神の約束を信じて安らぎを得よ

2025年7月13日(日)新城教会牧師 公畑フェルナンド

マタイの福音書 1章1節、17~18節 前半

“1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。

17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。

18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。“

ハレルヤ。いつもインターナショナルのために、私たちのためにお祈りをいただき心から感謝いたします。

今日のメッセージのタイトルは「神の約束を信じて安らぎを得よ」です。
マタイがこの最初の章を書きました。正直に言って、私たちは皆、この最初の節を読み飛ばしたくなります。なぜなら、退屈に感じられ、系図や知らない人の名前が並んでいるからです。なぜこんなものがここにあるのでしょうか?何のために書かれているのでしょうか? マタイはこの章で、イエス・キリストの到来について語り始めました。イエス様の系図を記録することから始めているのです。そして、ここでの重要な点とは、二人の興味深い人物が登場することです。それは、アブラハムとダビデです。しかし、この二人は単なる人物として登場しているのではなく、ある重要な事を示すために登場しているのです。それは、「神が約束されるなら、神は必ずそれを果たされる」ということを示すためです。

マタイが聖霊に満たされて語っているこのイエスの物語は、そのことを証明しています。では、なぜアブラハムとダビデなのでしょうか?

アブラハムは、旧約聖書で最初に神の約束を受けとった人物です。彼は、息子を授かるという約束、多くの国民の父となるという約束、そして自分の子孫を通してすべての国が祝福されるという約束を受けました。

アブラハムがカルデヤ人のウルを出たとき、偶像礼拝の町から出て、真の神を礼拝する者となるよう神に召され、その時に「あなたは一人の子だけでなく、多くの民の父となる」と神から約束されたのです。そして何世紀かの後、ダビデ王にも、アブラハムと同様に神の約束が与えられました。ダビデは王になるまで多くの困難を経験しました。彼は神に選ばれ、若いころに預言者を通して油注がれましたが、王座に就くまでには何年もかかりました。その王座にはダビデを殺そうとしたサウル王がいたのです。サウル王が死に、やっと王座に就いたとき、彼は神の祝福を実感しました。彼は、イスラエルが彼の統治下で繁栄しているのを見て、こう言いました。「主よ、私はあなたのために神殿を建てます。私たちは皆、あなたをそこで礼拝します。素晴らしい場所を作ります。私はあなたに一番良い物を捧げます。特別な神殿を建てます。」
しかし神は夢の中で彼に語りました。「いいえ、あなたはわたしのために神殿を建ててはならない。どんな神殿がわたしを収めることができようか?」しかしまたこう言われました。「あなたがわたしのために家を建てるのではない。私はあなたに家を与え、あなたを守った。それはわたしの意思だ。だが、もしあなたがわたしに家を建てたいと願うなら、それはあなたではなく、あなたの子だ。わたしはその子を祝福し、自分の子のように扱う。その子がわたしのために永遠の家を建てるのだ。彼の系図、その子孫はとこしえに続き、その祝福は尽きない。なぜなら彼があなたの子であるからだ。」と言われました。

このように、アブラハムとダビデの二人は、神の約束に深く結びついている人物です。

アブラハムはどうなったでしょうか?アブラハムは、おそらく「神の約束はすぐに実現する」と思ったかもしれませんが、その約束の実現には二五年もかかりました。七五歳で約束を受け、一〇〇歳近くでようやく神の約束が実現したのです。そして彼は年を取って子どもを得たので、「この子が約束の成就か」と思ったでしょうが、実際、神の計画はもっと大きなものでした。

ダビデの場合、バテ・シェバとの間に生まれた最初の子は亡くなりましたが、二人目の子ソロモンは、神のために壮大な神殿を建てた人物でした。しかしその後、神がソロモンに語った時、神はダビデに約束されたことを確認しました。「それは地上に神のために神殿を建てる話ではなく、これは神の永遠の計画の話であり、地上のすべての国が祝福されるためのものである」と明かされました。

つまり、アブラハムもダビデも、神の約束に深く結びついていますが、二人が人生の中で実際にその約束の小さな成就を見たとはいえ、その約束の本質が私たちの理解を超えるものであり、私たちの命や願い、家そして家族よりももっと重要なものなのであることを理解しなければならなかったのです。
それは人類の救いという神の永遠のご計画でした。私たちが神と共に住む家を与えられる、また神を深く知る、神の国の事でした。それこそが、マタイが言いたいことなのです。「イエス様とは誰かを見てほしい。イエス様こそ、神がアブラハムに約束された子であり、ダビデに約束された子であり、この方こそ、ユダヤ人に約束されたメシアであり、罪人であるあなたや私を救うために来られたお方なのだ!」これこそが、神の約束だったのです!

マタイがこれらのことを書き記そうとしたとき、彼は私たちに何かを伝えようとしていたのです。彼はある物語を整理して伝えようとしているのです。マタイが福音書を書き始めたとき、「昔々ある所におとめがいました。…」とか、「遠い遠い国のことです…」などのようには始めませんでした。なぜなら、ここで語られているのは、作り話でもなく、おとぎ話でもなく、でっち上げのお話でもなく、ユダヤ人の神話でもないのです。これは実際にあった出来事で、マタイたちが目の当たりにした歴史上の事実です。私たちはその真実の証人なのです。単なる物語を綴ることと、人生を変えるかもしれない歴史を順序立てて書き記すことは全く違います。ですから、私やあなたが聖書を開き、神に賛美をささげるために教会に来るとき、あなたに思い出していただきたいのです。これは作り話ではありません。私たちは事実に取り囲まれているのです。初代教会の弟子たちはそれを見て、触れて、それによって人生が変えられ、そして命さえも捧げたのです!

この聖書の歴史はこう教えています。たとえ二〇〇〇年かかったとしても、神はご自身の約束を必ず成し遂げられるということを!これは、私たちの神がご自身の言葉に忠実であり、それを実行する神であること、そして本気で人類を贖おうとされていること、本気であなたや私を救おうとしておられることを示しています。

マリアが聖霊によって身ごもったとき、福音書は彼女が山地に住む親戚のエリサベツを訪ねたと書いてあります。すると、高齢のエリサベツに会ってみると、彼女も妊娠していたのです。もちろんそれは聖霊によるものではなく、ザカリヤによるものでした。しかし、それでも奇跡です。なぜなら、二人とも年老いていたからです。それでも神は「あなたがたは老年にして子を授かる」と約束され、神はその通り約束を果たされました。その出来事を見たマリアは走り出し、歌を歌い始めました。それはマリヤの賛歌と言われています。「私はイスラエルの神に驚いています。なぜなら、この神はその子たちに約束されたことを忘れないお方だからです!」と言い、そして彼女はこう続けました。ルカの福音書一章五四〜五五節

“主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」“

これが福音の本質です。それは神話でも、作り話でもなく、良い知らせを伝える歴史なのです!
だからこそ、イエス様が生まれた夜、天使たちが突然現れ、羊飼いたちにこう語りました。 「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」これは作り話ではありません。それはまさに今起こった出来事であり、全世界に知らされるべき「ニュース」なのです。

それはアドバイスでもなく、原則でもありません。彼らは「出来事」を伝えに来たのです! この世界で良いニュースがあると、ある人は喜んでそれを広めたがります。なぜなら、みんなに知ってもらいたいからです!良い知らせはアドバイスではなく、出来事の報告です。そして、それが重要な出来事であるならば、今日、多くの人がそれを知る必要があるのです!この世界には救い主がいるのです。それは神の御子イエス・キリストです。彼はあなたの罪を赦し、あなたの人生を変えることができます。壊れた夫婦関係を回復させ、新しく造り変えます。あなたの魂、心、思いを、神の臨在と力でいやしてくださいます。神は信じる者に大いなる約束を与えます。その約束とは、この地上で成就するもの、また永遠の御国においても成就する約束もあります!信じますか?

アブラハムとダビデが神の約束を理解しようとしたとき、彼らは「神はこの方法で、このタイミングで実現するだろう」と思い込んでいました。それは私たちにも起こりうることです。私たちもこのように考えて、信仰の危機に陥ったことがないでしょうか。「神がこう約束してくださったから、きっとこのように実現するだろう」と私たちは考えてしまうのです。アブラハムもダビデも気づいたのは、神がご自身の約束を成就される方法は、時に私たちのスケジュールとも計画とも異なり、また時期も方法も異なるということです。私たちが礼拝する神は、しばしば私たちの想像を超えた方法で約束を果たされます。その成就の仕方に、私たちは驚かされ、戸惑いさえします。時々 私たちクリスチャンは理解するのに苦しみます。私たちが神とその約束を、自分たちの予定表や計画で解釈しようとするからです。まさにそこに、信仰の試練があるのです!

ラザロが死んだときのことをマリアやマルタに聞いてみてください。イエス様が四日遅れて来たことを。師であるイエス様がやっと到着したときの場面を想像してみてください。彼女たちはこう言いました。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら!あなたが奇跡を起こせることはわかっていました。」と。もちろん、彼女たちはイエス様に信頼していましたし、 親しい友人でした。たぶんこう言ったかもしれません。「主よ、どうしたのですか? Apple Watchでも買った方がいいですよ!誰かあなたのスケジュール管理する人いないのですか? 友人が困っているときに、友人のこと思い出してくれなかったのですか?」「四日も前に呼びに行ったのですよ!なのに、どうしてあの地で関係ないことをしていて、すぐに来てくれなかったのですか?」と言いたかったかもしれません。私たちも同じです!私たちも神に対して争おうとします。私たちは、神はこの日までに祈りに応えてくれるはずだったのに!と考えがちだからです。私たちはいつも自分の解釈の中に神をはめ込もうとするのです。

そして、マリアとマルタは主にこう言いました。「主よ、もしあなたがここにおられたなら……!」 と。では、イエス様は何と答えられましたか?「ごめん、ごめん。アラームをかけ忘れていたよ!メールで知らせないで、電話してよ!」などとは言われませんでした。イエス様はこう言われました。

ヨハネの福音書 十一章四十節
“イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」”

私はこう想像します。イエス様はこう言いたかったのではないでしょうか。「『もしわたしがここにいたなら』とはどういうことか?わたしはここにいた。わたしはいつもここにいるのだよ、マリア。太陽が出る日も、雨が降るときも、わたしのことを感じるときも、感じないときも、愛されていると感じるときも、感じないときも、わたしはいつもここにいるのだ。」と。

マリアはこの時点では、自分の兄弟ラザロが生き返ることは知りませんでした。しかし、イエス様がこの女性の心に植えようとしたのは、真理であって、私たち皆が祝福されるようになることでした。時々、ラザロのような死んだ者がよみがえるのを待っている時に、そうならない時があります。夫婦の問題を神が解決してくれることを願っているのに、うまくいかないことがあります。また「主よ、誰か良い人が私の口座に何百万円かを振り込んでくれますように!」と願って祈っても、何も起こらないことがあります。そういう時は、イエス様がマルタやマリアに語られた言葉が私たちにも語られているのです。「あなたが状況を超えてわたしの愛を信じるなら、あなたは神の栄光を見ると、わたしは言ったではありませんか?」と。
私が言いたいことは、神の計画は、あなたが望むことをあなたが望むように与えられるものではないということです。 神の計画は、「いつでもあなたを癒してあげるよ」「あなたの問題は全部解決するよ」「あなたは死ぬことなんてないよ」「あなたの愛する人はずっとあなたと一緒にいるよ」などというものではありません。そういう約束ではなかったことを、私たちは知っています。それでも、そうなることを期待してしまうのです。「誰もここから出て行かないでほしい」「すべてうまくいってほしい」「経済も安定していてほしい」「誰も病気にかからないでいて欲しい」などと望みます。でも、そうならないこともあります。しかし決してなくならないもの、それは、神の変わらぬ愛です。そしてその愛は、「わたしは、いつもあなたとともにいる。」とあなたに語っています。