二章に入ると、いよいよイエス様の誕生の場面になります。一節から二十節で描かれています。
一節には、
「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。」とあります。
ルカの福音書では、当時の支配者についての言及が折々なされます。これは、イスラエルの歴史を通して神が働かれると同時に、実際の地上の歴史上に、主が働かれることを示しています。主の誕生や主の働きの舞台となった、その当時の地上世界の支配の状況も重要であるということです。
当時、イスラエルの民はローマ帝国に支配され、そこでは皇帝礼拝がなされ、皇帝は「神の子」、また「主」とされていました。
このルカの言及は、この世ではそのような状況があるが、真の支配者、この地上の王、主は、お生まれになるイエス様であるという対比を暗に示しているのです。
六節・七節をお読みします。
「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
ご存知のように、ガリラヤからベツレヘムに移り、そこでイエス様が誕生しました。これも預言の通りです。
八節からは、イエス様が生まれた記事のすぐ後に、不思議に全く関係ない場所に場面が飛びます。
八節から十二節をお読みします。
「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」」
ある野宿をしていた羊飼いたちの上に、この知らせが唐突に告げられています。マリアたち当事者以外で考えると、全く関係のない、また当時社会的に地位の低い存在であった羊飼いたちに、真っ先に救い主の誕生が伝えられたのです。これはとても不思議なことですが、これも社会的な地位の逆転が描かれている出来事です。
その直後の十三節・十四節に、
「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」とあります。
こちらもクリスマスによく引用される箇所です。実はこの十四節も賛美です。しかも、これは天の軍勢が歌った賛美です。軍勢とはつまり軍隊です。
天の軍隊が現れてしたことそれが賛美でした。賛美とは、クリスチャンにとって霊的な軍事行為といえるほどのものであるという理解を持つべきかもしれません。私たちはただ歌を歌っている、楽器を奏でているだけではなく、天において天の軍勢がするものを、地上で受け取って、地上の役割として賛美をしているのです。
この賛美は、フレーズごと讃美歌にもなっています「グロリアインエクセルシスデオ」(Gloria in excelsis Deo)です。
この後、羊飼いたちはイエス様を探し当て、主を賛美して帰っていきました。
次に、二十一節から三十九節に移ります。誕生の場面は一段落し、イエス様の割礼、そして三十三日後の出産の汚れの清めの儀式のために、両親がイエス様を連れてエルサレムに上り、神殿での出来事が描かれています。これらの決まりについてはレビ記の12章に書かれています。
その儀式を行う場面で、ある人物の描写が描かれています。二十五節・二十六節をお読みします。
「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。」
シメオンという人が唐突に登場します。彼が、エルサレムの神殿で儀式をしようと連れてこられたイエス様と両親に出くわしている場面です。二十五節・二十六節の両節に聖霊への言及がなされています。二十六節には、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと聖霊に告げられていた、と書かれています。やはりシメオンも聖霊に満たされ、選ばれた特別な存在であることが分かります。
二十七、二十八節。
シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。
シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
シメオンは聖霊に導かれて宮に入りました。そして、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえ、彼も歌を歌います。これはヌンク・ドゥミティス(Nunc Dimittis)と呼ばれます。
「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、
しもべを安らかに去らせてくださいます。
私の目があなたの御救いを見たからです。
あなたが万民の前に備えられた救いを。
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの栄光を。」
シメオンは、キリストを見るまでは死なないと言われていたので、今はそれを見たことで、この地上の使命を終えて安らかに去ることができる、という歌い出しから始まっています。
「私の目がキリストを見た」や「救い主を見た」ではなく、「あなたのみ救いを見た」という表現が使われています。ここで興味深いのは、「イエス」という名前は「主は救い」という意味だということです。シメオンは、救いを意味する名前の幼子を抱き、文字通り目にしたうえで、この歌を歌っているのです。
その救いは「万民の前に供えられた救い」とあるように、イスラエルの民だけでなく、異邦人の救いにまで言及されています。この地上の全ての民のための救いが与えられた、シメオンは喜びをもってそのことを歌っています。
そして、シメオンの後にまた一人の人物が登場します。アンナという女預言者です。彼女は宮を離れず、断食と祈りを持って夜も昼も神に仕えていました。彼女も幼子イエスを目にし心から喜びます。
「また、アシェル族のペヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後、七年間夫とともに暮らしたが、やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた。
ちょうどそのとき彼女も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った。」
その後四十一節から五十二節では、イエス様が十二歳のときのエピソードが書かれ二章が終わります。
ルカの福音書一章と二章を概観してきました。一連のエピソードにおいて、気づいた点はないでしょうか。それは降誕物語において幼子という存在が扱われているのと対照的に、ザカリヤやエリサベツ、シメオンやアンナ、年をとった人物たちが多く登場していることです。
これには理由があります。
実はイエス様と前触れとしてのヨハネが生まれる出来事は、預言の再開という大きな意味があります。どういうことでしょうか。
旧約時代最後の預言者マラキから、バプテスマのヨハネまで、四百年の空白期間がありました。いわゆる中間時代です。その間預言が止んだ、つまり主の沈黙が続きました。
ザカリヤ、エリサベツ、シメオン、アンナが年をとっているというのも、その中間時代がいかに長かったかを示唆しているかもしれません。彼らをはじめ、多くの信仰者たちが、その長い中間時代を耐え、いかに祈り続けたかという時間の経過を暗に表しているとも読み取れるのです。
私たちはその時代に地上の役割を果たし続けた信仰者を覚える必要があるかもしれません。彼らは主の沈黙にも関わらず、信じ続け、祈り求め続けました。このような背景があるからこそ、イエス様の誕生に際して彼らの心から賛美があふれるのです。
ザカリヤは「主は覚えておられた」、エリサベツは「わが神は誓い」、シメオンは「耳を傾ける者」、アンナは「恵み」という意味です。彼らの名前にも、主の計画があります。これらの人々が立てられ、それぞれ使命に従順に忠実に従った故に、迎えた喜びの出来事です。
この降誕物語は、とてつもない力強い歴史的な出来事だということを、私たちクリスチャンは受け取らなければなりません。
イエス様は、四百年の沈黙、闇を破って来られました。とてつもない喜びの訪れ、それがクリスマスです。
最後に、もう一点だけ視点を加えて終わりにしたいと思います。
ギリシャ語では、子どもを表す単語が非常に多いです。基本的には上から順番に幼い順になります。
ブレフォス:胎児、嬰児(みどりご)
ネーピオス:幼子、乳飲み子
パイディオン:子ども、幼子(親から守られ、訓練・教育を受けるべき存在)
ヒュイオス:一般的な「子」、特に「男子」、法的な立場・身分(正式な相続人)
テクノン:子孫、共同体的な意味を含む
面白いのは、ギリシャ語は胎児と生まれたばかりの子どもをブレフォスという同じ言葉で表現することです。
エリサベツがマリアの挨拶を聞いたときに胎内で躍ったヨハネの子、ここでブレフォスが使われています。そして、羊飼いたちが目にした生まれたばかりで飼い葉おけに寝ているみどりごにもブレフォスが使われています。
主は御子イエス様を、この地上の妊娠・出産という仕組みを用いて誕生させました。そこにも主の計らい、主の計画があると思います。妊娠・出産に関しても、世の中とは違う、主からの認識を受け取って祈る必要があります。
ひとつ試していただきたいのは、子が胎内にいるときから名前をつけて呼んでみてください。なぜなら子は胎内にいるときから、あるいはそれ以前から既に存在しているからです。そこには永遠のご計画があります。
そして、イエス様がバプテスマを受けられる場面では、
「さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」」
この場面で、天の父なる神から御子イエスにかけられた「子」という言葉は、ヒュイオスです。ブレフォスでもパイディオンでもなく、正式な相続人、神の御子としての存在です。バプテスマを受け、聖霊の注ぎがあり、正式な段階を経た状態。この後イエス様は三章以降、公生涯に向かっていくのです。
今日は、降誕物語を中心に見てきました。幼子にスポットが当たるだけでなく、その舞台を用意し、地上にその出来事を引き起こしたのは、従順に年老いても信じて祈り続けた人たちの祈りによるものでした。
私たちそれぞれに、赤子であれ胎児であれ、また逆にお年を召したかたであれ、はじめから主によって備えられた主の使命があるということを受け取りましょう。そのようにして、今年のクリスマスの期間は新たな視点であらたに主をお迎えできたら素晴らしいのではないでしょうか。
ガラテヤ人への手紙の三章二十六節には、このような表現があります。
「あなた方は皆、信仰により、キリストイエスにあって、神の子どもです。」
御子イエス・キリストによって、私たちは父なる神のヒュイオス、子です。相続人としての祝福、あり得ない立場の特権が与えられています。
今日学んだ様々な事実を私たち自身のものとして受け取り、私たち自身もより内側から湧き出る心からの賛美をささげましょう。そして主のための役割を一人ひとりが果たす、主の永遠のご計画の中のひとつのパートを担う者としての自覚を持ったクリスマスとしていけたら、本当に素晴らしい主の御業が起こされるのではないでしょうか。
最後に、主題のルカの福音書二章十一節をお読みして終わりにします。
「今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
私たちの主はイエス・キリストです。イエス様は救い主であり王です。
私たちは、この御言葉からいま一度、真にその事実を受け取って、このクリスマスの期間、喜んで主に仕えていきたいと思います。