捨てられた石

「生ける石」という表現には不思議な感じがするかもしれません。ぶどうの枝や水路のそばの木であればイメージしやすいでしょうが、私たちもイエス様も「リビングストーン(生きている石)」なのです。私たちは肉体を持ってキリストの体である教会を建て上げるという意味で生きている石ですし、また聖霊様によって日々新しい恵みをいただくからこそ、リビングストーンと言われているのかもしれません。

いずれにせよ、イエス様がよみがえられ、苦しみを通し、捨てられる道を通られたイエス様が生ける石として土台となられたように、私たちもその上に生ける石として、霊の家に築き上げられていくのです。これがイエス様と私たちの関係であり、私たちの人生の姿を表しています。

第一コリントにこのような言葉があります。「わたしたちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」。私たちは神の建物であり、別の箇所では「聖霊の宮」であると教えられています。その土台はイエス・キリストです。私たちはイエスによって贖われ、救われたものだから土台なのです。しかし、それは抽象的な土台であるだけでなく、本当にイエス様が生ける石として私たちの土台に立ってくださり、私たちはその土台の上に同じく生ける石として、ぴったりとくっついて家を建てていくのです。イエス様と同じ思いを持ち、イエス様と同じ苦しみを受けて、家を建てていく、それが建物である私たちです。

また、時間があれば第一コリント3章を見ていただきたいのですが、金や銀、あるいはわらで家を建てる人がいますが、それらの働きは火をもって吟味され、その後に残るような家を建てる人は幸いであると書かれています。私たちは同じ生ける石です。イエス様が生ける石として土台になってくださり、私たちも同じ生ける石として、人の目にどのように見えたとしても、神様が選んでくださり、尊んでくださり、キリストの体である教会を建て上げるようにしてくださっているのです。

今日はまず、このことをしっかりと受け止めさせていただきたいと思います。私たちがどのような存在であっても、私たちの人生の土台にはまずイエス様がおられます。生ける石としてです。そして、私たちがどのような者であっても、神様が選んでくださったのです。石で家を建てるというのは簡単ではありません。ただ積み重ねればいいというものではなく、しっかりと組み合わさり、揺さぶられても崩れないようにしなければなりません。でこぼこもあるでしょうが、しっかりとくっつけ合うのです。

そのようにして私たち一人一人は、同じ生ける石として選ばれてここにあります。そして尊い存在として、なくてはならない存在として、この清いキリストの体を建て上げる一人一人として、私たちは今ここに置かれています。そして、互いに力を合わせ、心を一つにしながら、一つのビジョンの中で霊の家を築き上げられていく、これが私たちのイエス様との関係です。

私たちは生ける石であり、キリストの体である教会を建て上げていく、これが一点です。そして、「霊の家に築き上げられて神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通してささげる聖なる祭司となります」とあります。家を建てたら終わりではありません。キリストの体である教会を建て、私たちが聖霊の宮となってやるべきことがあります。イエス様を土台に置いた方は、なぜ私たちに「家を建てなさい」と言われているのでしょうか。それは「神に喜ばれる霊の生け贄をイエス様を通して捧げる祭司となりなさい」ということです。これが私たちに求められていることです。

主はぶどうの木であり、私たちは枝です。枝には「御霊の実を結びなさい」ということが求められます。主は水路であり、私たちはそのそばに植えられた木です。その木には「時が来ると実がなり、葉は枯れず、何をしても栄える」という人生を歩むことが求められます。
今日は「生ける石」として、イエス様を土台としてキリストの体を建て上げる、この教会に主は何を求めておられるのか。「聖なる霊の生け贄を捧げる祭司となりなさい」、このことが今日、主が私たちに語ってくださっていることです。

イエス様も捨てられた石となりましたが、それが尊い要石になりました。私たちも主に従って歩むときに、人から見れば愚かな選択をすることがあるかもしれません。私自身も、政治の世界という社会の縮図のような場所に置かれています。そこは聖書の価値観とは逆なのです。「右の手のしたことを左の手にするな」というのが聖書の価値観ですが、政治の世界では「右の手でしていないことまで、自分がやったと言いなさい」と言われるような世界かもしれません。「人の上に立ちたい者は人に仕える者になりなさい」という聖書の教えに対し、「人を押しのけてでも前に立ちなさい、それが政治闘争です」と語られることもあります。
そのような中で、聖書の価値観に立って生き、人に仕えて隣人を愛していくことは、社会から見れば効率が悪く、愚かな生き方に見えるかもしれません。人から蔑まれたり、捨てられたりして当然のものかもしれません。しかしイエス様は人から捨てられ、天からも捨てられ、その中で贖いという私たちに不可欠な神のみわざを成し遂げられました。そして生ける石として、再び私たちの人生の土台となってくださったのです。

私たちはその上に築き上げられながら、霊の生け贄(ホーリーサクリファイス)を捧げるものとなりなさいと言われています。犠牲を払い、主に喜ばれる生け贄を捧げる者となりなさい。犠牲を捧げることは、人の目には愚かなことかもしれませんが、見返りがなくても愛を注ぎ、人から何か言われても耐えていく、そのような霊の生け贄を捧げること、そして祭司となり、この街のために、自分の属するところのために祈る者となること、それが霊の家に築き上げられた私たちが、イエス様とつながる者としてなすべきことです。

生け贄を捧げ、とりなしの祈りをしていくこと、これが主の語っておられることです。これはなかなか大変なことだと思います。私たちはこの社会に生きる者であり、世と調子を合わせる者ではありませんが、この世を愛し、地域を愛し、街のために行動する者です。だからこそ、とりなし祈る祭司の働きが必要です。人からは愚かだと思われても、愛を流し続け、誰かのために仕えていく霊の生け贄を捧げ続けることが必要なのです。

しかし、これは自分たちの力ではできません。だからこそ「イエス・キリストを通して」捧げなさい、「イエス・キリストを通して」祭司となりなさいと言われています。生ける石であり、要石である方に常にくっつきながら、「イエス様、あなたはこうされましたよね。弟子から捨てられるほどの苦しみを通っても十字架の道を歩まれましたよね」と覚え、私たちも人から何か言われることがあっても、この生ける石としてイエス様と共に同じことをさせていただく、そのことを願っていきたいと思います。

私たちが霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となる、そのことを神様が言われた後の言葉があります。「なぜなら、聖書にこう書いてあるからです。見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」。この素晴らしい約束を私も握ります。主に信頼する者は決して失望させられることはありません。これは私たちにとって「つり革」のような、水の上を歩くときでも何かに捕まっていれば大丈夫だという、大事な言葉です。

今日分かち合いたいのは、「彼(イエス・キリスト)」に信頼するということです。しかしその前を見てください。どのようなイエス様に信頼するのでしょうか。みことばには「シオンに選ばれた石、尊い礎石を置く。この方に信頼する者は……」とあります。イエス様は人に捨てられ、神からも捨てられましたが、神はそれを捨て置かずに再びよみがえらせ、神のみわざを完成されました。人の思いではない神のみわざを成し遂げ、再び私たちの人生の土台となってくださった、この要石に信頼する者は決して失望させられることがないのです。これが主の語っておられることです。

私たちもイエス様に信頼しましょう。私たちがこのイエス様という要石の上に人生を築いていくとき、人からどのように言われようと、社会の価値観とどれほど違おうと、大丈夫です。この方に信頼する者は決して失望させられません。この約束を握り、イエス様を柱として、その上に石を積み重ねるようにキリストの体を作る者とならせていただきたいと思います。
そして、私たちが霊の家を築き上げられ、聖なる祭司として活動することを、第一ペテロ2章9節で繰り返し教えてくださっています。もしよろしければ、ご一緒に拝読しましょう。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」

この言葉の前も見ていただければと思いますが、イエス・キリストのこの礎石は「つまずきの石」になったとも書かれています。みことばに従わない方々にとっては、この石はつまずきの石なのです。主により頼まない人々、つまり自分の目にそれが正しくないと思い、役に立つか立たないか、メリットがあるかないかという生き方をする人々からすれば、イエス様の十字架はつまずきの石であり、妨げの岩なのです。
しかしそうではなく、この社会にありながら聖書の価値観に従って生きていく人々は、選ばれた種族なのです。私たちは自分を捨てられた石のように思うかもしれませんが、捨てられて当然だった私たちを選んでくださり、家の大切な石として据えてくださいました。そして「王である祭司」、言い換えれば高い身分を持つとりなし祈る者として置いてくださいました。さらに「聖なる国民」、私たちを清めてくださり、神の前に大胆に立つことができる民としてくださいました。そして「神の所有とされた民」です。イエス様は一度神から捨てられましたが、私たちは二度と捨てられることはありません。「わたしはいつまでもあなた方とともにいます」という約束の中に置かれた民なのです。

私たちはともすれば、この社会の中では捨てられた石のように思われるときもあるかもしれません。しかし大丈夫です。人から捨てられても、その石が要石になった、それが私たちの主イエス様ご自身です。人の目には不思議なことです。私たちも同じように生ける石としてこの方の上に築き上げられ、これからもこの地域の中でキリストの体である教会が豊かな栄光を表すことを期待していきたいと思います。

私たちは選ばれた種族であり、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民なのです。そのようなものとして今置かれていることは、もったいないことであり、あり得ないことだと思います。しかし、信じましょう。私たちはふさわしいから選ばれたのではありません。主の目にそのように言われているのであれば、「アーメン、私もそのようなものとして歩みます」と宣言させていただきたいと思います。

そしてそれは、「闇の中から驚くべき光の中に招いてくださった方の素晴らしいみわざを宣べ伝えるため」です。先ほど順先生から東京ミッションのお話がありました。懐かしく伺いましたが、ちょうどあの時、私は外務省に6年半勤務した後に辞めたばかりでした。1998年の夏のことです。私は結婚の際に明先生に司式をしていただき、「明先生の言うことは絶対」というクリスチャンとして育ちました。その夏に明先生から「辞めたのなら猪名川に帰る間、数ヶ月だけでも東京ミッションを手伝ってくれないか」と言われ、お引き受けしました。
主が導いてくださり、外務省を辞めて8月に退職し、9月に帰る予定でしたが、結局12月まで4ヶ月間、東京ミッションのお手伝いをしました。本当に不思議な4ヶ月間で、そこでできた人間関係や友人は今でもつながっており、共に濃縮された主に仕える経験をさせていただいたことに感謝しています。

忘れられない思い出がいくつもありますが、今でも心に刺さっていることがあります。辞めた後、非常に心細かったのです。人生のレールを自ら外したというか、社会から捨てられるような感覚がありました。安心なレールから、主に献身するという未知の世界へ飛び込んだわけです。活動中は忙しくて忘れていましたが、終わった後に「これから自分はどうなっていくんだろう」という不安や恐れに襲われたことがありました。