2026年1月18日(日)新城教会牧師 上條実
コリント人への手紙第一 12章19節~22節
19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
ハレルヤ。心から感謝します。こうして皆さんの前に立って奉仕ができることを心から感謝します。二〇二六年も、既に第三週目になります。年末年始、皆さんいかがだったでしょうか?お疲れが出ていないでしょうか?
我が家は例年になく年末年始はめまぐるしい時でした。クリスマスシーズンの途中に、東京に住んでいる次男が子供四人と一緒に来ました。嬉しい事ですが、子どもたちの面倒を見たりして、目まぐるしい日々が続きました。そんな中で皆さんにお祈りして頂き、またご奉仕をお願いして、一月十二日の月曜日にコンサートが行われました。頌が主からの思いを頂いて、主のため働きたい、主に恩返しをしたいという事で始まったコンサートでしたが、そのコンサートが祝福されたことを心から感謝します。新城文化会館小ホール一杯の方が集い、頌が募集して結成した「ゴスペルグルーブ33:3」と素晴らしいバンドメンバーとともに、素晴らしい歌を聞かせてくれました。また特別ゲストとして、May J.が来てくださり素晴らしい歌声を聞かせてくださいました。ほとんどがクリスチャンではない方ばかりでしたが、すばらしい伝道の時を持つことができました。まず滝元順牧師の挨拶と祈りから始まり、多くの主への賛美と証しが語られました。皆さまには、背後で熱きとりなしの祈りをささげて下さり、どれだけ感謝しても、感謝しきれないほどお世話になりました。全て主に栄光をお返したいと思います。
続けて頌のためにお祈りください。以前彼に「とにかく主にへりくだっていけよ」と行ったことがあります。しかし、彼は「俺へりくだることが苦手」というのです。彼はへりくだることをしっかり学び、主に生かされている事を感謝し、更に主に従い、神さまのために働き、神さまのために音楽している。世の中の音楽を、暗闇から主に勝ち取って頂けるように働いて行ってもらえばと思います。ぜひ祈り、支えていただければ幸いです。
そのコンサートの準備や「ゴスペルグルーブ33:3」の合宿などがあり、私は何もしなかったのですが何か忙しく過ごしていました。そんな中で、突然三男の聖都のところの一番下の子が熱を出し、検査室した結果「川崎病」と診断されて豊川市民病院に入院しました。豊川市民病院の看護師さんが言っていましたが、伝染する病気ではないのですが、二〇二六年になって川崎病で小さな子どもたちが十人ぐらい川崎病で入院したというのです。なんかそれを聞くと、霊的なものもあるのかなと思います。小さな四才の子どもが入院し、三男夫婦も忙しい中、かわるがわる付き添いして、大変な状況でした。しかし感謝なことに先週の水曜日退院することができました。また長男のところで、長男の主共が大学受験で、今日も大学入学共通テストを受験しています。ぜひお祈りください。また長女の基香も、高校受験で私立高校の、推薦の入試を受けました。感謝なことに、彼女は合格してほっとしているところです。私はただ祈るだけでしたがこの年末年始ドタバタとして休まるときがなかった気がします。続けてお祈り頂ければ幸いです。
ではみことばを学んでいきたいと思います。今回は「弱いときこそ強いからです」というタイトルをつけさせていただきました。Ⅰコリント人への手紙十二章十九節から二二節
『もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。』
と書かれていますが、体の中で弱いと思われるところがなくてはならないんだっていう事を二〇二六年、主が語って下さいました。弱いところがかえってなくてはならない部分であり、主は弱さを覚えている人がなくてはならない人物。祝福をいただくことができる鍵を持っているというのです。
いつも家内のために祈っていただいて本当に感謝します。家内は現在豊川市にある施設に入居しています。今六六歳になります。祈りに支えられ、特に現状は変わりません。先日彼女がパーキンソン病をいつ発症したかと振り返って見ました。彼女がちょっと調子悪いと言い始めたのが二〇〇八年でした。ですからもう十七年間病と戦っています。一時期ちょっと良くなったと思いましたが、でもまたガタガタっと病が進み、現在に至っています。もしわたしが代われるものなら代わって挙げたいと思うのですが、大変な苦しみに会っています。彼女はプレイズが経営しているデイサービスシオンに通所している時でした。お迎えの車を待ちながら、二人で話したことがあります。彼女が、「なんで私こんなんなっちゃった?」って言うんです。「私、特に悪いことやったこともないし、神様を信じて一生懸命やってきたつもりだけど、なんで?」と、何回も聞かれたことがあります。私は彼女に「神さまの計画があるよ」とか、語ったのです。でも、彼女はやっぱり自分が一番苦しいから「なんで?」と聞いてきました。ローマ人の手紙八章二八節に
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』
とあるから・・・・と彼女にいうのですが、彼女は辛いのです。また私も口ではそのように、みことばをいうのですが、「なんで家内が・・・・?」と分かってはいるつもりですがやっぱり戦い、葛藤がありました。「なぜ?」「どうして?」と主に祈り訴えてきました。常に何か重たい気持ちがありました。そんな中で、二〇一九年には自分が脳梗塞を発症し、翌年二〇二〇年は上行動脈瘤が見つかり、八時間の心臓の手術をしました。なんとか皆さんに祈っていただいて、ここまで支えられましたが、「どうして私たち夫婦は・・・・」と考えてしまいました。そんなときにある方から、私に向かって「牧師の家庭で牧師も奥さんも病気になって、癒されないじゃないか?」と言われたことがありました。普段講壇に立って「祈りは聞かれる」と偉そうな事を言っているのに、実際心の中では「なんで?」という思いが消えませんでした。将来と希望があるとみことばにあるにも関わらず、何でこんなことが起きるんだろうと、自分の中で知らず知らずのうちに弱いものだ。と認めてしまっている。霊的に勝利ができてない。もっと戦わなければいけないと思うのですが、現実そんな状況でない。介護で戦いには行けない、祈ることもできなくなってしまいました。口には出せませんが、苦しいときがありました。
世の中には強い人が沢山います。何事にもポジティブに考えて発言し、行動する方がおられます。そういう方は何事にも成功していく人がいます。私はそうですけれど、その方と比べてしまいます。感情に振り回されてしまっているところがあったり、変化が突然訪れると、対応できないような自分があったりして、つらいときがありました。そして家族から家内を施設に入所させよう。と言われました。分かっているのですがまた苦しみました。しかし自分の体と精神的なものが一杯一杯で、限界が来て、彼女を現在の施設に入居させました。介護の大変さから解き放たれて自分の自由の時間を過ごすことができ、また皆さまのお祈りに支えられて、自分が癒されて行く事が分かりました。そしてイエスキリストの名前によって祈る余裕が与えられてきました。そしてイエスさまが私の心に余裕と信仰を与えて下さいました。いろんなことを神さま教えてくださいました。
マタイ二四章四節にこんなみことばがあります。
『そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。』
自分の人生にも関わらず、人がどう見ているのだろうか。人の事をすごく気になっていることが分かりました。人と比べて「なんで私の家庭にはいろいろな大変なことがあるのだろうか?」他の人よりも自分が劣っているように、愛されていないと思ってしまいました。また第1ペテロの五章八節に
『身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。』
霊的に戦う敵がいるとわかっているが、今の状況は問題があり、苦しんでいると悪魔にやられているとか、食い尽されてしまっていると、敗北感を持ってしまいました。どんどん悪いことばっかり考え、このまま自分が主のために働けるのかな?働いても良いのか?と、そんなことまでも考えてしまうようなときもありました。しかし今回、第一コリント十二章二二節の最後のところをもう一度読みます。
『それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。』
二〇二六年、私に語って下さいました。「弱いときにこそ強いのだ。」そして「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならない」と教えてくださいました。弱いと見られる器官がなんて書いてありますか、かえってなくてはならないものだと書いてあります。
自分の子ども、孫が入院したと聞くと、すごく心配します。そして退院できたと聞くと私たちは喜びます。私たちの主は父なる父なる神です。父なる神である主は、子どもである、私たちが病気であったり、悩みがあったり、苦しんでいたら、親ですから、元気な人よりも、特別気にかけてくれます。自分が子どもや孫たちが大変な時は、弱い人は特別愛し、守り、助けるように、私たちの主は弱ったものに注目して、大事に思っています。
新約聖書にパウロという伝道者が出て来ます。彼は新約聖書の多くの手紙を書いた人です。そして素晴らしい預言者、主に用いられた人です。そのパウロですけども、第二コリントの十二章七節から十節のみことばを見ると大変な生涯を送りました。
Ⅱコリント十二章七節から十節
『また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』
と書いてあります。パウロのような力強い預言者にも、七節には
『高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。』
とあります。パウロは偉大な人物で、素晴らしい本当に預言者でしたが、肉体に一つのとげを与えられていました。病気を持っていました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いであるというのです。
『主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』
わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからであるとあります。そして私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょうと言っています。10節の