今回メッセージを考えている中で、一人の姉の事を思い出しました。皆さんはあまりご存知ないかもしれませんが、既に天国に行かれた姉ですが、前羽繁子さんという方を思い出したのです 。
前羽さんは家庭でいろいろなことがあって、最後は鳳来町にあるくるみ荘という老人施設に入所されました 。その方には娘さんがいましたが絶縁状態でした。また耳も遠く、多くの病を持っていました。その方のために、私もよく訪問に行きました。訪問して良く一緒に賛美したり祈ったことを思い出しました。その方は耳が遠くてなかなか私たちの声を聞き取れない所がありました。しかし彼女はよく祈ってくださった方です。先ほど週報にあります祈りの課題をどれだけ覚えておられますか?彼女は一週間毎日祈りの課題を祈って下さいました。
朝四時半に起き上がって、「私はいつもここに来て祈るんです」と言って、駐車場の隅っこの雨のかからないひさしのあるところで、毎日祈ってくれました。「私が先に祈るね」と耳元で大きい声出して、姉のために祝福を祈りました。そしたら、今度は前羽姉が祈り始めるのです 。もうとうとうとずっと祈り週報にたくさんの祈りの課題がありますが、見ずに全部覚えて祈り続けるのです。滝元明牧師が今どこどこに行ってます守られるように、誰々が健康を害してますとか、いろいろな人の名前を挙げて、お祈りするのです。感動しました。長いときには本当に私が祈った後、二〇分ぐらい一人で祈っていました。私は彼女が祈っている間、不謹慎な気持ちで周りを見渡したりしていました。あの姉は、自分の事よりも、兄姉のために、教会のために祈ってくださった方です。彼女の祈りによって新城教会は守られてきました。他にもここにいらっしゃる兄姉も真剣に祈っておられると思いますが、多くのそのような祈りの勇士によって支えられてきました。私たちはもう一度祈りの祭壇を築き直さなくてはなりません。あなたはどれだけ主の前に祈っておられますか? 神は必ず祈りを答えてくださいます。とりなし祈りの大切さ今日覚えていただきたいと願います。私の考えは極端かもしれませんが、もし祈りを止めてしまったら、その人は罪を犯しています。私には責任があるんじゃないかなと思います 。聖書に絶えず祈りなさい 。絶えず祈りなさい、いつでもどんな時でも祈りなさいとあります。
もう一ヶ所聖書を読んでみたいのですが、とりなしのことを教えている箇所があります 。それはルカの福音書十一章の一節からです 。少し長いですが十〇節までお読みさせていただきます 。
『 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。』また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。』
弟子の一人がイエスに「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」と祈りを神が教えてくださった所です。最初は皆さんご存知のようにメッセージの前にお祈りしました「主の祈り」です 。主の祈りを皆さんぜひとも家で祈ってください 。
そして、その後は、夜中に友達が来た 。お腹ペコペコで出すものがなくてパンが欲しいというので戸締まりをして寝ている友達のところに行って、扉を叩いて、パンを三つ貸してくれと言ったと書いてあるのです 。
「もう私は寝ているから駄目だ 。」と初めは断られたわけです。非常識な頼み事です。しか、頼み続けたのでうるさくて仕方ないということもあるかもしれませんが起きて、パンを貸してくれたとあります。これが祈りなのだと神が言ってくださっています 。
私はこの箇所からとりなしという事で教えられたことがあります 。それは、まず一つ目はとりなしとは、人の必要に対する自発的な愛です。自分のためでなく、自分の友達、周囲に困っている人々を助けたい、何とかしてあげたい、という自発的な愛が見られます。自分のことではなく、自分に関わる人の必要のためにとりなす姿がここにあります。「真夜中」とは象徴的です。それは不毛と絶望に私たちを閉じ込める闇であり、危機です。
二番目ですが私考えたのですが、自分の無力感だと思います。このたとえには、「出してやるものがなかったのです。」自分がその人の必要に対して全く無力であるという自覚です。自分ではどうする事もできないということです。そこからとりなしがはじまると思います。自分で何とか解決できるのなら祈りは要りません。訪ねて来た者のために、必要を自分では何もできない、なんとかならないのかと考え、主に頼るのです。ここでは満たされるようにと「三つのパンを貸してくれるように」友に頼んだのです。この「三つのパン」とは、人が一日を生きるに必要なものという意味です。生きて行くために必要なものです。自分には何もできない 。家には何にもない 。だから隣の家に行ってパンを貸してくれ、非常識だけれども夜中に、お腹すいた友達が来ているがどうする事も出来ない。どうしてもパンを三つ貸してほしい 。わざわざそこにまで、行って借りに行ったのです 。行動したのです。その友達のために、自分には何もない、何もできないけれども、一生懸命その人のために愛を持って自分の力不足であるからこそ求めたのです。
そして、三つ目は、始めは断られました。この経験の意味するところは、とりなしの祈りの真実の度合いがテストされるということである。どこまで本気に求めているかです。その愛がどれほど本物であるかをさぐられるテストであると思います。
最後にあくまでも信頼し続けて祈ることです。「あくまで頼み続けるなら」、つまり必ず助けてもらえると信じて頼み続けるなら、その信仰のゆえに友は「起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」と語られています。『友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。』しつこさが必要です。一度頼んで断わられたら、諦めないで、しつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。とりなしの祈りの務めにおいて本当に必要なのは継続です。その継続は力です。始めなぜ断られたかというと、それは当たり前です 。『その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』もう今日の業務というか仕事は完全に終わった状態です。しかし人から非常識だと思うようなことであるけれども、友人のために、拒絶されたけれども、その人を愛して一生懸命、しつこく叩き続けた時、最後はパンをもらうことができたのです。その愛がどれほど本物であるかを、ある面テストされているんじゃないかなと思うのです 。隣の人に評判悪くなってもいい 。愛する人のために一生懸命頼み込んで、それも夜中のみんなが寝てしまっているときにでも、彼は頼み込んだことによって祝福をいただいている 。今日、私たちは祈りの姿勢も普通ではあり得ない状況かわからないけれども、迷惑かもしれないけれども一生懸命主の前に、どんなときでも私たちは祈り続けていかなければいけないと思います 。
皆さんが私のために東北の「GOTOミッション」のために祈って下さいました。そのため、健康も支えられ、秋田市・平川市・釜石市の集会が祝福されました。祈りは聞かれました。「本当に今日は良かった 。」「もう一度ぜひ来てください」と言ってくださったのです。背後に新城教会の皆さん、また全国のリバイバルのために祈って下さっている方々がおられたので、神の力を現わすことができました。私たちはとりなしの務めをしっかりと覚えて継続していかなければいけないと思います 。
皆さん、あなたは誰のために祈っていますか 。当然家族のために祈ると思います 。あなたに与えられた家族です 。その家族のために、今日からもうしつこくイエス様にしつこく祈ってみてください 。こんな悪さばかりしていた私が、母親の涙の祈りによって変わりました。怒るのではなく「実が救われるように。悔い改めることができるように」と母が祈り続けてくれて、私は変えられました 。今日皆さん家族のために祈りましょう。あなたの祈りは必ず主が答えてくださいます。
伝道者の書三章一節に
『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。』とあります。そして三章十一節
『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』とあります。すべてに時があるというのです 。だから私たちは「あれ?なぜこの人のことを思い出すの?」と思う時があります。それは神の時です。主があなたに祈ってほしいから、思い出させたのです。あなたに祈ってほしいと教えていると信じます。私は二〇二〇年の十月に心臓の手術をしました 。手術するときは、事前には公表せずに、手術するその週の礼拝にお時間を頂いて「今回心臓の手術をしますのでぜひ祈って支えてください」と言って入院しました。しかしある方が私にこんなこと言ってくださいました。「なぜか知らないけどこの頃上條先生のために祈らされたんです 。この手術のことだったんですね」と言ってくださったのです 。こんな私のために、神様の促しに応じて、神様の時をつかまえて祈って下さっていた方がおられました。その祈りがあったからこそ今の私がいます。あなたの責任として、主があなたに語っておられます。それをキャッチして祈り始めてください 。祈りは聞かれます 。三十三年前の一九九二年の七月九日、突如霊的戦いが新城教会に開かれました。今週の水曜日が開戦の日です。戦いの祈り、とりなしが始まって、この教会に大きな祝福をいただきました。神は祈りを答えてくださいます。必ずあなたが祈りをやめない限り、主がその祈りを答えてくださり、叩き続けて、真夜中であっても無償の愛で、その人のために愛を持って祈り続けた祈りが答えられて、そして神の救い、また問題が解決、病、さらに経済的にも、さまざまなことでその人の必要に応じて神が答えてくださると信じます 。
皆さんぜひ今週、祈ってください 。あなたに神が声をかけてくださっていると信じます 。「この人のために祈りなさい 。」ある方は「この場所に対して祈りなさい」と。ぜひとも祈ってほしいという場所のために祈っていただきたいと思います 。
一つ皆さんに、祈って頂きたいことがあります。四月二七日の聖日でメッセージを語って下さったグレース・ライフ・チャーチ協力牧師である神戸輝明牧師ですが 国政にチャレンジなさることになりました。
昨日、神戸先生のお父様が突然お亡くなりになりました。お父さんはお元気で普通に生活されていたのですが、将棋がお好きで、今日も将棋に行こうと思って準備され、朝お風呂に入っていた時に、脳出血を起こし、そして溺死されたとのことです。火曜日に召天式だそうです。お父様は信仰を持っておられ、天に召されたのですが、ぜひ神戸家のためにお祈りください。悲しみの中にあります。そんな中でも続けて選挙活動をなさっています。お祈りください。私正直それを聞いてショックだったのです 。神戸先生のためにお祈りしていました。ご家族の事も存じております。もっと神様の声を聞かなければいけなかったかなと思うのです 。家族のためにとりなしていなかった、先生の為に祈っていましたが、ご家族、特にご両親のために祈っていなかった 。本当に申し訳なかったなと思います 。
今日、神様に落ち着いて、神の声を聞きましょう。誰のためにとりなしたら良いですか 。と聞きつつ、主の前に出ましょう。あなたに示してくださった方のために、祈りましょう。神様が語って下さっている、ことばをキャッチして祈っていただきたいと思います 。