このセリフについて、誰が言っているのかといういくつかの解釈はありますが、個人的には、未信者がありがたがって言っている箇所だと読みます。
ですから、未信者がそのように提示してきた物に対して、唯一真の神を信じるクリスチャンは、それを良いものであるどころか、偶像礼拝に関わる営みの結果、目の前に並べられているものとして、偶像礼拝の行為を容認する誤解を与えないため、避けるべきだというのがここでの結論です。
ではクリスチャンは「偶像に献げた肉」を何と呼ぶでしょうか。同じ10章の19節を見ると、
19 私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
ここでは、偶像に捧げた肉と、かぎ括弧に入っていない平叙文として書かれています。ここで使われている言葉はヒエロストスではないのです。ここでは「エイドーロストス」です。エイドーロストスは、エイドーロンという偶像を指す言葉の派生語です。英語で偶像は「アイドル」ですが、その語源となった言葉です。
未信者とクリスチャンでは、同じものを指して違う言葉が使われるのです。このように聖書を学ぶと非常に興味深いです。
異教の神を信じる者からしたら、ありがたいヒエロストスでも、唯一であり真の神を信じるクリスチャンからしたら、エイドーロストスなのです。
同じものをみても、私達がどのような信仰や世界観を持っているかで全く違う。それを指し示す言葉すら変わってくるという点を学ぶことができます。
この箇所から少し適応を拡大して、私達クリスチャンが、世にあって関わる様々な物、事について考え方を整理していきたいと思います。私達はエイドーロストスとヒエロストスをしっかりと見分けなければなりません。偶像礼拝に関わるもの、偶像に関わるもの、更に言えばこの地に属しているもの、たかだかこの地上の価値観において素晴らしいとされているものをエイドーロストスとして見極めて受け取らなければならないのではないでしょうか。
この世は、「これはヒエロストスです」と言ってきます。しかしクリスチャンは、世の中が言う通りにヒエロストスなどと受け取ってはいけないわけです。これは、現代においては、注意しなければ、どの分野・領域においても同様の状況が生じ得ると思います。
この地上は悪の支配にあります。またこの日本という国は、特に信仰者がほとんどいない国です。この地上に、社会に溢れかえっているものは、彼らの視点からすればご利益のある素晴らしいものです。彼らはマスコミや学問や様々な方法を通して、声高にヒエロストスだと喧伝します。それらをただ無批判に受け取っていいかどうかを、真理の光に照らして吟味する戦いの視点を持たなければならないのです。
経済活動を前提とする様々なものに戦いの視点を向けましょう。教育、学問、政治。今の時代は、本当に難しい困難な時代であるのかもしれません、混迷を極めているのかもしれません。だからこそ、クリスチャンは今何をすべきかということを真剣に考える必要があります。
伝道者の書に戻ります。9章14節15節に突然このような短いエピソードが挿入されます。
14 わずかの人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いた。
15 その町に、貧しい一人の知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救った。しかし、だれもその貧しい人を記憶にとどめなかった。
日本においてクリスチャンの存在はまさにこのようなものかもしれません。誰の目にも止まらない、社会で扱われることもない、学問の領域で扱われることもない。しかし真剣にこの国や世界のために今日も祈っているわけです。本当に誰の記憶にも留められない小さなものかもしれません。
困難の中で、ご自身の問題に苦しんでいる方は、自分たちがどのような存在として召されているか、主にあってこの命がどのように与えられているかという点に視点を向けて見てください。そうすれば祈りの領域が大きく広がるはずです。
続けて伝道者の書11章6節には、
6 朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。
とあります。折々触れていますが、2025年に対して私が主から示されたみことばは、「努力しなさい」ということでした。神に見出していただくために努力しなさい。そして、主の到来を早めるために努力しなさいと。クリスチャンは努力をする必要があります。
このみことばもそのように受け取ることができます。とにかくやれることをやりなさい。どちらが成功するとか、どちらがみこころかどうかなんていうのはわからないんだから、できることは全て頑張るということが、クリスチャンの正しく、へりくだった態度だと思います。
ときにクリスチャンを表して、「みこころ症候群」という言葉が使われることがあります。みこころを求めることが第一で、とにかく祈るのだと。それはもちろん間違いではありません。しかし、一方で、何一つアクションを起こさない、行動を変えない、それで「みこころ」だけを求めている。そのような状態は、今日学んできた観点から言えば、決して信仰深い態度ではありません。
主のみこころを知りたいのであれば、今自分ができることを精一杯頑張ることです。望むことがあるのであれば、真剣に、それにつながることを精一杯やることです。そのような中にこそ主が道を示してくださいます。道が間違っていれば軌道修正もしてくれます。
努力する一方で、主の主権に属するものは、主に譲るのです。これらは決して矛盾・対立するものではありません。両立するものです。
2026年に対して示されたみことばは、天が地よりも高いように、主の道は私達の道よりも高い、です。2025年には「努力しなさい」2026年は主の主権に目を留めること。不思議にそのようにみことばによって導かれています。
私達は今がどのようなときであるのかということを、永遠の尺度で正しく認識して生きる必要があるのです。
ヨハネの黙示録を見ると、このような記事があります。22章の10節、11節、
10 また私に言った。「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。
11 不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」
ヨハネの黙示録は、聖書の中でも最後の方に書かれた、構成としても終わりの書となるものです。「時が近いから、この預言の言葉を封じてはならない」と書かれています。
同じ黙示文学の旧約聖書にあるダニエル書を見ると、12章の4節に、
4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。
とあります。全く反対の命令が発せられています。「終わりの時」とありますが、まさに冒頭で学んだ通りです。新約の時代は終わりの時が既に到来しているので、黙示録においては、主の言葉を封じてはならない。しかし、旧約の時代、ダニエルに対しては、まだ終わりの時ではないので、このことばを封じておけと。ここからも主が主権を持って、時を支配していることがよくわかります。そして、その時に応じてそれぞれに役割、使命が示されているのです。
伝道者の書をもう少し引用させていただきます。11章9節、
9 若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。
そして12章1節、
1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。
この教会では、現在、特に若い世代に対しての言及が多いですから、もしかしたらまた「若い人たち」かと思われる方もいるかも知れません。そうではありません。イエス様の降誕の際にも、年を重ねた人々の積み重ねた祈りが、神のときを地上に引き下ろすために、大変重要であったと学びました。それぞれの世代に、大いなる役割があります。
「あなたの若い日に」と書かれているので、若い人だけに向けられたみことばかと思うかもしれませんが、そうではありません。この地上においては、通常、時間がさかのぼるということはありません。それはつまり、誰にとっても、地上では今日この瞬間が一番若いということを意味します。人生の中で今が一番若いのです。近頃、お年を召した方が何名か洗礼を受けられています。本当に素晴らしいことです。
皆さんも覚えてください。人生で一番若いのは今日です。今日、今、ご自分が決断ができたり、行動を変えることができるうちに、主の示されることをしてみてください。何歳になってからでも決して遅いことは一つもありません。若い日に創造者を覚えよと、主が語られています。まだ洗礼を受けられていない方も、また、信仰を持ち、それがますます深められていくように歩まれている方も、ぜひご自分でさらに主を求めてください。周りの者は、特にご家族は、そのことを一番願い、祈り続けていらっしゃると思います。
伝道者の書の終わりになります、12章13節14節、
13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
14 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。
先ほど触れたように、伝道者の書は知恵文学であり、非常に端的な表現で物事が示されています。もしかしたら、この複雑な現代のクリスチャンには、回りくどい議論ではなく、このくらいシンプルな表現が必要なのかもしれません。
もうすべて私達も何度も聞かされています。知っているはずなのです。とにかく神である主をおそれ、主の命令を守ること、これがすべてです。大変な中にあっても、真剣に努力して主に従い進み続けること、これが私達の歩みです。
同時に、それは人間の力では完遂できません。それを可能にするのは、聖霊様の助けです。ですから、この時代だからこそ、クリスチャンは皆一様にそのような歩みができるはずです。
12月にも触れました、中間時代のクリスチャンのことを思ってみてください。預言が止んでしまい、主から何の返答もない400年です。それでも信仰を守り、それを次の世代、またその次へと紡いでくれたクリスチャンがいたのです。
あるいは本当に迫害の激しい時代とか国で、事実今でもそういう国もあります、信仰を守り通しているクリスチャンがいます。
そのような中に自分の身を置いてみるときに、私達はいかに恵まれた中にあるでしょうか。
いま一度、永遠の尺度で、救済史的視点で、聖霊が注がれた出来事をしっかりと受け取りましょう。そうすれば、今の地上の状態・状況に左右されない確かな信仰が私達の内に、ますます確立されていきます。
そのためには何をするべきでしょうか。私達が今目の前でやるべきことをただやるだけです。特別なことは何も必要ありません。主に信頼した上で、私達がそれぞれにやるべきことを精一杯やるだけです。それが神の国の拡大のために必ずつながります。
主の権威によって定められた、自分自身に課せられた使命を、それぞれに果たしていくのです。そうすれば、必ず家族も教会もこの国も世界全体も、この地上のすべてのものが変わると信じます。おひとりお一人、主の前にそのような歩みをしていきましょう。そのために、お祈りをして終わりにさせていただきます。
愛する天の父なる神さま、心からみ名をあがめます。私達にあなたの霊である聖霊様を注いでくださって心から感謝します。私達はあなたの権威の中で、あなたの支配されるときの中で、今この2026年というときを生かされています。
私達がその意味をしっかりと受け取り、あなたにあって果たすべき役割を果たしていくことができますように。聖霊様の力により、私達はこの地上の価値観から解放され、また、あなたの証人となるための力が与えられていることを心から感謝します。私達の弱さや無力さに目を留めるのではなく、主にあって勝利のポジションであることを真に受け取り、見失わされることがないように助けてください。そして困難な時代、状況ではありますが、お1人お1人が、そのポジションで果たすべき役割を、主のために果たすことができるように、どうか新しい油注ぎを今日私達に与えてください。
この地の王はあなたであることを私達は宣言します。全てのものを支配しておられる主に心からの信頼と感謝をもって私達の人生を歩むことができるように助け導いてください。
今日のこのときを感謝して、私達の主イエス・キリストのお名前によって、心からお祈りをおささげします。アーメン。