2026年4月5日(日)新城教会主任牧師 滝元順
へブル人への手紙 2章14-15節
14そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
15死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。
当然ながら、イエスは御使いたちを助け出すのではなく、アブラハムの子孫を助け出してくださるのです。
復活祭、おめでとうございます。
新城教会は、創立以来、76年という長い歴史を歩んできました。今日まで主によって守られてきたことを、本当に感謝せずにはいられません。本日の復活祭礼拝に先立ち、「召天者記念会」が執り行われました。すでに天の教会には200名以上の方々が在籍しています。今朝は、天と地がより一つになって礼拝を捧げられることを、心から感謝いたします。
常々お伝えしていますように、この会堂は1980年に建てられました。46年という年月が経っています。そのため、各所に改装工事が必要な時期を迎えています。今月は会堂のすべての照明器具がLED化されることになります。これによって電気代は従来の10分の1近くに抑えられるはずです。工事が無事に完了するよう、どうぞお祈りください。
また、現在はプロジェクターで映像を映していますが、私の背後の壁面は、近いうちに、壁一面を覆う巨大なLEDモニターへと生まれ変わります。その完成予想のCGが出来上がりましたので、ご覧ください。……いかがでしょうか。今の雰囲気と驚くほど同じです。新城教会の中に、このような映像を作成する専門的な方がおられるのです。制作には相当な時間を費やしたようです。新しい世代のために、会堂を維持して次の世代へと申し送る働きに加わってください。
さて、本日は礼拝の後に、「牧師就任式」が控えています。今まで副牧師であった、瀧川充彦先生、鈴木陽介先生が牧師として就任します。実際にはより重い責任が彼らの肩にのしかかることになるでしょう。
考えてみてください。10年、20年も経てば、私の世代はこの地上にはいません。これからは彼らの時代になるのです。ですから、お二人へのご協力をよろしくお願いいたします。
今日は「復活祭」です。先ほどの召天者記念会でも触れましたが、キリスト教というのは実に特異な宗教です。他のどのような宗教と比較しても、全く異色であると言わざるを得ません。
なぜなら、教祖の復活そのものが信仰の中心であり、最大の祝祭となっているからです。イエス様が死なれたこと、そして復活されたこと。この事実を除いてしまえば、キリスト教は成立しません。
キリスト教は、死と復活を歴史上の事実として捉え、年に一度、全世界規模で祝います。これが復活祭です。信仰の核心そのものにこの出来事がなければならない。それはイエス様の十字架と死に他なりません。一般的に、死とは別離であり、寂しさ以外の何物でもないでしょう。しかし、キリスト教にとっては、教祖の復活を大々的に祝う宗教なのです。このような宗教は、世界中どこを探しても絶対にありません。学問的な表現を用いるならば、「歴史的復活を教義の中心に据える宗教は、キリスト教のみである」と言えるのです。
昨今は「進化論」があまり強調されなくなりました。知らないうちに、シレッと言及しなくなってきていることに気づきませんか。その理由は、物質の根源にはすべて「情報」が存在することが判明したからです。人間にはDNAがあり、その根元には誰かが組み上げた緻密な情報が存在しています。その情報に基づいて私たちの体は形成されているのです。植物も、すべてにおいて根源に情報がある。人類は「神」という言葉をなかなか使いたがりませんが、「知的な存在が背後にいる」という認識に、科学の世界すら変わりつつあります。つまり、どこかに神はおられるのです。
そして、神の姿を表現しているのは、宗教以外にありません。であれば、私たちは世界中の宗教を比べて、どこに本物の神がご自分を現しておられるのかを検証しなければならないのです。「うちは代々仏教だから・・」という理由だけで留まっていてはいけません。各宗教が説く死後の世界観をしっかりと学んだ上で、「これが真実だ」と選ぶ必要があるのです。
なぜなら、死は宗教的な行事ではなく、誰もが直面する現実だからです。100年も経てば、今ここにいる人は誰一人として残っていません。
やがて、死という究極の体験を迎える日が必ず来ます。ここで世界四大宗教の死後観を比較してみましょう。
仏教が説くのは「消滅」です。教祖自身も消滅の道を選んでいます。イスラム教には、私たちの信じるような復活はありません。ヒンドゥー教は「輪廻」という神話的な循環です。対してキリスト教は、「実在した人物が復活し、今もなお生きている」という宣言の上に立っています。私たちの救い主であるイエス様は、一度死なれましたが、復活して今も生きておられる。この揺るぎない事実があるからこそ、私たちもその命に繋がることができるのです。
そもそも宗教とは何か。突き詰めて考えれば、それは「死の先に何があるか」を問う営みに他なりません。生きるための規範や道徳という側面もありますが、それらはいずれ過ぎ去るものです。究極的には、死の向こう側に何があるのかを問うことこそが、宗教の根本的な役割です。
ですから、キリスト教の死後観を正しく知っておく必要があります。今日初めて教会に足を運ばれた方も、ぜひご自身の持っている観念と比較していただきたいと思うのです。
キリスト教の成り立ちを見てみましょう。
まず、その土台には旧約聖書があります。これは現代のユダヤ教にとっても聖典です。キリスト教はユダヤ教をベースにしながら、その上にイエス様の教えである「新約聖書」が積み重なっています。つまり、ユダヤ教的な背景を持ちながら、それを超えた教えがキリスト教です。
そのため、ユダヤ教とキリスト教では死後の世界の捉え方が決定的に異なります。旧約聖書の世界だけで死を理解しようとすると、大きな勘違いをしてしまいます。
たとえば詩篇6篇5節には、「死においてあなたを覚えることはありません。黄泉において誰があなたをほめたたえるでしょう」と記されています。これだけを読むと、死んだらすべてが失せてしまうのではないかと不安になります。
しかし、これはユダヤ教的な死生観であり、それは「死は神の祝福の外にある状態」を指しているからです。地獄に落ちるわけではないけれど、死ぬことは神の祝福の手から外れてしまうことだと考えます。だからこそ、彼らは自分たちの国や民族が地上で存続することに命を懸け、この瞬間もイランなどと戦っているのです。
しかし、キリスト教の福音は違います。「死は敗北し、希望は『新しい創造』にまで拡張された」のです。旧約聖書と新約聖書では、死後の世界観は明確に書き換えられました。私たちキリスト者にとって、死後の理解とは「自分がどうなるか」という個人的な不安ではなく、「神がこの世界をいかに完成させるか」という神の物語に重心があります。それは恐怖ではなく、復活、和解、そして完成へと向かう希望の物語なのです。
死は、一つの通過点に過ぎません。キリスト教において、死は神が世界を完成させるためのプロセスの一部です。
つまり、その先があるということです。キリスト教の死後観は、大きく二つの段階に分けられます。
第一段階として、私たちが地上での生を終えた瞬間、私たちは直ちに主とともに歩む「パラダイス」へと移されます。パラダイスという言葉は一般にも広く使われていますが、聖書が語るそれは、真に素晴らしい楽園です。死後、即座にその場所へ行くことができる。ただし、そこは最終目的地(天国)ではなく、あくまで中間的な経過点です。
そして第二段階において、「死者の復活」が起こります。私たちはもう一度、新しい体を持って復活するのです。
考えてみてください。今、私たちの肉体は日々古びています。若い頃の写真を見返して、「これは誰だろう」と感じることもあるでしょう。しかし、安心してください。老いて死ぬことが、私たちの物語の終着点ではありません。
やがて、二度と朽ちることのない栄光の体で復活する日が必ず来ます。皆様も、そして私もです。その時にどんな髪型にしようか、私は今から楽しみにしていますが、本当に復活はあるのです。
もし、復活した後に「あとは適当に生きていけ」と言われたら、それもまた辛い話でしょう。地上にそのまま復活すれば、また混乱した社会が生まれてしまいます。しかし、そうではないのです。私たちは「新しい天と新しい地」で、神との完全な交わりの中に、永遠に生きるのです。
これこそ、壮大な計画ではありませんか。そこでは神ご自身が王として治められるため、もはや間違いの起こらない、完璧な世界が実現します。現在はすべての被造物が死の呪縛の中にあります。植物も、動物も、細菌さえも、いずれは死を迎えます。しかし、それらすべてが栄光の姿に変えられ、麗しく調和し、王であるイエス様が世界を治められるのです。
「死の本質とは、霊魂がこの世から逃げ出すことではない。被造世界そのものが新しく更新されることなのだ」と、聖書は教えているのです。
その逆転の業は、いつ成し遂げられたのでしょうか。それは、イエス様が十字架の上で息を引き取られた、あの瞬間でした。
イエス様は、共に十字架に架けられた強盗の一人にこう言われました。「今日、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」。
イエス様の左右には、二人の強盗が張り付けにされていました。彼らは当時の法に照らせば、死刑に処せられて当然の罪を犯した者たちです。最初は彼らも、イエス様を罵っていました。しかし、イエス様の高潔な受け答えを目の当たりにする中で、一人の強盗の心が射抜かれたのです。「もしかしたら、このお方こそがまことの救い主かもしれない」と。
彼は考えを改め、イエス様にこう願いました。「イエス様、あなたが御国に入られるとき、私を覚えていてください」と。
それに対するイエス様の返答は、驚くべきものでした。「今日、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」。
彼には何の功績もありません。教会への貢献も、善行も、何もなかったのです。ただ死の間際に「私を覚えてください」と願った、その一言でパラダイスが約束されました。私はこの箇所を読むたびに、イエス様こそが真の救い主だと確信します。
皆様ならどうされるでしょうか。十字架の苦しみの中で、散々悪口を言ってきた相手から「助けてくれ」と言われたら。「何を今さら言っているんだ、お前のような悪党は地獄へ落ちろ」と言い放ちたくなるのが、人間の偽らざる本音ではないでしょうか。少なくとも、私ならそう言ってしまいそうです。しかし、イエス様は違いました。なんと素晴らしい救い主でしょうか。
そしてイエス様は死に留まらず、復活されました。弟子たちは皆ユダヤ人でしたから、元来は「死は祝福の外へ行くことだ」という死生観を持っていたはずです。それにもかかわらず、彼らは命を懸けてイエス様の福音を世界に宣べ伝えるようになりました。なぜ、これほどの劇的な変化が生まれたのか。その理由はただ一つ。復活したイエス様に直接まみえたという「歴史的な衝撃」があったからです。初期のキリスト者たちは、復活したイエス様と面と向かって出会った。その体験ゆえに、彼らは命を惜しまず、福音のために世界へと飛び出していったのです。
つまり、イエス様の復活は架空の物語ではなく、歴史上の事実なのです。今から約2000年前、私たちの生きるこの時間の流れの中で起こった客観的な事実です。あらゆる宗教を比較検討してみても、このような土台を持つのはキリスト教をおいて他にありません。ユダヤ教も神の存在を捉えてはいますが、復活という結論には至っていません。そして、救いとは人間の努力ではなく、ただイエス様を救い主として受け入れる「恵み」によってのみ与えられるのです。
また、死は完別離ではありません。初代教会のクリスチャンたちは、「主との交わりは断ち切られるのではなく、ただ形を変えるだけである」と理解していました。教父アウグスチヌスは次のように語っています。「教会は、今生きている者と、主にあって眠りについている者から成る、一つの共同体である」と。
死によってお別れになるのではありません。私たちが教会に集う時、すでに天に帰られた方々とも、私たちは共にいるのです。祖先崇拝のように呼び出したりする必要はありません。私たちは最初から一緒にいるのですから。