2026年2月15(日)主日礼拝 グッド・サマリタン・チャーチ牧師 参議院議員
金子道仁師
ペテロの手紙 第一 2章4~9節
4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、
8 「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
ハレルヤ、主のみ名をほめたたえます。今日、新城教会の皆さんと共に主を礼拝できるこの恵みに、心から感謝しております。
ただいまご紹介にあずかりました、兵庫県の猪名川町というところで牧会しておりますグッドサマリタンチャーチの牧師、金子道仁と申します。町の人口は2万8,000人ほどおります。また、今から4年近く前より、参議院議員としての活動もさせていただいております。永田町にも遣わされ、牧会とまではいかなくとも、そこで福音を語らせていただくという思いで遣わされております。
本日は共に主を礼拝できる恵みにあずかり、素晴らしい喜びをいただいて感謝しております。ここに来て「ざわめき」の賛美を聴かせていただくと、私もだいぶ古い人間になってしまったため新しい賛美も多いなと感じましたが、それでも同じ霊の流れがずっと流れていることを感じながら礼拝に参加させていただきました。
また、皆様のたくさんのお祈りに、まずこの場をお借りして心から感謝御礼を申し上げたいと思います。国政に遣わされて3年半、もうすぐ4年が終わろうとしています。当初、自分の教会からこのような形で遣わされるとは思っていませんでしたが、週に2回は必ず自分の教会で奉仕をしてメッセージを語り、残りの日は全国どこへでも呼ばれたところで主に仕え、聖なる公同の教会である日本の教会に仕えさせてほしい、そのような思いで活動してまいりました。
そのとき思っていたことと、実際に今起こっていることは、かなり想像と違ったというのが実際です。「こんなことになるとは思わなかった」という3年、4年を過ごしております。しかし、そのような中でも毎週日曜日、一度も体調不良で礼拝を休むこともメッセージができないこともなく過ごしてこられたことは、本当に奇跡的だなと思っています。皆様に祈って支えていただき、心から感謝御礼申し上げます。
今日の聖書箇所を読んでいただきましたが、「捨てられた石」というタイトルで、第1ペテロ2章4節から9節を、新改訳第3版のみことばを中心に、一部2017年版も使いながら、共にこのみことばから主の声を聞いていきたいと思います。
全く存じ上げませんでしたが、甲子園ミッションの主の霊がこの教会に注がれたのが2月であるというお話は、私も本で何度も拝読しておりました。実際に2月にこの教会にお伺いすることになるとは予想しておりませんでしたので、そのような大切な時期にみことばを取り次がせていただくことは、非常に重たく、また感謝なことだと思って聖書を開かせていただきます。
本日のタイトルは「捨てられた石」ですが、イエス様が「捨てられた石」であるという言葉は聖書の中で何度も語られています。これはマタイの福音書21章42節にある言葉で、詩篇の言葉を引用したものです。イエス様ご自身が、自分自身こそがこのみことばの実現であり、預言の成就なのだということを伝えるために、弟子たちに言われた言葉です。
イエスは彼らに言われました。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」
イエス様は十字架にかけられる前に、ご自身がこの石であることを告白し、その預言はまさに成就しました。家を建てる者たちが捨てた石が要の石となり、土台となったのです。要の石、英語では「コーナーストーン」と言いますが、建物を建てるにあたってまさに土台となる中心です。これが、イエス様がご自身でその石になると言われたわけです。
今日の主題である「捨てられた石」において、私たちはイエス・キリストを信じ、イエス様との関係の中に置かれています。私たちはよく「キリスト教は宗教ではない」と伝えますが、宗教でないならば何なのかと言えば、それはイエス様との関係を表すもの、それが私たちの信仰です。
イエス様と私たちとはどのような関係であると聖書に書いてあるでしょうか。主はぶどうの木で、私たちは枝であると書かれています。私たちはまさにイエス・キリストという木につながった雑種のぶどうの枝であり、元々は捨てられていたのに、イエス・キリストという木につながれて実を結ぶものへと変えられました。これも私たちとイエス様との関係を表す言葉です。
別の聖書の言葉で言えば、私たちは「水路のそばに植えられた木のようだ」とあるように、イエス様が私たちに命の水を流してくださり、私たちはその水路のそばに植えられて根を張り、毎日新しい御霊の生ける水をいただいて成長していくことができます。これもイエス様と私たちの関係を表す言葉だと思います。素晴らしい約束の言葉です。
私たちはぶどうの枝であり、水路のそばにある木です。しかし今日は、私たちは「生ける石」であるという点を見たいと思います。イエス様がこの土台の石であって、その上に私たちも生ける石として組み合わされ、そして何ができるのかと言えば、「霊の家」、言い換えればキリストの体である教会が立ち上がっていくのです。そのような意味で、私たちとイエス様が関係を持つ石同士が、互いにつながり合っていくようなイメージで、今日はみことばをご一緒に見ていただければと思います。
先ほどのみことばにありました通り、イエス様は捨てられた石となりました。「家を建てる者たちが捨てた石が要の石となった」とあるように、イエス様は私たちの人生の土台となるために、「捨てられる」というところを通られました。これが聖書の預言だったのです。
マタイの福音書には、イエス様が捨てられたということが明確に二度書かれています。
一つは、弟子たちに見捨てられたということです。「そのとき弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と書かれています。この公生涯の3年間、イエス様の歩みというものは、神に従い、隣人を愛し、弟子たちを愛し、彼らをしっかりと育ててこられたものでした。その3年間の最後が、見捨てられて一人残されたという姿だったのです。
弟子たちはなぜイエス様を見捨てたのか、その時の彼らの思いを私たちは想像するしかありませんが、一言で言えば、イエス様と一緒にいるメリットがないと判断したのでしょう。一緒にいたら自分の身が危ないと、そのように考えたのかもしれません。自分が考えていた姿と違うことになってしまった、自分が予想していたことと違うところに今置かれている、だから見捨てたわけです。
今、私たちが生きている社会というのは、様々な「パフォーマンス」が重視されます。コストパフォーマンス(コスパ)や、最近ではタイムパフォーマンス(タイパ)など、若い方々は短い言葉を好まれるのか、様々なパフォーマンスの良し悪しが言われます。一言で言えば、その行為や選択が「自分にとってメリットがあるかどうか」で社会が動いている面が多々あります。メリットがあるかないか。弟子たちはイエス様と一緒にいる価値がない、ここにいれば自分の身が危ないと判断し、捨ててしまったのです。本当に非常につらく、残念なところをイエス様は通られました。
それだけではありません。イエス様は人から、特に大事にしていた弟子たちから見捨てられただけでなく、神からも見捨てられるという恐ろしい、私たちが想像もできないような孤独と苦しみの中を通られました。まさに「捨てられる」というところを通られたのです。イエス様が十字架の上で語られた言葉、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫ばれたのは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると書かれています。
人から見捨てられるだけでも、私たちの社会でそのようなことがあれば耐え難い苦しみかもしれません。しかしイエス様はそこで終わらず、人だけでなく神からも捨てられるという恐ろしい苦しみまで引き受けられました。
私たちは今、このイエスの贖い、十字架の後の時代に生きている者として、神から捨てられるという恐ろしい場所を通る必要がないものに変えられました。マタイの福音書28章20節には、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」という約束が与えられています。私たちの愚かさや足りなさを知っておられる方が、「私はいつも、世の終わりまであなた方とともにいる」と約束してくださっているのです。だから、私たちは神から見捨てられることはありません。
しかし、イエス様は人から見捨てられ、神から見捨てられるという、本当の苦しみを通られました。この方が生ける石となり、要石となってくださったのです。私たちはこの方につながってキリストの体を作っていきます。私たちは今日、イエス様を信じる者として、イエス様との関係を作っていきます。水路のそばにある木、ぶどうの枝、これらも素晴らしいですが、今日は「生ける石」として、イエス様につながるものとして見たいと思います。イエス様がどのような石として私たちの人生の土台に立ってくださったのか、そのことをまず皆様と共有させていただきたいと思います。
しかし、この方は見捨てられて終わりではありません。そのことも聖書に預言されています。使徒の働きの中で書かれている言葉ですが、これはダビデが詩篇の中で語った言葉の引用です。「それで後のことを予見して、イエスの復活について……彼はハデスに捨て置かれず、その肉体は朽ち果てないと語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。わたしたちは皆、そのことの証人です」と書かれています。
ご存知の通り、イエス・キリストは三日後によみがえり、今は父なる神の御座の右に座って私たちのためにとりなしをしてくださっています。この方は人から捨てられ、神から捨てられましたが、そのまま捨て置かれることはありませんでした。この方が捨てられる必要があったのは、人から捨てられてのけ者にされ、神からも捨てられ、私たちの全ての罪の呪いと罰を受けてくださるためでした。そのために神から捨てられましたが、捨てられて終わりではなかったのです。捨て置かれることなく、贖いが完成しました。
そこで終わりではなく、よみがえられて、「この贖いは確かなものですよ、あなたがた信じる者には確かにこの約束が成就するのだ」ということを明確にするために、よみがえってくださったのです。見捨てられても見捨てられたままには置かれませんでした。そこを通らなければいけませんでしたが、通って終わりではなく、もう一度神様がその方を、イエス・キリストを生ける石として、私たちの人生の土台に置いてくださったのです。
第一ペテロ2章4節にこうあります。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です」と、ペテロが告白しています。イエス様は人には捨てられ、神様にも捨てられましたが、神様はそのままでしておかれず、もう一度選び出し、尊い生ける石(チョウズン、ホーリー、リビングストーン)として、私たちの人生の土台に来てくださったのです。
私たちはこの方のもとに来て、この方の土台の上に、私たちも生ける石として積み重なっていき、教会を建てる者とさせていただきたいと思います。「あなたがた自身も生ける石として、霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通してささげる聖なる祭司となります」と書かれています。これは2017年版の表現ですが、私たちは同じく生ける石なのです。