2025年7月27日(日)SIRネットワーク代表 瀧元望
ダニエル書 10章19節
“その方は言った。「特別に愛されている人よ、恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」その方が私にそう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ、お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」”
お祈りします。
天のお父様。今日こうしてあなたがこの所に私達を集めてくださって、そしてあなたを礼拝し、あなたの御顔を慕い求め、あなたの声を聞くときを与えてくださったことを感謝いたします。今日、私もこの場所でメッセージを語りますが、私が語る以上に聖霊ご自身がひとりひとりに語ってください。私にも語り、ここにいらっしゃる方々、インターネットで見てらっしゃる方々、後にこのメッセージを聞く方々ひとりひとりに主が、聖霊ご自身がお語りくださるときとなりますように。そしてあなたの心を私達に知らせ、あなたの声を聞かせ、あなたご自身が願っていらっしゃることをしっかりと聞き分け、また見分けることができるように導きを与えてください。
このひと時を主に委ねます。主ご自身がこの場を支配し、あなたご自身の栄光が現れるときとなりますように。またそれぞれの場所を主が聖別し、主イエス・キリストの御名の権威の中に置き、そしてあなたの主権と支配が現れる場所としてくださいますように。このときを主に委ね、イエス・キリストの御名を通して、この祈りと願いを御前にお捧げいたします。アーメン。
おはようございます。一年ぶりぐらいだと思いますけど、こうしてここに立つことができて本当に感謝します。私がここに立つときは私が勝手に話したいことがあるのでよろしくお願いしますと教会にお願いします。与えられたメッセージがあるので、ここに立つことができています。
最初に、六月の終わりから七月の初めにかけて、モンゴルに行ったんですけど、モンゴルでのとりなしに関して、少し皆さんにお話をしたいと思います。
その前に、今日はなんとモンゴルからお客様が来ています。去年の六月のモンゴル・リバイバルミッションのときに、通訳の奉仕をしてくださった姉妹が、実は名古屋大学の博士課程にいらっしゃって、論文を書くためにこの四ヶ月、日本に来たっていうことで順先生のところに連絡が入り来て下さいました。神さまのタイミングだなと思いました。オヤンガさん、こちらに来てご挨拶をお願いします。拍手で皆さんおむかえください。
おはようございます。オヤンガと申します。この素晴らしい朝を主に感謝します。
私は、今、名古屋大学で論文を書いているところです。去年の六月に新城教会からモンゴルに来てくださった兄弟姉妹と会うことができて、そこでの集会を通して神さまの祝福をたくさん受けました。そのとき順先生のメッセージの中で、新城教会の開拓の話も聞かせていただいたんですけれども、本当に神さまがこの新城で今までなさってくださった御業に本当に感謝しています。去年、そのメッセージを聞いたときから、もし日本に行ったら新城教会に行ってみたいと思ってたんです。今日この日ここに来られたことに本当に感謝しています。ありがとうございました。よろしくお願いします。
はい、どうもありがとうございました。素晴らしい日本語ですよね。前回は三次元通訳になるはずだったんですけど、直前に姉妹と連絡が取れて、完璧な通訳を日本語からモンゴル語、モンゴル語から日本語っていう形でしてくださるようになったんです。神さまが姉妹を遣わしてくださいました。また今、論文を書いておられるので良い論文が書けて、博士号も取れるように、皆さん、お祈りください。
働いておられるのは法律関係ですね。モンゴルの次の世代を担うクリスチャンです。
今回私がモンゴルに行かせていただいた主目的は、ノモンハン事件、向こうではハルハ河戦役と呼ぶんですが、その問題をとりなし祈るために、私は行かせていただきました。
一九三九年の五月から九月、約一二八日の間モンゴルと、当時は日本が占領してた満州国との国境の紛争です。日本はハルハ川という川まで俺たちの領土だと言ったんですが、モンゴルはもっと向こうだよっていうことで、そしてモンゴルの後ろにはソビエトがついていて、主にソビエトと日本との間に戦いが起きました。
なんとその場所でソビエト軍が約一万人、日本軍が約一万人、モンゴル軍は約三百人の人たちが亡くなりました。これは太平洋戦争の二年前のことです。実はソビエトとの戦いは非常に大きな問題をはらんでいたんです。この戦いがある意味では最後にしっぺ返しを食うわけです。太平洋戦争の末期に、日ソ不可侵条約をいきなり破って、ソビエトは満州や中国に入ってきて、多くの人々はシベリア抑留に連れて行かれます。六十万人連れて行かれました。
モンゴルにも約一万二千人が連れて行かれて、モンゴルの博物館だとか国会議事堂なども捕虜の人たち収容された人たちが建てたと言われています。ある意味において、この戦いがなければもしかすると、不可侵条約を破ってソビエトが来る理由はなかったんだと思うんです。この出来事は布石にあたるわけです。戦争っていうのはいろんな理由があることを覚えながらとりなし祈る必要があると思います。
今回行ったところは、ウランバートルからこの地図で言う一番右端のハルハゴル郡っていうところ、ハルハゴルの村っていう、これモンゴル語で言うともっと難しい発音ですよね。ハッヘンゴル、という。ハ行は、フランスとよく似た感じで喉を鳴らすんですよ。だからモンゴル語って僕らにとってはちょっと耳になじまない言葉なんです。
ウランバートルから、最初にチョイバルサンっていう場所まで行きました。チョイバルサンっていうのは将軍の名前です。ここまでは七百キロ。ここは一部区間五十キロが舗装されてませんけど、それ以外は舗装されててそこに行きました。
今回行ったのは、ムンフ先生御夫妻と私と妻と一緒に行きました。ムンフ先生はすごい車持ってるんですよ。この車、ランドクルーザーの300系、日本でもなかなか買えないですよこれ。僕も欲しいなと思うんですけどこれ絶対手が出ないです。
先生は、女性の社長の方が乗っていたものを安く購入したそうです。なぜこれ購入してるかっていうと、ムンフ先生は、モンゴル中を走り回って二十いくつかの教会を牧会してるんです。ですから必要と意味があるんです。
こういう道を通っていきまして、こんな感じ記念撮影なんかしてますけど。これ高速道路みたいなもんです。でも、しょっちゅう馬や牛や羊が横切るんです。とてつもないです、一番危ないのは牛で動かない、「モー!」みたいな感じでずっといるんです。
そこで先生は、最高時速一六〇キロで飛ばしました。もう僕は助手席に乗っていて凍り付くっていう感じでした。
途中はいくつかの教会、彼が牧会している教会にも立ち寄りました。
ここは、四時間ぐらいウランバートルから行ったところの教会のリーダーの方のゲルに行って美味しい朝食を食べました。美味しかったな。前の日に羊を潰して僕らのために用意してくれて、これがその一家です。
そしてドルノド県の中心のチョイバルサンの町に着いて、そこで泊まりました。そこからまた、ノモンハン事件があった場所に行くには三四〇キロ走るんです。ここからはいち応、地図があって地図では線が引いてあって、これ道路だなと思うんですが、でも道路なんてないんです。

これが道路ですね。勝手に車が通って、勝手に作った道路です。これでもまだいいんです。これ電信棒があるでしょ。先生が道を聞いて、まずはどこそこのコンクリートの大橋を越えたら、そこから左折しろ、そして左折したら電信棒が見えてくる。この電信柱に沿って八〇キロ行けって言うんです。これ電信柱があるところです。こんな感じです。この送電線の先には中国が作っているプラントがあって、送電線のところにナンバーがついてるから、九〇番から今度は左折して、そこからは道がない。わだちの道を八〇キロ走れ、て言うんです。八〇キロ。これどういうことかわかりますか。
道なんてないです。また、勝手にみんなで作った道。もうガタガタガタガタ道です。前日雨が降っててとんでもなかったです。こうやってチョイバルサンからハルハゴル、なんと、奇跡的に迷いませんでした。すごかった。主でしたね。

着
いたところがこれハルハゴルの村の入口です。
これは中国との国境の町で、国境を守る基地がありまして、そこに兵士たちが大体二千人ぐらい村に住んでるっていうことを言っていました。

この丘の上に立つと、このハルハゴルか らノモンハン事件が起きた辺りを見渡すことができるんです。建っている塔は、ロシアが作った俺たちが勝ったぞっていう戦勝記念碑です。

ハルハゴルに入ってすぐに博物館に行きました。中に入っていくと、かつての国境のこういう石が飾られていて、これ私ロシアのサハリンに行ったときにもサハリンの北緯五〇度の国境線のところにあった石がありました。これ全く同じものが置いてありました。そしてここには満州国っていう名前も書いてありました。

博物館の前には日本の慰霊碑があって、ここに慰霊団が来ると、この場所で慰霊祭が行われるっていう場所です。そこでもとりなし祈りました。
普通、ノモンハンにはなかなか行けないんです。国境地帯で、ムンフ先生も言うんです。俺達行けるかどうかわかんないと。軍隊がいるから軍隊の許可が必要だって言うんです。彼と一緒に軍隊の基地に行ったんです。
そして車を止めたら、適当なところに止めたんです。ここに止めたらまずいんじゃないかなと思ったら、兵士が来てもっと向こうへ停めろとか言われて、これ感じ悪いな思いました。
僕らは、パスポートを用意して全部調べられるから、危ないものを全部外して、行ったら、白鳳関みたいな兵士が出てきたんです。中村獅童みたいな顔して出てきて、尋問してんです。僕も横にこいと言われて。帽子かぶっていたんですが、帽子をとってハゲを見せて、そしたら、ムンフ先生が僕を指さして盛んに何か話していました。そしたら、軽くOK出たんです。パスポートはいらない。「お前が、来週来る天皇のお兄さんだって言った」って言うんですよ。
適当なこと言ったんです。僕はとりなしの中で嘘は絶対つかないので、それはまずいと思い、みんなで祈りました。「私達はイエス・キリストにあって、天皇の上にも遣わされた者として、イエスさまにあって、私達はここに入っていきます」って祈って、入って行ったんです。嘘も方便ってよくないと私は思っています。
緊張しました。軍隊がいる場所に入っていったんです。軍隊が見張りをしているところを通って、そして、ハルハ川はちゃんとした大きな橋が渡ってあるんですけど、これはかつてホルステン川と呼ばれたん川です。小さな川を渡って行きました。
これがノモンハンの激戦地です。もうここになると道もないわけです。そこをずっと行くとこの辺り激戦地である意味で国境地帯なので全く手がついていない場所。私も太平洋戦争の激戦地には合計二〇・三〇箇所行ってますけど、恐らく最も手つかずの場所じゃないかなって思わされました。地雷とかそういうものが幸いに埋められてないので、こうやって入っていくことができるんです。
そこにモンゴルが、かつての激戦地を戦場博物館として展示をしてました。モンゴルのある兵士の慰霊碑もあったり、記念碑ですね追悼碑があったり、かつてのソ連軍の戦車があったりね。ちょっとフェイクな感じもしました。零戦だとか言ってあるんですけど、全然ゼロじゃないです。調べていくとロシアって書いてあって、でも零戦日の丸とか書いてあるし、ちょっとフェイクだなと思いながら戦争博物館ですからやっぱりフェイクに作るわけです。

そこで私達は神さまの前にとりなし祈りました。この地が癒されるようにっていうことです。これ僕、写真撮ってくれと頼まなかったんですけど、先生が勝手に撮ったんです。僕ら普通は大体自分たちがやってることを写真に残さないんですが、今回は撮ってくださいました。

そして、最後に行ったのがロシアが作った戦勝記念碑です。そこに行ってとりなし祈って、ホテルで泊まりました。実はホテルなんかないっていう情報だったんでテントで泊まるかもっていうことで寝袋持ってったんです。マットや蚊帳も持ってったんですけど、幸いなことに、ホテルがあってそこに泊まることができて、次の日、またウランバートルに二日かけて帰るわけです。こうやって、まずハルハゴルからチョイバルサンを目指したんです。