弱いときにこそ、強いからです

『ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』

私や家内が病気で弱いものです。そして私が思ったように悪魔に、霊的戦いでやられていると、パウロでさえ病気を持ち、高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いであるとあります。
強くなくてはいけないのではありません。第二コリント十章十節には、

『パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」と言う人たちがいるからです。』

とあります。彼は実際会って話すと弱々しくて、病気を持っている。また高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いという事は、霊的戦いの中でも分かりやすく言うとやられていました。しかしパウロは私が弱いときにこそ、私は強いからです。と語っています。
自分悪いことを考えてしまい、弱さを覚えるものです。しかし今回神さまが教えてくださったのは、私が弱いときこそ、私は強いからですということです。神さまは弱さを通して勝利をあらわされるんだということを教えてくださいました。弱さを持つものが逆転して、逆説的な方法で主は勝利を取ってくださるっていうことです。更に聖書を見てみると十二弟子のことが書かれてありますが、彼らはただの普通の漁師だったり、取税人だったりした人たちが十二人、イエス様に集められました。そんな中で全く無学であった漁師のペテロやヨハネ。特にペテロはイエスさまが十字架かかるときに、私はイエスを知らないと呪ったとあります。イエスを裏切ったペテロでしたが、彼は、聖霊に満たされたのちに、今度は歴史をひっくり返すような人物に変えられました。素晴らしい働き人になりました。また先ほど言ったパウロもそうです。またイエスキリストも、素晴らしい教えをして、奇跡や癒しも行ないました。しかし死刑台である十字架かかって、しまいました。人間の目から見たら、弱い人のように見えました。しかしその死刑台が私たちの罪のために身代わりとなって死んで下さり、そして死から勝利を下さり、よみがえって下さった方です。負けたように見えたのが、救い主となって下さいました。
弱さを感じ、主が強くしてくださったのです。弱さを覚えるような状況である私は、信仰によって、聖霊の力によって逆転の勝利を与えて下さいます。
マタイ二四章四節にこんなみことばがあります。

『そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。』
また第一ペテロの五章八節

『身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。』
自分や家内の病気は悪魔悪霊はダメだと誘惑してきます。しかし人に惑わされないように、そして身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。私たちは弱くても良いのです。パウロのように私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。とあります。弱さを喜びましょう。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。私たちの弱さを通して主が働かれるのです。その弱さを使って勝利に導いて下さいます。今回弱いときにこそ、私は強いからです。と教えられたとき、自分と家内に起こしてくださった勝利を見ることができました。大変だと思っていた時、逆転の勝利を与えて下さった事を思い出しました。以前もお証させて頂いたと思いますが、今の住んでいるところ家を建てたのですが、土地を譲っ下さった方と親しくさせていただきました。出会うといろんな話をさせていただき、親しくさせて頂きました。建築業をされておられた方ですが、建築業を息子さんに託して、野菜や果物を作っておられました。その方はとても働き者でした。朝から早くから暗くなるまで働いておられました。そして作った野菜や、果物を下さったりして本当に良くしてくださいました。私はいつかこの人に福音を伝えたいなと思っていました。しかし一生懸命働いている姿を見るときに、なかなか話すことができませんでした。ある時家内を散歩させていた時、私を呼び止め「あんたの奥さんと同じ病気に、私もなってしまった」というのです。彼もパーキンソンになったと言ってくれました。しかしうちの家内が調子を崩し、病院に入退院し、そして今の施設に入所させました。新城市や豊川市などには多くの施設があります。しかし不思議なことがおきました。家内の入所している施設の家内の部屋の目の前に、なんとその人の名前が書いてありました。始めは同姓同名かなと思ったんですけどなんと、その人が入居していました。彼は玄関はいってすぐの所に食堂があるのですが、いつもそこでテレビを見ておられ、私が家内の面会に行くと、彼から手を振って私を迎えてくれました。その為良くお話しするようになりました。そしていつか福音を伝えたいと思っていたので、その方の部屋にお邪魔してゆっくり話すことができました。そして「教会でいつもお祈りするけど、おじさんのために祈っていい?」と聞きました。するとそうしたら祈ってくれって言ったのです。じゃあイエスさまを受け入れようということで、不思議な神さまの計画の中で、おじさんがイエスさまを信じますと告白してお祈りすることができました。その後も何度も共に祈ることができました。彼はだんだん弱ってきましたが、いつも挨拶しながら手をにぎり、イエスさまを信じる祈りをすることができました。ロ―マ十章十節
『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

そしてルカ十五章十節に

『あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

と書いてあります。
一人の人が悔い改めたら、天のみ国で大きな喜びがある。皆さん想像してみて下さい。彼がイエスキリストを信じます。と告白し、天国に入れて下さいと祈りました。その時天では大歓声が起こり、よろこびに満ち溢れたことでしょう。考えるとわくわくします。今のところにもう十五年ぐらい住んでいます。そしてなんとか彼に伝道したいという思いが与えられました。彼は私よりもずっと年配の方です。私は彼を見るたびに一瞬ですが福音を伝えられるようにと祈っていました。それが不思議な導きで、去年かなえられました。そのことを通して私に主が語って下さいました。
Ⅱコリント十二章九節から十節

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』

ローマ人の手紙八章二八節に

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』
今回その方のためにイエス様を伝え、祈る事ができた。家内が病気にならなかったら、このことは起こらなかった。神がすべてのことを働かせて益としてくださることが家内の病気を通して主が一人の人を救いに導くことができた。と教えられたのです。
そして今年二〇二六年に入って一月五日の日に彼が亡くなりました。彼は、天国に行ったと信じています。今はこの死も苦しみもないところで彼がこの礼拝を見てくれていると思います。一回も礼拝や教会に来たことがない方です。私が弱いときにこそ、私は強いからです。
このみことば成就しました。家内が病気にならなかったらこのことは起きませんでした。
そのことを考えるといろんなことを思い出しました。家内がデイサービスシオンに通っていた時、デイサービスシオンの土地を持っておられた方が、アークホームに入所されました。その人は私と同級生のお母さんだったのです。シオンに行くと良く出会い、親しくさせて頂きました。そしてある時、その方とお話しさせて頂き、その方がイエス様を信じますと告白の祈りをしました。家内がデイサービスシオンに行かなかったら会うことがありませんでした。その方もイエスさまを信じて、もう何年か前に亡くなりました。またもう一人アークに入居し、田中政男先生を知っているというおじいさんに出会いました。その方も人のおじいさんはイエスさまを信じました。そんな事を思い出すとプレイズがアークホームやデイサービスを開所したことにより、そして家内がデイサービスに行く事により、そのほかにも何人もの方と「イエス様を信じます」と告白の祈りをともにすることができました。神さまが家内と私をそこに遣わしてくださったのです。
家内が病気にならなかったらその方々と出会う事もなく、お祈りすることができなかったと思います。まだまだ家内が何故病気になったのかと考えると、Ⅰコリント二章九節

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。を家内に祝福を下さると信じています。

「弱いときにこそ、私は強いからです。」という事を知ることができます。
天国と地獄どちらに行く事が幸いでしょう。当たり前のように天国です。それも聖書を知れば知るほど、地獄の苦しみ、悲しみ、辛さが分かり、天国の素晴らしさが分かります。家内が病気になって我が家は大きな苦しみの中にありましたけど、主はそれを逆手に取ってくださって、多くの魂を、天に送ることができたということを考えると、本当に感謝だと思うんですね。
また今新城教会は世代交代の時期です。若い人たちが賛美チームを担って下さっています。彼らの祝福と成長、油注ぎのためにお祈りしましょう。
また去年の夏、次世代でキャンプが韓国において行われ、多くの小学校、中学校など若者たちが出かけて行きました。そして今、子どもたちが一生懸命、主を賛美し、子どもたちが霊的戦いに目が開かれて、祈っている姿を見ると、いや、感謝だなと思います。子どもっていうのは、弱い存在であるかも知れません。大人が守らなければいけない存在であるかも知れません。子ども会や中高生、若者のためにお祈りください。彼らが聖霊さまに触れられると大きな力を与えて下さいます。
「弱いときにこそ、私は強いからです。」彼らが油注ぎを頂くと大きな祝福を主が与えて下さると信じます。
また年を取ってきた世代も詩篇九二篇十四節
『彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。』

更に実を結ぶことができます。肉体は衰えて行きますが、霊は燃えていて、実を結ぶとあります。
ヨエル書三章十節

『あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ち直せ。弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ。』

自分は駄目だと思ってしまいます。鋤・鎌は、日常の生活に使うものです。 「弱いときにこそ、私は強いからです。」今私たちが日常生活も大事ですが、霊的戦いの剣、そして槍を手に持ち変えなさい。「弱いときにこそ、私は強いからです。」
今日主題のみことば、第一コリント十二章二二節

『それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。』

あなたはなくてはならない者です。主が弱いと見られる器官がかえってなくてはならないものなんだ。弱さを覚えることは大事だ。と私に二〇二六年に教えてくださいました。
今日、私達は本当に知らない間に否定的になって、駄目だと思ってしまっている。自分の中で否定的な事を考えてしまいがちですが、マタイ二四章四節の
そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
人の言葉だとか、また本当にね、知らない間に悪魔に本当に捉えられて、悪魔の食いつくすべきものにやられてしまっているような自分があったかもわからないけども、今日は本当に弱いところを強くしてくださる神に目を向けなさい。弱いところに本当に弱さを持っていたら、それを主に任せて、主に目を向けていきなさい。神はその弱さを使ってくださると語ってくださったような気がします。
第二コリントの十二章十節を皆さんで告白しましょう。声を出して皆さんで読んで見ましょう。