前にして涙する父親にも、神は語られます。余命3ヶ月のがんと告げられた女性にも神は語られます。経済的な破産の中で神を探す全ての人に神は語られます。不妊で切なる祈りを捧げる夫婦にも神は語られます。神はいつも、いつも私達に語られるのです。私達がもし「神が真の神ならなぜこのようなことが起こるのか。」と愚かに言ってしまったとしても、神は私たちに語ってくださいます。
神に祈るのに正しい言葉を使わなければならないとか、背景にBGMが必要だとか、膝まずかなければならないとか、そういうことはありません。
私はこのようなことを何度も聞いてきました。「神と話す方法は、まず罪を悔い改めなさい。悔い改めた後に感謝しなさい。それから願い求めなさい。」と。まるで魔法の公式であるように言われてきました。ランプを擦れば、ランプの精が現れるかのように、決まった形で祈らなくてはならないと聞いてきました。でもそうではありません。このメッセージを準備しているときに、聖霊様が一つのみことばへと私を導いてくれました。フェルナンド、この箇所を読みなさい。もう一度読みなさい、と語られました。私は「主よ、これは10代の頃から読んでおります。」と答えました。しかし主はもう一度読みなさいと言われました。そこにはこう書いてあります。
マタイによる福音書の4章の一節です。お読みします。

さて、イエスは悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上っていかれた。

ここでは悪魔がイエスを試みたとあるのですが、悪魔がイエスに会いに来たのではありません。イエスは御霊によって導かれたのです。これは私達のものの見方を根本的に変えます。というのは、私達はよく、「悪魔が私に会うために来た。」とか「悪魔が私の前に立ちはだかった。」といいます。確かに無意識のうちにはそう思っています。様々な病気や、検査結果が私たちの夕食での会話を変えました。かつては喜びに満ちた会話だったのに、今は化学療法の話だったり、がんの話だったり、髪の毛が抜け落ちる話ばかりです。人生は変わります。私達の冷蔵庫はいつも食べ物でいっぱいだったのに、今は薬でいっぱいです。そして「これはサタンの仕業だ。」と言います。それは最も簡単な神学です。悪いことはサタンから、良いことは神からと言えば、説教をするのにも簡単です。良いことは神から、悪いことはサタンからだと語り続ければ、簡単な信仰を好む会衆ができます。しかし実際人生には困難が訪れます。風は吹くと主は言われました。神は「必ず風は吹く」と言われました。そして嵐も来ると言われました。
神は現実の人生を私達に約束されたのです。私達がこの現実の人生に永遠という方程式を加えなければ、全てが60年、70年80年の人生に過ぎないと考えるなら、私達は間違っています。もし全てが七、八十年の中で完結すると考えるなら、私達は哀れなものだと主は言いました。

もっと先を見なければいけません。イエスは御霊によって荒野へ導かれたのです。私達がその荒野を経験するためにイスラエルへ行く必要はありません。病院のベッドの上で十分経験できます。墓に行くことで十分経験することができます。離婚であったり、借金であったり、鬱状態になることでも十分に荒野を経験することになります。そして、聖書が40という数字を語るとき、それは長期にわたる戦いと結びついています。例えばノアは40日間雨に直面しました。モーセは40年間、荒野にいました。イエスは40日間、荒野におられました。そして悪魔に試みられました。
ルカよる福音書の4章の1~2節前半をお読みいたします。

さて、聖霊に満ちたイエスはヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、40日間、悪魔の試みに会われた。

補足として言います。ハリウッドが書いたように、イエスの試みが三つの質問と三つの答えだけだったと考えるのは誤りです。悪魔が来て三つの質問をし、そしてイエスさまが聖書に「書いてある、書いてある、書いてある。」と3回言ってこの試みが終わったのではありません。そうではないことはわかりますね。1ヶ月と10日間、イエスさまは試みを受け続けたと書かれています。私達に示されている内容は、ほんの一部分だけです。氷山の一角にすぎません。それは神が私達に知ることを許された、40日間の試みのごく一部分なのです。そしてこの言葉は愛する皆さん、激しく戦っている人たちのための言葉です。こういう方がおられます。「牧師先生、年が終わるとき、物事は変わるだろうと思っていました。でも新しい年が始まっても私はまだ激しく戦っています。」「医者から医者へ、病気の診断から次の病気の診断へ、仕事探しの履歴書から履歴書へ、頭の痛い問題からまた次の頭の痛い問題と私は必死に戦っています。私には言葉が必要です。」という方のためのものです。そこで神はあなたにこう言われます。私はあなたを荒野から連れ出すと。神はあなたに答えます。神は天から答え、そしてあなたに語られます。信じますか?

神はあなたに語られます。なぜなら、神はいつも語られる方だからです。これを知らなければ、私達はいつまでも荒野にとどまっていることになります。なぜならこういう人たちがいるからです。私は荒野にいると。神から遠く離れている。例えばもし神と共にいるなら、こんな経済危機の中にはいないはずだ、と。そして私達は単純にこう考えます。経済危機がある=そこに神はいない。つまり私は悪魔とともにいるのだ、と。そして、どうせ神から遠いならと、ポルノに溺れたりします。結婚生活が危機にあるから、神から遠く離れていると考えます。困難の中にいるから、サタンの支配下にいるのだと考えます。それで私たちはどうするかというと、大きな業務用アイスクリームを抱えて爆食し、後でこうなります(お腹が大きくなるジェスチャー)。 そして「太った?」と聞かれると、「今荒野にいるの。」と答えます。