主の使命に生きる2025

皆さんは、主の使命に生きている人と言ったとき、誰が一番に思い浮かぶでしょうか。身近にそういう人がいたら素晴らしいです。しかしここでも、その模範の一番はイエス様ご自身です。イエス・キリストは十字架にかかる使命を負って、この地に来てくださった神の御子です。その点を少し見ていきたいのですが、ヨハネの福音書一二章一四節から一五節に、イエス様が最後にエルサレムに入城した場面が描かれています。入場のときにイエス様はろばの子に乗りました。

「イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれている通りである。『恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』」

この一五節の預言も、今日学んでいるイザヤ書からの引用です。預言の通りイエス様は最後にろばに乗ってエルサレムに入城しました。

最近はモンゴルミッションの証しのなかでも、動物の話題が多く出てきています。今回はラクダの背に乗ったことが、東方の博士たちが来た描写と重なるということで、写真なども紹介されていました。去年は馬に乗って大草原を駆けた話を聞きました。人間の歴史のなかで何千年、もしかしたら何万年もの間、馬は戦いの道具として用いられてきました。馬は背も高く、機動力や頭も良く、戦いにはもってこいの動物です。また、身分の高い人は馬に乗りました。しかし、イエス様は馬ではなく、子ろばに乗られました。馬と比べ非常に小さい子ロバに、大の大人がまたがると間抜けな状況ですらあります。なぜろばが選ばれたのでしょうか。第一に解説されるのは、「馬は戦いの象徴」であったため馬には乗られなかったということです。どういうことでしょうか。イエス様は人々から、当時のローマの支配から武力開放してくれる政治的・軍事的メシアとして期待されていました。しかし、ご存知のように神の計画においては、イエス様はそのようなかたちでの解放者ではありませんでした。むしろ、当時最も残酷な処刑法であった十字架にかかり、それにより全人類の罪の清算と悪魔の死の力に勝利するという、人間には到底理解できないような計画でした。そのような使命を帯びていた方だったから、柔和でへりくだったろばに乗る姿でエルサレムに入場されました。
皆さんは、ろばについて詳しくご存知ですか。特にろばの背中について詳しい方はいらっしゃいますか。見たことありますか。続きを読む前に「ろば 背中」とキーワードを打って検索してみてください。非常に面白いです。
 実は、ろばの背中には十字の模様があります。これはほとんどの種類で共通です。小さいものから大きいものまで。聖書について私も二〇数年は学んできていますし、色々な話を聞いていますが、あまり聞いたことがない話でした。ろばは背中に十字を背負っている唯一の動物です。そのろばに乗ってイエス様は入城されました。主の計画の奥深さを初めて知ったとき、私は鳥肌が立ちました。
きっと何千年も何万年も前に父なる神がこの地上を創造し、動物を作ったときから、ろばにだけ十字の模様があった。その後にイエス・キリストがそのろばの背に乗って、十字架にかかるために入城したということです。とてつもない壮大な伏線回収です。主の計画の偉大さに圧倒されます。ある人はイエス・キリストが乗ったときから十字が刻まれたと言う人もいますが、いずれであったとしても主権者、創造主にしか叶わぬ出来事です。

その御子イエス・キリストは十字架にかかるため、人類最大の使命を果たすため、エルサレムに入城されました。そしてろばも自分の使命を果たし、イエス様を背中に乗せたのです。

ろばにも使命があるわけですから、私たち一人ひとりにも主が用意されたご計画、主があなたに果たしてほしいと思っている使命が必ずあります。我が家の第四子と同様に、幼子、乳飲み子にも主の使命があり、主の働きの場にそれぞれ立たされているのだと思います。幼い子どもにそれがあるとしたら、当然、既にお年を召した方にも、昔とは違う形かもしれませんが、使命があります。主がこの地上に命を与えてくださっているとすれば、子どもからお年を召した方まで、必ずお一人お一人に違わず、それぞれにしか果たし得ない主の使命があります。ぜひ、今日主の前に出て、周りの人はどうでも良いので、また周りの世界の環境は構いませんから、テレビが何を言っているかは構いませんから、主があなたに何を語っているかを、静まって受け取っていただきたいと思います。

今回このみ言葉に向き合い、思いを巡らすなかで、八月の様々な働きにも参加させていただきました。既に多くの場面で証しされている通りですが、八月十一日にはコンサートが行われました。上條頌さん率いるクワイヤーと、東京で活躍するプロミュージシャンの方々による素晴らしいコンサートでした。彼らのほとんどがクリスチャンであり、主のための音楽そのものでした。新城教会のこの会堂が超満員となりました。その会堂の姿、演者も会衆も含めて、主の働きが、それぞれが負っている使命の故になされている姿を見て、私自身も、もう一度気持ちを新たにさせていただきました。
上條頌さんは、繰り返し「主への恩返し」という点を語っていました。その一点でこのクワイヤーの働きをしているのだと。コンサートの数日前からクワイヤーの合宿があり、食事の提供や泊まる手配などをさせていただき教会でお迎えましたが、その中でも、クワイヤーの一人ひとりが真剣にそれぞれの働きを精一杯されていました。言葉だけではなく、心から主のためにやっている姿を見させていただきました。
彼らのような音楽の領域での働きは、実際に社会に対する影響も大きいですが、主のはかりかたは、当然それだけではなく、その人の思いがどこにあるか、どのような思いでやっているかをご覧になっています。私たちも、それぞれの使命やそこに向けるそれぞれの思いを、世の中の秤ではかるのではなく、ただ主を見上げて精一杯やるべきことをやっていきたいと思います。

以前のメッセージでも触れさせていただいたことがありますが、ヘブンズアイスクリームアンドコーヒーが会堂の隣に移転することをきっかけに、朏姉妹にもう一度その働きを担っていただきました。私も数年の間、結果的に彼女が天に召されるまでの間、ともに働かせていただきました。彼女が言っていた一番印象的な言葉は、「こんなに幸せでいいのかしら」でした。新しい店で、一番自分が使命を持っている領域での働きをまたさせていただける。そんな思いを言葉にされていました。
私たちもこの思いを決して忘れてはいけないと思います。それぞれに立たされているところ、立たされているポジションや役割に対して感謝を忘れてはいけません。

また、八月には次世代キャンプが韓国持たれました。参加者の感想でよく話されていたことは、「賛美が良かった」ということでした。賑やかな賛美で飛び跳ねて楽しかったということです。確かにこの教会の子どもたちもあのような場に立てば、自然と心が躍り体も踊ると思います。それはもちろん素晴らしいことです。しかし、それぞれ地上の現れがどうであれ、体が踊っていてもいなくても、心が躍っていることの方が重要だと思います。心が躍るということは、どのような状況であっても、主とともにいるだけで、そうなっているべきなのです。クリスチャンはこの賛美だから踊るとか、外国だから踊るとか、韓国だからアメリカだから楽しいということではないのです。
どこであろうが、飛び跳ねるような心が内から湧いているものが本当の賛美ですし、どのような賛美でも、自分の心から湧き出すものがあれば、それが賛美です。飛びたいなら自分が初めに飛べば良いと思います。誰一人周りが飛んでいなくても、この教会で飛べない理由は一つもありません。人間の心はそのように、所詮環境に左右されるものであり、主が本当に見て喜ばれるのは、私たちの心の内にあるものなので、体とか実際に現れがどうかということ以上に、自分たちの心が主に対して、主の働きに対して踊っているかどうかということがより大事です。主は見ておられますし、結局周りもどこかそれを感じる部分があると思います。
ですから若い人たち、賛美の中で飛びたいときは、飛び始めてください。君たちが飛び始めれば、教会全体が飛ぶかもしれません。他の人と合わせなくても、自分たちが飛べば良いのです。私たちは主の前では、他の人のことを気にする必要はありません。周りがどうかではなく、自分がどうしたいかを考えて、自分の心が躍っているかどうかを考えて、主の前に出たいと思います。日本人はそれが一番苦手なものかもしれません。私も苦手です。私が踊り出したら大したことです。私は微動だにせず踊りません。しかし、心は誰よりも踊っているといつもはっきり言っています。心は誰よりもハレルヤです。本当に心がそうであれば、そのように生きたら良いと思います。他の人がどうだとか、他の人からどう見えるかは関係ありません。逆にそんなことばかりを自分に対して、あるいは他者に対して、考えている人がいたとしたら、それはもしかしたら神の国から一番遠いような状況かもしれません。賛美においても私たちはそれぞれが使命を帯びて向き合っていきたいものです。

今、この教会で、新しい賛美が歌われるようになってきました。実は、私にも新しい賛美がこれまでのところ三曲与えられて、礼拝の中で歌われています。「主とともに戦い抜く」、「道のり」、「主の使命」です。最初に先の二曲が与えられました。

「主とともに戦い抜く」の「動き出して、走り出して」というサビが「降って」きました。車の運転をしているときに、急にメロディーと歌詞とセットで降ってきました。その後、自分で試行錯誤しながら練り上げていく部分もありますが、結局、やはり与えられるもの、作ってはいますが、結局与えらるものという感覚です。「道のり」もその延長で、もっと与えられたらいいと思って、ギターを弾いていたら、メロディー・歌詞が出てきて、あっという間に組み上がりました。歌詞に関しては、私が五、六年間共通してお話しさせていただいている戦いの世界観から、ダビデがゴリアテに向かっていく戦場のシーンを思い浮かべながら、与えられた部分が大きいです。「主とともに戦い抜く」の「動き出して、走り出して」などはまさにそうです。また、一人称が「僕」というのも、若いダビデに対してのイメージがあったためです。
「道のり」に関しては、四月、五月ごろだったと思いますが、「フットプリント・足跡」という有名な詩がよく紹介されていた時期でした。人生の中で一番苦しい時期に、足跡がひとつしかなく、何故自分を見捨てたのかと主に詰め寄ったところ、それは自分の足跡ではなく、神様が自分を背負って歩いていた足跡だったというのです。その詩に思いを巡らす中でも与えられた歌詞です。私たちはいつも順風満帆で力にみなぎって戦いに挑むわけではなく、傷つき、色々な問題を抱え苦しみながら、一歩一歩とぼとぼと歩みを進めるときもある。でもそれも前進であって立派な戦いです。
そういうときには必ずイエス様ご自身が私たちを背負ってくださっています。そのような戦いの描写も必要なものではないかと思います。そして、み言葉は私たちの足のともしびとあるように、何百メートル先も神様は照らしてくださる訳ではありません。一歩一歩、わずかな先だけ照らし、私たちは戸惑い、不確かな中でもみ言葉に立って、主に信頼して進んでいかなければなりません。進む限りにおいては、歩いたって良いし、走れる人は走れば良いと思います。力の限り精一杯、それぞれがそれぞれの使命に進んでいきたいものです。
この二つの歌が与えられて、両方できた晩に聖書を読んでいたら、第二テモテ四章七節のみ言葉に当たりました。「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」 今ご紹介した二曲、両方ともの内容を含む短いみ言葉でびっくりしました。「勇敢に戦い抜く」という表現。このみ言葉から取ったわけではありませんが、口から溢れていました。そして「走るべき道のりを走り、信仰を守り通した」という部分。「道のり」の内容に類似するようなみ言葉です。曲が完成してから、このみ言葉にあたって私個人としては本当にびっくりしました。大きな主の働きだと感じました。「道のり」というタイトルは、このみ言葉から取りました。
そして今日のみ言葉「草はしおれ、花は散る、しかし私たちの神の言葉は永遠に立つ」。「主の使命」という曲、一ヶ月ほど前に完成していましたが、一週間前にご紹介させていただきました。その歌詞の中で、「たつ」と伸ばす部分があります。皆さんも印象に残っているのではないかと思います。「我らはここに立つ」、「悪魔の鎖を断つ」、「敵に勝つ」をはさみ、最後に「神の国が建つ」の「たつ」です。「神の言葉は立つ」という歌詞は与えられていませんでしたが、不思議に「たつ」というキーワードが強調された曲が、このみ言葉に当たる前に与えられ、完成してからこのみ言葉に当たりました。本当に不思議です。
このようなお話も、自己満足や私が与えられた曲という意味で話すのではなく、主ご自身が進めている大きな働きだと感じますので、共有させていただきました。二〇二五年は神が働きを加速される年と掲げられています。まさに様々なことが主の計画の中で、加速的に進んでいると思わされています。