主イエス・キリストにある平和

2026年3月29日(日)新城教会牧師 四元雅也

使徒の働き 10章34~36節
34 そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、
35 どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
36 神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

ハレルヤ!おはようございます。
すばらしい礼拝をこうして持つことができることを心から感謝します。
春になりましてですね、お出かけするのにいい季節になってきました。実は、私はバイクに乗るのが好きで出かけたりします。 風を切って走るのは爽快で楽しいものです。 バイクで走ると神さまが造られた被造物・自然に一歩近づくような、感性に豊かに働きかけてくるような時間を過ごせる気がします。そんな出先で写真を撮って、こうしてメッセージ映像の背景にして皆さんにお見せするのが趣味なんです。自己満足です笑。昨日はヘブンリー・キングダムが桜淵でライブをしました。そしてこれが、今月4日に生まれました、うちの長男のところに誕生した赤ちゃんになります。皆さんに祈っていただいて今週の土曜日に1ヶ月になります。この写真を皆さんにお見せできるのも牧師の特権かなと思っています。孫の写真見たい?見たい?とか言って写真を無理やり見せたりしています笑。

それではお話に入っていきたいと思います
昨年12月からつい先月の11月まで礼拝の中で語らせていただいた4回のメッセージでは、こういったテーマでお話ししました。

・2024/12正しすぎてはいけない
・2025/4クリスチャンの権利。あなたが主張する権利は愛に基づいていますか?
・2025/8クリスチャン人生に神様が与えられる本当の自由とは?御霊の実が結ばれるために
・2025/11御霊の賜物とそれを上回る道「愛」について

私は礼拝などでメッセージを語るときは、最近語ったメッセージを読み返してみたりするんですが、この一年ほど振り返ってみると、一本の筋道を見ることができるように感じます。それは、神さまの愛の広さと、その中で聖霊によって教会に与えられる一致です。
今日は前半では昨年末のカウントダウン聖会で私がお話ししたメッセージを、そのときに「次お話するときにもう少し掘り下げてお話したいと思います」と申し上げたので、今日は機会ですので、もう少し掘り下げて皆さんにお分かちしたいと思っています。

まず、2026年に向けて私が受け取ったたみことば。使徒の働き 10章34~36節です。

34 そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、
35 どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
36 神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

この箇所の意味を考える前に、この前置きとなっているのが、使徒の働き10章に描かれている、ペテロがローマ人百人隊長コルネリウスから招かれ、彼の家を訪ね、コルネリウスがペテロの語る福音によってイエスさまを信じるっていうエピソードがあります。ペテロと異邦人百人隊長コルネリウスとのエピソードは、キリスト教の歴史においてまさに、「コペルニクス的展開」とも言える極めて重要な転換点です。ここでペテロに起きた出来事は、キリスト教の世界的な宣教の拡大にとって、まさに革命的な出来事となりました。


この時ペテロは、聖霊様によって促されて、コルネリウスのところに導かれたのですが、その行為は当時ユダヤ人にとっては考えられないようなものでした。ペテロが夢を見て、たくさんの獣が入った風呂敷が天から吊り下げられてきて「さあペテロ、これを屠って食べなさい」ペテロは「主よそれはできません。私はこれまで汚れたものは一切口にしたことがないので」神さまは「神が聖めたものを聖くないと言ってはならない」。 そう言われました。同時にコルネリウスのところにも天使が現れて「ペテロを招きなさい」といいました。当時のユダヤ人にとって異邦人との接触、さらに家に入ることは身に汚れを招くことを意味し敬虔なユダヤ人として忌むべき行為でした。

ヨハネの福音書をみると、イエス様を十字架につけるように訴えたユダヤ人指導者たちは、裁判を司る総督ピラト、これはユダヤの国の政治的な最高権威です、彼に取り入って裁判を起こしてもらいに出てきたにもかかわらず、彼が異邦人であるために、ユダヤ人たちは家の敷居をまたぐことはしませんでした。ユダヤ人にとって異邦人の家に入ることは、それほど受け入れがたいことだったのです。

一方ローマの百人隊長コルネリウスも、天使の告知によってペテロを自宅に招き入れ、福音を聞くように促されました。こうして双方の邂逅が実現し、コルネリウスはイエス・キリストの福音を聞きました。そのただ中に聖霊さまが臨まれ、ペンテコステの日に体験したのと同じ聖霊の注ぎを異邦人が受けるのを、ペテロは目の当たりにしました。

その結果、彼がそれまで持っていた固定観念、ユダヤ人こそ神との契約により選び分かたれた聖なる民、一方異邦人はその選びの外側にいる汚れた民、というユダヤ的選民意識を打ち壊されました。イエス・キリストの十字架の死による救いをもたらす福音は、全世界・全人類のものであること、神の民とされる特権も、ユダヤ人が信じる律法を行うことによってではなく、イエス・キリストを信じる者に“信仰”によって与えられるものである、という新しい視点を上書きされた瞬間でした。

この箇所が伝えようとしている主要なメッセージは、まず、救いはユダヤ人だけのものではなく、全人類に開かれているということです。当時、ユダヤ人は異邦人を「汚れたもの」と見なし、交際を禁じていました。しかし、 神はペテロに、獣が入った風呂敷の幻を見せ、「神が聖めたものを、聖くないと言ってはならない」と告げました。これは、人種や民族による差別の壁を神自身が取り払ったことを意味します。

次に、聖霊による承認です。ペテロや同行したユダヤ人信者たちは、聖霊を受けたコルネリウスを見たことは「神が異邦人を受け入れた」という動かぬ証拠となりました。

そして三つめは、この出来事による指導者であったペテロ自身の変革です。使徒ペテロであっても、「異邦人は救われない」という強い先入観を持っていました。神さまは彼を通して「異邦人伝道の正当性」を教えたのです。使徒の働き11章では、ペテロがこの出来事をエルサレムの教会に報告し、教会全体が「神は異邦人にも命に至る悔い改めを与えられたのだ」と納得することになります。
これは後に神さまがパウロをとらえられ、彼を通して異邦人への宣教が本格化するための前ぶれ・道備えとなりました。
これによってもたらされたものは、後の福音宣教の行方を決定的に変える、キリスト教史最大のパラダイムシフトといえるものでした。
この一幕から学ぶメッセージは、昨年一年間通じて私が礼拝で語ってきた「人を分け隔てなさらない神の愛の広さ」です。使徒の働き10章34・35節

34そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、
35どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。

この出来事の後、使徒の働き15章では、エルサレム会議が開かれました。この会議で議論されたテーマは、異邦人の救いを認めるところからもう一歩進んで「異邦人クリスチャンにもユダヤ人と同じく割礼を受け律法を守らせる」こと、つまりユダヤ人と同等の宗教的生活様式を要求するか、わかりやすく言うとユダヤ化させるかどうかでした。そして、ここで決定したことは、キリスト教史においていわば「教会の憲法」が決まった瞬間とも言えるほど、極めて重要な決定です。それは使徒の働き15章28~29節

28 聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷(律法)も負わせないことを決めました。
29 すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」

異邦人を受け入れて救いの恵みが与えられることだけでも大きなことなのに、ユダヤ人の肉体的・精神的・信仰的な礎であった律法、ユダヤ人のアイデンティティの根幹ともいえる、彼らを世界の中で特別に神によって選ばれた民とならしめていた源は、律法でした。それを異邦人クリスチャンに要求しないと決定されたのでした。

これが当時のユダヤ人クリスチャンにとって、どれほど衝撃的な「価値観の大転換」だったのか?まず 「ユダヤ人であること」が救いの条件だった当時の彼らにとって、メシア(救い主)は「イスラエル」のための存在でした。神の民になるには、割礼を受け、律法を遵守することが「絶対条件」でした。「イエス様を主として信じるという信仰だけで十分であり、割礼すなわちユダヤ人化は不要である」という結論は、ユダヤ人にとって先祖代々数千年も守り続け聖域となっていた伝統を、救いの条件から外すことを意味しました。
次に 「汚れ」に対する感覚の崩壊です。「ピラトの官邸に入らない」というエピソードからも分かる通り、ユダヤ人にとって異邦人は「汚れた存在」であり、彼らの家に入る、食事を共にすることは宗教的に自分を汚す行為でした。しかし、律法を守らない異邦人を「兄弟」として受け入れ、同じ食卓に着く。これは、彼らの生理的・宗教的な拒絶感を信仰によって克服しなければならない、非常にハードルの高い要求でした。
このように使徒の働き15章に書かれているエルサレム会議は、教会が分裂してもおかしくないほど大きなテーマが議論されていたのでした。しかし、彼らはこの大転換を聖霊によって受け入れました。ペテロが異邦人コルネリウスに聖霊が降った実体験を証言したこと。またパウロとバルナバが異邦人の間で行われた神の奇跡を報告したこと。そしてヤコブが旧約聖書のみことばを引用し、これが神の計画であることを裏付けた。このようなプロセスを通して、この決断はなされました。

この大転換によって、福音は人種や文化の壁を越え、「全世界のすべての人のための救い」となりました。もしもこの決定がなければ、キリスト教は「ユダヤ教の一派」にとどまり歴史の中に埋もれていたかもしれません。
彼らが「自分たちの特権(律法)」を手放したことは、神の愛の広さを示しています。『聖霊と私たち』と記してある通り聖霊さまが真理を明らかにされ、使徒を中心とした弟子たちがそれを受け取ったことを通して、これまで正しいと信じてきた価値観を福音の元に放棄したのです。
まさに、聖霊による愛と一致がこのエピソードの中に描かれています。それまで自分が信じてきたものを、聖霊による新しい価値観によって打ちこわし、主にあって一つとならせることです。それが現在、私たちを含む、数十億のキリスト教人口という実を結んでいるのです。

さて、話は全く変わりますが、皆さんは今日キリスト教界が二分される大きな流れをご存知でしょうか?
「知っています、カトリックとプロテスタントでしょ」と言われるかもしれませんが、そうではありません。今回私がとり上げたいのは、プロテスタントと呼ばれるグループ、私たちもプロテスタントですが、その中にある二つの大きな流れです。

答えを言いますと、「終焉説」と「継続説」のふたつです。聞きなれない言葉かもしれません。私も最近まであまり気にしていなかったのですが、昨年末ころから自分なりに調べています。

キリスト教における終焉説(Cessationism:セセイショニズム)と継続説(Continuationism:コンティニュエイショオニズム)は、新約聖書に記されている霊的な賜物(特に預言、異言、癒やしなどの奇蹟的なもの)が、現代の教会においても続いているか、それとも使徒の時代に終わったかという議論です。