2026年2月8日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介
使徒の働き1章7節8節
7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
ハレルヤ。2026年も2月に入っております。時が経つのは速いものです。2月はこの教会において特別な月です。1992年の2月13日に県民の森において聖霊が注がれました。次週は午後からその記念祈祷会が行われますので、ぜひご参加ください。
そのような中、今日、主題となる聖書の箇所は、使徒の働き1章7節、8節の聖霊が注がれる約束のみことばです。早速みことばをともに学んでいきたいと思います。
この箇所は復活のイエス様が弟子たちに語られた言葉です。語られている点の第1として、いつとかどんなときということはあなたがたの知るところではないということです。言い換えるならば知る必要がないということ。そしてそれは、父なる神ご自身が自分の権威をもって定められているということです。
次に、聖霊があなたがたの上に臨むということ。その結果、あなたがたはどうなるか。どのような役割を果たすのかということです。
聖霊が注がれることについては、すでにルカの福音書24章49節に書かれています。「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
とあります。これらの約束の言葉のとおり、使徒の働き2章以降において、実際に聖霊が注がれる場面を迎えます。その結果使徒たちは、力を受け、エルサレムユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで主の証人となっていきます。
聖霊が注がれたという事実そしてその結果、主を信じる者がどのような存在となるのか、どのような役割を果たしていくのか、今日はそれらのことをあらためて学び、受け取っていきたいと思います。
そのためにまず、救済史という考え方について復習したいと思います。救済史というのは、神の救いの歴史ということです。天地創造から新天新地まで、一連の出来事を、神さまが持っておられる人類に対する救いのご計画の観点から読み解くものです。これはクリスチャンが、神のみことばである聖書の内容を受け取る上で、とても大事な視点です。
天地万物の創造があり、人も造られました、そして人は罪に陥りました。それ故、救いが必要になりました。旧約を通して、アブラハムという人物からイスラエルの民が広がり、主とともに歩もうとする歴史が描かれます。そしてとき至り、救い主イエス・キリストがこの地上に遣わされました。それは、救済史的に、大変大きな転換点です。さらに、それに続き、聖霊が注がれました。本日学ぶ主題の背景は、主にこの地点前後となります。
イエス・キリストがこの地に到来されたときから、神の国、神の支配が地上に訪れました。それが拡大していき、最終的に再臨により完成します。そして新天新地を迎えます。その間の期間は、地上において神の国の現れは限定的です。それ故に、神の支配がある一方で、地上的な不完全さが存在します。それは「既に」と「未だ」と表現され、私達はこの両面を経験しながら、この地上の歩みをしているということになります。また、究極的には、神ご自身が地上にそのような期間があることをお許しになっています。
このような点に整理がついていると、私達の人生に巻き起こることに関して、より適切な認識を持つことの助けとなります。私達の信仰は、主の視点を持つことで、その本質に目を留めることができるようになります。
イエス・キリストの到来について、もう一点違う視点で見ると、それは世の終わりが始まったということになります。神の国の到来、それはつまり「世の終わりの始まり」を意味します。
クリスチャンの世の終わりに対する正しい認識は、「世の終わりの始まり」があり、「世の終わりの終わり」があるということです。私達はこの間の期間を生きている、生かされているのです。この期間は、地上で神の国が拡大していく期間です。これは「教会の時代」や「聖霊の時代」と言われます。私達は、神の国の拡大、そして完成のために生きているのです。その目的のために、この地上で役割を果たすよう、主から使命が与えられ、生かされている存在なのです。そしてそれは個人ではなく教会に与えられた使命です。そのような主の思いに応える働きをしていきたいと心から思います。
使徒の働きの1章7節8節をそのような視点でもう一度見ていただきたいと思います。旧約の時代は、神の霊は特定の人物にしか注がれませんでした。しかし、ヨエル書の2章に預言されていた通り、終わりの時代すべての人に主の霊が注がれるということが実現しました。
これ以降、近現代においても、主の主権において特定の時や特定の場所において、聖霊が激しく、現れをもって臨まれるということが歴史上の事実として起こされています。
そしてまさに、1992年2月13日にこの教会においても、聖霊が激しく望まれたということです。これらの出来事も、救済史的な一貫性の中で、受け取るべきです。
続けて、ここまでのところキーワードとなってきた「時」という点についてさらに学んでいきたいと思います。
まず、時は神に属している、神の主権の中にあるものだということを認識することが必要です。そして人は、それぞれの時に際して任された領域、任された使命を果たしていく役割に召されているのです。
伝道者の書には、時や時期というキーワードが多く取り扱われています。伝道者の書の3章一節、
1 すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
ここでも、ときは主が支配しておられることが示されています。そしてさらに有名なみことばが11節です。
11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。
よく引用されるみことばです。しかし、ともすると最初の一文だけ引用される場合が多いかもしれません。続きも受け取る必要があります。神は人の心に永遠を与えられたとあります。地上で生かされている人間が、永遠の尺度を持って生きるべきであることが、神のみこころとして備えられています。
そして同時に、人間は神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができないと。私達人間の力が一切及ばない、知恵も知識も及ばない、主が主権を持っておられる領域があるのです。その事実をしっかりと受け取る必要があります。
しかし私達人間は容易にはそのように生きる事ができません。そのような人間の姿の代表例となっているのが、実は使徒たちです。使徒の働きの1章6節では、
6そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
とあります。イエス様は、当時の地上の支配を実際に打ち破る軍事的な解放者として来られたわけではありませんでした。人間の理解できない十字架の死と復活という方法で、救いの道を開かれました。そのような王でした。救い主でした。
ですから、使徒たちは復活の主にお会いしているにも関わらず、そのような救いの霊的な意味合いを理解することができませんでした。そのため、地上的観点からイスラエルという自分たちの民族の国家が、ローマをはじめとする様々な支配から解放されるだろうという希望から、それが今かと問いを投げかけたのです。
実に、人間は自身の持つ世界観からしか物の考え方を持つことができません。この記事は、本当に良い一例です。
それに対して返答されたのが今日主題として学んでいるみことばです。
伝道者の書にもう一度戻ります。7章の13節にこのようなみことばがあります。
13 神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。
時だけではなく、神のみこころがなされるとき、人間はそれに抗うこともできないし、抗うべきでもないという点も、信仰者が受け取るべきことです。ここでも人間の思いを超えた主の主権を認める必要が示されています。
また、7章15節には、
15 私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。
まさに、私達が信仰を持って歩むうえで、嘆きをぶつけたくなる状況の代表的なものです。実際にこの通りのことがこの地上では起こります。これらをどのように受け取るべきでしょうか。
ところで、伝道者の書は、知恵文学というジャンルに属するもので、意図して物事を端的に、白黒はっきりするような表現で書かれている文学です。ですから、読み解き方には十分注意しなければなりません。しかし、他のみことばや、聖書全体の世界観とともに読み解くことで、大事なことを受け取ることができます。
伝道者の書には、そこかしこに「空の空」や「空しい」という表現が出てきます。一読するだけだと、人生は空しい、空虚だ、虚無だと、読めてしまうかもしれません。けれども聖書全体が示す世界観は全くそうではありません。聖書の知恵文学が語る「空しさ」とは、「儚さ」と言い換えることができ、人間の力、知識では及ばない領域があることを示しています。それを痛感する時、人間はどうするでしょうか。天に目が向くのです。天地の主権者に目を向けることができるのです。
先ほどみことばから学んだ通り、永遠に目を向ける心は、はじめから主によって与えられているのです。未だ神の国が完成していない地上においては、地上の営みは空しく、儚く感じる時も多々ありますが、私達は永遠にこそ目を向けるべきです。
聖書において知恵文学はこのようなかたちで、主に目を向けるのに助けとなる書物です。
続けて8章の16節17節、
16 私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、
17 すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。
主の主権によって起こされる出来事を人間は見極めることはできません。伝道者の書を書いたのは、知恵者中の知恵者であるソロモンだとされています。そのソロモンでさえこのように語っています。それは、現代においても同様のはずです。しかし、現代社会はそのような謙虚な姿勢で進んでいるでしょうか。実際にはその逆で、人間の知恵や知識、科学的な領域が、素晴らしいものを開発し続けているという認識が一般的ではないでしょうか。それは本当に正しいでしょうか。
むしろ、人間の本来の豊かさは失わされ、本来あるべき姿からどんどん離されてしまっているという側面も、かなりあるのではないでしょうか。
当然、世の中にあるものを、最初からすべて否定するのは間違いです。労苦して、地上に属する様々なことに対しても向き合うこと、探し求めることは大事です。しかし、その方法で神の真理に到達することはありません。クリスチャンは、そのことを正しく認識しながら、すべてのことを見極めることができないからこそ、様々なことに真剣に向き合い続ける必要があります。
自分が何かできると思っているうちは、最も神から遠い存在になっている可能性があることを理解して、現代社会の様々な知識や情報を扱う必要があります。
そのような点を学ぶ上で、聖書の別の箇所を引用させていただきます。第1コリントの10章28節、
28 しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。
第1コリントの8章以降、偶像の神々の神殿に献げられた肉についての話題が続きます。当時それらが市場に出回り、クリスチャンにおいてもそれらを調べ上げて、食べるのを完全には避けることができないような状況がありました。それに対して、いくつかのケース別に勧めがなされています。今回はその本題を扱うという訳ではなく、その中に含まれている一つの視点から学びたいことがあります。
これは、当時の未信者に招かれた食事の場面です。この箇所の直前には、出されるものは疑わず、特に避ける必要がなく食べなさいと書かれています。そして、しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に捧げた肉です」と言うなら、と続くのです。
かぎ括弧に入っている部分「これは偶像に献げた肉です」。これは誰が言うセリフでしょうか。これは考えてみれば、特定の人しか言わないことです。クリスチャンでない人は、そもそもその概念が無いため、偶像という言葉を使いません。
この箇所は、原語であるギリシャ語で見るとわかってくることがあります。 ギリシャ語の原形では、「偶像に献げた肉」に対してヒエロストスという言葉が使われています。ヒエロストスというのは、神殿を意味するヒエロンという言葉の派生語です。神殿というのはここでは、ギリシャ神話の神々の神殿のことです。つまりヒエロストスは、そこに献げられたものということです。ヒエロンは神殿であり、偶像という言葉ではありません。ヒエロンを異教の神の神殿と思うのはクリスチャンであって、ギリシャ神話の神々を信じる当時のコリントの人々たちからすると、ヒエロンに献げられたヒエロストスは、「霊験あらたか」や、「ご利益のある」素晴らしい物という意味になります。これは現代の日本にもそのまま当てはめることができる状況ではないでしょうか。これは、どこどこに「奉納された素晴らしいお米」です。となるわけです。