皆さんは、「善きサマリア人」の話をご存じだと思います。これは、山で盗賊に襲われた人を、敵対していたサマリア人が助けたという話です。この襲われた人は、都上りの途中でした。真っ暗な丘を越えていくということは、とても危険を伴うことだったようです。
詩篇の作者も、都上りの途中で不安を覚え、「何か起りはしないか。助けを求めたら助けてくれるかな」「助けはどこから来るかな」と心配し、山を見上げたのかもしれません。もちろんこの作者は真の神さまを信じている、私たちと同じクリスチャンです。『私の助けは、天地を造られた主から来る』と告白し、山の大きさを見て、あらためて山々を造られた偉大な神さまに思いを馳せたのではないでしょうか。
私もベテルファームに携わるようになって、ハーブやキュウリやナスがいくつもなっていく成長の過程を見ながら、あらためて「いのちを与えてくださっている神さまって、すごいなぁ」と思います。
時に、クリスチャン人生は「天国への旅路」だとも言われます。
へブル人への手紙一一章一三節には、こう書かれています。
『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』
また、『けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ人への手紙三章二〇節)とあり、地上では、悩みや苦しみ、困難や問題が連続して起こるかもしれませんが、私たちの故郷は、「この地上ではなく、天にある」ということをぜひ覚えてください。そして、私たちの目的地は、今住んでいるところではなく、神さまのおられる「天国」に入ることであることを、覚えてください。
次に、三~四節にはこうあります。
『主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。』
皆さんは、ご主人や奥さんのために、何でもしてあげたいと思っているでしょう。しかし、疲れてしまったり、自分のことでいっぱいになってしまったりすると、やってあげられないときもあります。また、たとえ強い愛情があったとしても、愛する人が助けを求めたときに、その人の近くにいなければ、応えてあげられないでしょう。
しかしここに、主は、「まどろむことも、眠ることもない」とあります。「まどろむ」という言葉は、普段あまり使わないかと思うのですが、ちょっとウトウトするとか、一瞬気が抜けてしまう、ということ表します。神さまは、一瞬たりともまどろむことがなく、眠ることもなくいつも私たちの傍らにいてくださるということなのです。
あなたは、主があなたを愛しておられ、あなたを必ず守ってくださるという信仰を持っていますか。「イエスさまは本当に私のことを思ってるのかな」「私の願いを聞いてくれるのかな」「ずっと祈っているけど、聞かれないじゃないか」と思うときもあるかもしれません。しかし、私たちがどんなときにも、どんな状況であったとしても、主は『あなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない』と約束してくださっていますから、信仰もっていきましょう。そうするなら、主は必ず祝福を与えてくださいます。
そして、『見よ。イスラエルを守る方は…』と書かれている「イスラエル」とは、クリスチャン一人ひとりを指しています。ということは、この約束は、皆さんお一人おひとりに向けられているということです。私たちを愛して、ひとり子のイエスさまを十字架にかけ、あなたを救い、私を救ってくださった天地万物を造った神さまは、こんなにも私たちのことを気に留め、見守っていてくださるのです。ここに神さまの大きな愛を見ることができます。神さまは、完全にあなたを守ってくださるお方です。
でもある人は、「神さまって見えないでしょ。どこにいるの。誰かを助けているなら、同時に私を助けることはできないでしょう」と疑問を持つかもしれません。ごもっともです。しかし、イエスさまはそのことについての答えを、この十字架にかかる前に弟子たちに語られました。
『しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。』(ヨハネの福音書一六章七節)
イエスさまは、二〇〇〇年前にこの世に来られ、三十三年生き、十字架にかかって死なれて、三日目によみがえり、同時に五〇〇人以上の人々に姿を現しました。その後、弟子たちが見ている前で、天に昇天されていきました。それで終わりなら、「あの人、大したことなかったな」となってしまうのですが、イエスさまは、「わたしが天に帰った後、代わりにあなたがたを助ける聖霊を送ってあげるよ」と約束してくださっているのです。聖霊は霊なので、二四時間三六五日、どんなところにも、どんなときにも皆さんお一人おひとりの傍らに同時にいることができ、守っていてくださるということなのです。
続いて五~七節をお読みします。
『【主】は、あなたを守る方。【主】は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。【主】は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。』
ここに出てくる「あなたの右の手をおおう陰」は、様々な外敵から守るということを意味しています。聖書における「右の手」とは、私たちの全身全霊のことであり、ここで言われているのは、主がすべてを覆ってくださるということを意味しています。そして、『昼も、日が、あなたを打つことがなく』というのは、病であったり、事故であったり、また、焼けるような照りつく太陽からもあなたを守りますよ、ということを意味してます。
そして、『月が、あなたを打つことはない』は、先ほどお話ししたように、盗賊などからもあなたを守りますよということです。ちょうどこれは、主が昼は雲の柱、夜は火の柱によってイスラエルを守られたように、昼も夜も、どんなときにも、神さまの守りがある、ということです。
最後に八節をお読みします。
『【主】は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。』
「行くにも帰るにも」とは、どこに行き、どこに帰るかおわかりですか。八節を口語訳聖書で読むと、『主は今からとこしえに至るまで、あなたの出る(でる)と入る(いる)とを守られるであろう』と訳されています。ちょっと訳が違います。
調べてみると、これは旧約聖書中で重要なターニングポイントとなっている、イスラエル人が四三〇年の奴隷生活から解放された、エジプト脱出という一大プロジェクトに繋がっているということがわかります。
『この夜、【主】は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、【主】のために寝ずの番をするのである。』(出エジプト記一二章四二節)
「寝ずの番をする」ということは、徹夜でということです。聖書中で、徹夜で主が守ったと書いてあるのは、この箇所だけです。
日本で考えて、四三〇年前がどの時代か知っていますか。安土桃山時代です。その時代から現代までと考えると、途方もない期間です。そんな長い間、イスラエル人は奴隷として生活し、苦しみんで、「神さま助けてください。もうこれ以上耐えられません」と叫び声を上げたと思います。それに対して、主がモーセを遣わしてエジプトから連れ出されたのです。
注解書を見ると、この、「出る」と「入る」は、この出エジプト記に書かれている、イスラエルの民が神さまのご計画で、奴隷の地、エジプトから「出て」、そして約束の地に「入る」ということを表しているとありました。なるほど、と思いました。
うちの息子の名前は、「出」と言います。明先生が、モーセのようになるようにと言って「出(いづる)」と付けてくださいました。その息子が結婚して最初に生まれた(私の孫ですね)子に、息子は、「入(いり)」と名を付けました。二人合わせると、「出」る、と「入」る、になります。このような意味を考えて付けたのかと思います。
ちょっと話が逸れてしまいましたが、イスラエルの民は、四三〇年間、本当に苦しみに苦しみましたが、神さまのご計画の中で、多くの奇跡を体験して、主が寝ずの番をしていただいて出エジプトしたのです。
皆さん、出エジプトした人が何人いたかわかる方いますか。はっきりと何人とは書かれていませんが、壮年の男子だけで六十万人となっています。この当時は、女性や子ども、外国人も数に入っていなかったようなので、全員を合わせたら、二〇〇万人以上の人がエジプトを脱出したということになります。
エジプトの四三〇年間の奴隷生活から連れ出され後、イスラエルの民は、約束の地カナンに入るまでに四十年間、荒野でさまよいます。本来、カナンの地までは、順調に直線距離で行けば、二~三週間ほどで行けたようです。しかし彼らは、四十年間さまよったのです。何が起きたのでしょう。彼らは大きな奇蹟を目の当たりにしながらも、「肉が食べたい」「パンが食べたい」といろいろなものを欲しがり、何度も愚痴を言ったのです。しかし、そんな主への信頼を忘れたような民に対しても、神さまはその要求に応えられました。それなのに、彼らは金の子牛を作り、偶像礼拝をして主を裏切りました。出エジプトした二〇〇万人以上の人たちの中で、約束の地カナンに入ることができたのは、ヨシュアとカレブのたった二人だけでした(四十年間に荒野で生まれて育った人はもちろんたくさんいて、その人たちは入っていけたのですが…)。『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きくその道は広い』とみことばにありますが、まさに狭き門でした。
エジプトでの生活は、私たちが救われる前の、罪だらけの生活、罪の奴隷となっていた様子を表します。そして、そこから出るということは、罪の世界、滅びに至る世界から解放されて、恵みの世界に贖い出されるということです。荒野はこの世の信仰生活、そして約束の地カナンは、永遠のいのちをいただいて神さまの御国に入っていくということを意味し、これは私たちの人生の縮図であるとも言われています。
皆さんが今こうして救われて、天国行きの切符を持っていますが、「以前は私も切符を持っていました」と言っても、何の意味もありません。この地上の人生を終えるとき、信仰を全うし、「イエスさま感謝します」と、イエスさまを歓迎できるかどうか、それが大切なことです。
最後に少しまとめたいと思います。
「困ったときの神頼み」という言葉を皆さんもご存じだと思います。困ったときだけ神さまに頼るなんて間違っている、と考える人もおられるかもしれませんが、そんなことはありません。皆さんが助けを求めるとき、人にはできないと思ったらどうしますか? 私たちの信じる神さまは、あなたの過去も現在も未来もあなたを誰よりもよく知っていて、愛してくださって、あなたのそばにいて、いざというときに、あなたに応えてくださる方。あなたよりも知恵や知識があり、力がある偉大な方、絶対者です。そんな神さまにどんなときにも頼っていいのです。主は、どんなときにもあなたを守り、あなたを助けることができる方です。
詩篇一二一篇全体で、「守る」という言葉は六回ほど出てきます。
「守る」という言葉から、一つの詩を思い出しました。皆さんもご存じだと思いますが、「足跡」という詩です。少しまとめたので、お聞きください(ネットで全文を見ることができますので、気になる方は検索してみてください)。
“ある夜、私は夢を見た。私は主とともに渚を歩いていた。一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。人生の最後の光景が映し出されたとき、私の足跡一つしかなかった。私が人生でいちばんつらく悲しいときだったので、私は主に、「なぜ一人分の足跡しかないのですか。なぜ私を見捨てたのですか」と訴えた。主はささやかれた。「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。苦しみや試みのときに足跡が一つだったのは、私があなたを背負っていたからだ”
私たちは救われ、恵みの中、祝福の中にありますが、時に、どうするもできないような問題や悲しみ、苦しみにぶち当たることあります。救われたときに、イエスさまと共に歩んでいきますと祈り、信仰生活を始めはしたものの、途中で疲れてしまった、困難でもう前に進むことができない、動けないというとき、イエスさまに祈ります。そのときイエスさまはどうされますか。
この詩では、「私がいちばん辛く悲しいとき、私の足跡一つしかなかったじゃないですか。あなたは何をしていたのですか」と言ったこの人に、「主はあなたを背負っていたからだよ。その一つの足跡は、わたしの足跡なんだよ」とおっしゃるのです。私たちが弱さを感じることは度々ありますが、主はいつも共にいて、私たちが動けないときには私たちを背負ってくださる。そんな神さまの愛。人知をはるかに超えた愛を表してくださるイエスさまは、あなたの叫びに応えることのできる方であるということです。