我らの主、王イエス・キリスト

2025年12月7日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介

ルカの福音書 2章11節

”今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。”

今日は十二月最初の日曜日、主日礼拝となります。このクリスマスの時期、私たちクリスチャン一人ひとりが今一度、主の恵みを感謝し、また主のために生きていきたいと思わされます。

今日の主題は、ルカの福音書二章の十一節です。
ルカの福音書は、クリスマスの時期になるとよく引用される書物です。なぜなら、イエス様と、それに先駆けて生まれることになったバプテスマのヨハネの降誕物語が、詳細に記されている唯一の書物だからです。
今日はそのルカの福音書の一章と二章を中心に、イエス様の誕生とその意味をもう一度しっかりと受け取りたいと思います。新しい気付きも多くあるかもしれません。

まず、ルカの福音書の五節から見ていきます。五節から二十五節までが一まとまりとなり、バプテスマのヨハネの受胎告知の場面が描かれています。

五節と六節をお読みします。

「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。」

ザカリヤとエリサベツという老夫婦が登場します。彼らに対して子供が生まれるという、御使いの知らせが来ます。

ザカリヤは祭司で、その務めをしている最中、御使いが現れ、男の子が与えられることが告げられます。一章十三節をお読みします。

「御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。」」

このように、御使いが知らせを告げる場面がルカの福音書では続きますが、これはガブリエルという御使いであることが書かれています。ガブリエルという名前は「神の人」という意味です。神の言葉を伝える御使いとして知られています。このガブリエルが、ヨハネが生まれるという知らせをザカリヤに伝えたのです。

さらには、ヨハネがどのような役割を持って生まれるか、主のご計画についても語られます。十七節をお読みします。

「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」

ヨハネはイエス様の先駆けとして、罪の悔い改めのためのバプテスマの働きを進めました。その後、イエス様自身さえもバプテスマのヨハネから洗礼を受け、公生涯が始まるという場面に至ります。これらのことは、生まれる前から御使いによって預言されていたのです。

ここに書かれている「エリヤ」は、当時、終わりの時代に主の前触れとして現れる存在として信じられていました。マラキ書にも直接そのような預言がされています。そのエリヤの役目をするのが、生まれようとしているヨハネだということです。

しかし、ザカリヤとエリサベツは高齢であり、またエリサベツは不妊でした。そのため、ザカリヤは、この言葉をすぐには信じることができませんでした。その結果、戒めとして、ザカリヤはしばらく口がきけなくなります。

ほどなくしてエリサベツが身ごもったところで、二十五節までの場面が終了します。

場面が切り替わり、二十六節からは、マリアの受胎告知の場面に移ります。二十六節から三十八節までの箇所になります。

マリアはガリラヤのナザレに住んでいた、ダビデの家系のヨセフという人の許嫁で、処女でした。ここでも、御使いガブリエルがマリアに受胎告知をします。

二十八節から三十三節をお読みします。

「御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」」

処女であるマリアが身ごもり、イエスという名の男の子を産むことが告げられます。生まれる子は「大いなる者」、「いと高き方の子」であることも告げられます。

さらには、いわゆるダビデ契約への言及がなされ、「とこしえ」や「終わりはありません」などの永遠性を示すことまで示唆されます。
ダビデ契約については、サムエル記第二の七章十六節に記述があります。ダビデ王に主が誓った契約です。

「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

主はダビデとその子孫に対して契約を結ばれました。その家系から永遠の王国を治める王、救い主が誕生するというのです。その契約の成就として、ダビデの家系のヨセフの許嫁であるマリアに、イエス様が宿ることになります。

これは旧約からの連続性を示し、ときが満ち、はるか以前から主が計画されていた救いの計画が成就されるということになります。

そして、一章三十五節。

「御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」」

ルカの福音書や続編である使徒の働きでは、共通の表現が見られます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおう」という表現は、使徒の働きの一章八節の表現と非常に類似しています。ルカの福音書のこの場面では、聖霊が臨み、いと高き方の力がマリアをおおい、イエス様が誕生します。使徒の働きでは、聖霊が臨み、教会が誕生し、聖霊の働きがこの地上で力強く始まってい行きます。聖書は本当に奥深いですね。

マリアは、自身が処女であることから、告げられたことは、ザカリヤ以上に信じられないことでした。彼女は一旦は戸惑いました。しかし、ザカリヤと違った点は、その後にしっかりと信じたことです。

「お言葉どおりこの身になりますように」と言って、御使いの言葉を受け取りました。御使いが去り、場面が終了します。

三十九節から五十六節は、今度はマリアとエリサベツの両方が登場する場面になります。

マリアとエリサベツは親類でした。それぞれの受胎告知後、身ごもりました。そして、マリアがエリサベツのところを訪ね、挨拶に行きました。

一章四十一節。

「エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。」

マリアとエリサベツ、同時に胎内にはヨハネとイエス様がいます。ここまで見てきた通り、二組の夫婦と、主によって宿された子どもたち、その当事者が聖霊に満たされているということがわかります。

四十五節から五十五節までは、このような喜びの場面を迎えたマリアが歌った賛美です。その歌をお読みします。

マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
私の霊は私の救い主である神をたたえます。
この卑しいはしために
目を留めてくださったからです。
ご覧ください。今から後、どの時代の人々も
私を幸いな者と呼ぶでしょう。
力ある方が、
私に大きなことをしてくださったからです。
その御名は聖なるもの、
主のあわれみは、代々にわたって
主を恐れる者に及びます。
主はその御腕で力強いわざを行い、
心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
権力のある者を王位から引き降ろし、
低い者を高く引き上げられました。
飢えた者を良いもので満ち足らせ、
富む者を何も持たせずに追い返されました。
主はあわれみを忘れずに、
そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
私たちの父祖たちに語られたとおり、
アブラハムとその子孫に対するあわれみを
いつまでも忘れずに。」

この賛美は、非常に美しく力強いものです。「わが魂は」という冒頭のラテン語から、マグニフィカート(Magnificat)という題名が付けられています。マリアは聖霊に満たされて、心から、霊から湧きたつ賛美を歌いました。
「どの時代の人々も私と幸いな者と呼ぶでしょう。」幸いとは祝福を受けている状態を表す言葉です。マリアが与えられた知らせ、またその役割は、まさに「幸い」そのものです。

後半は、主のなされることが過去形(完了形)で書かれています。語られていることが、既に地上に訪れ、未来において必ず完了されることを示しています。

また、ルカの福音書では、「救い」や「福音」において、地位の逆転、社会的立場の逆転が、その中心の一つに据えられています。地上の力関係ではなく、主が目を止められる者が救いに導かれる。思いの高ぶる者、権力のある者ではなく、自分を低くする者、飢えた者に、主は救いを携えて地に来られるのです。

最後の部分では、アブラハム契約も出てきます。これは、ダビデ契約よりもさらに遡るアブラハムへの約束です。創世記から始まっている主の救いの計画が、イスラエルの歴史を通して実際に行われることを、私たちは忘れてはいけません。これらは主のご計画であり、約束・契約に基づいて行われているのであり、偶発的なことはひとつもないのです。

五十七節から八十節に移ると、今度はヨハネの側に移ります。ヨハネが無事に生まれたこと、そして八日目に割礼を受けたことが書かれています。その割礼の儀式の場面で、正式に御使いから命じられた名前であるヨハネと名付けられました。そのとき、父ザカリヤはようやく話せるようになりました。

そして、六十六節から七十九節を見ると、口が解けたザカリヤが、開口一番に何をしたかというと、賛美(預言)です。これも歌の形で非常に力強い宣言がなされています。

「ほむべきかな、イスラエルの神、主。
主はその御民を顧みて、贖いをなし、
救いの角を私たちのために、
しもべダビデの家に立てられた。
古くから、その聖なる預言者たちの口を通して
語られたとおりに。
この救いは、私たちの敵からの、
私たちを憎むすべての者の手からの救いである。
主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、
ご自分の聖なる契約を覚えておられた。
私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。
主は私たちを敵の手から救い出し、
恐れなく主に仕えるようにしてくださる。
私たちのすべての日々において、
主の御前で、敬虔に、正しく。
幼子よ、あなたこそ
いと高き方の預言者と呼ばれる。
主の御前を先立って行き、その道を備え、
罪の赦しによる救いについて、
神の民に、知識を与えるからである。これは私たちの神の深いあわれみによる。
そのあわれみにより、
曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、
私たちの足を平和の道に導く。」

これはベネディクトゥス(Benedictus)という題名が付けられています。読んでの通り、ここでもダビデ契約、アブラハム契約に触れられており、イスラエルに対する主の約束の成就だという喜びの歌です。

前回の私のメッセージで詩篇を学ばせていただきましたが、ルカの福音書にもこのように詩歌がいくつか出てきます。詩篇でも学びましたが「角」は、雄牛の角のことであり、力強さや勝利の象徴として使われる表現です。イスラエルに回復と勝利があるという宣言です。救いとは、私たちの敵からの救い、解放を意味します。これは究極的には、イエス様の十字架上での悪魔に対する勝利も含まれていることを、我々クリスチャンの読者は受け取ることができます。
後半の「幼子よ」から始まるパートは、生まれたバプテスマのヨハネについて語られている部分です。ヨハネ自身も「いと高き方の預言者」と呼ばれる特別な存在であり、その道を備える先駆者としての役割が宣言されています。主のあわれみゆえに、民は暗闇から光へ、すなわちサタンの支配から神の支配に移される、ヨハネにはその道備えの役割が与えられているのです。