主とともに戦い抜く

「筋肉が物質を分泌して他の臓器にメッセージを出している」らしいです。一般的に、腎臓や肝臓などは大切な臓器というイメージがあると思いますが、それに比べて筋肉など二の次三の次、「見た目」を気にする人以外、意識もしていないのではないでしょうか。しかし、このような事実がわかってきて、言い換えれば筋肉も臓器そのものだという、再評価があるということなのです。 からだ全体にとって重要な役割を果たしています。

ですから、もし健康を願う、自分の健康が心配で憂いているような人がいたら、何をするべきか?運動をしたらいいんです。しっかり筋肉を使うことで、マイオカインが分泌され大変多くの恩恵があります。それは創造主が私達のからだに備えてくれた機能です。
マイオカインにも正と負があるようです。からだの機能を使わなければ、負の結果がついてきます。自分が選んだ行動によって、報いがあるというのは、福音の領域においても例外ではありません。もちろんそれを超越した恵みや主の主権があります。しかし、クリスチャンがやるべきことは大いにあると思います。

聖書に戻ります。聖書には、「強くあれ」、「雄々しくあれ」というメッセージが繰り返し述べられているのは皆さんもご存知かと思います。

代表的なものとして申命記の三一章六節を引用させていただきます、

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

聖書が私達に託している使命は強くあれということです。そして雄々しくあれと。これが信仰者に求められる戦いの姿勢です。弱くあれ「女々しくあれ」とは書かれていません。私達は、弱くてその弱さにとどまることが求められているのではありません。
ここで気をつけなければならないのは、強さの裏打ちとして主ご自身の存在があるということです。これを間違えてはいけません。私達の神、主ご自身が私達とともに進まれ、見放されることはない、それゆえに私達は強くあることができます。人間的な強さや経済力などの地上的な盤石さなどからくる強さは、それが揺るがされたときに全てひっくり返ってしまいます。
聖書が示す強さは、いわゆる逆転的な強さです。私は以前からよく引用していますが、ダビデは末子でした。その一番末っ子のダビデを用いて、主はゴリアテを打ちました。また自身の氏族の中で最も弱い存在であるギデオンを用いて、三〇〇人という寡兵で、敵の大軍を討ちました。
新約聖書にいたって、イエスさまは、その当時社会的に弱い立場であった人々に優先的に目を留められました。羊飼いや子ども、女性、物の数にも入れられない存在、そして病人、盲目の人など、儀式的に汚れている、罪深い存在と考えられた人たち。そのような人々に福音が語られ、癒やしがなされました。

弱さの中にありながら、主の恵みによる強さを受け取る、ゆえに強くある。これがあるべき姿ではないでしょう?
以前の礼拝メッセージにおいて、「必ず追いつくことができる」というテーマでお話をさせていただきました。少しだけ振り返ります。

ダビデが戦いから自分の町に帰ってくると、町が焼かれ、残してきた女子ども、その他全てが奪われていました。そのような場面に際してダビデはどうしたでしょうか。
第一サムエル記三〇章七節から八節、

アヒメレクの子、祭司エブヤタルに言った。エポデを持ってきなさい。エブヤタルはダビデのところに持ってきた。ダビデは主に伺った。略奪隊を追うべきでしょうか、追いつけるでしょうか? するとお答えになった。「必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

ダビデは途方もない絶望的な状況の中で、エポデをまとい、正式な形で主の前に出ました。そして主は力強い約束の言葉を与えてくれました。それゆえにダビデは奮い立ち、略奪隊を追い、追いつき、すべてを取り戻しました。

私達の信仰生活も、順風満帆な場面の方が少ないのかもしれません。主題のみことばにもあったように兵士として苦しみをともに分かち合う、それがクリスチャンです。分かち合うというのは、クリスチャン一人一人がお互いに分かち合うという側面もありますし、主ご自身と、主の働きの苦しみを分かち合うという側面もあります。
私達が苦しいと感じるときにこそ、信仰が試されます。他の先生方も引用されていますが、「あしあと」という詩があります。人生を振り返ったとき、他の場面では主とともに歩いた二つの足跡があったのに、人生の一番苦しいときに足跡は一つだけだった。なぜ主は私を見捨てられたのかという問いに、主がこう答えられました。「一番苦しいときには私がお前を背負って歩いた。だから足跡が一つなんだ」と。
私達は、苦しみのときには何も考えられない。なぜ私だけこんな苦しい思いをするのかと思います。しかし、そのような時にも主は必ずともにおられ、私達を助けてくださっています。
私達は何か超自然的なこと、目に見える信仰の結果を求めます。それが素晴らしい主の働き、主のみ業だと評価しがちです。しかしそうではありません。何もない日常、もしかしたら苦しみが多いような日常かもしれない、その只中に主がおられます。自分では一人で頑張っているつもりかもしれません。私達が気が付かなくても、そのように受け取れなくても、主はいつも私達を助けてくださっています。先ほどの詩の作者も、足跡がひとつだったことで、主に問い詰めているということは、実際には自分を背負ってくれていたその主の助けを認識すらしていなかったということです。
私達が地上で生かされている中に、当たり前のことはありません。そのような当たり前と思っている中にある恵みこそが、実は一番大きな恵みであると考える必要があります。

そしてもう一つ大きなポイントを、この略奪隊を追うストーリーから学びました。彼らが略奪隊を追う途中、二〇〇名が離脱しました。そこから先は、残りの者で略奪隊を追い、結果勝利を得ました。その帰路、彼らは途中で離脱した者たちと合流しました。ダビデが彼らを気遣う一方、実際に戦ってきた者の一部が、離脱した二〇〇人に対し、お前らは戦っていないんだから分け前は無いと主張しました。それに対して主に導かれたダビデはこう言いました。
第一サムエル記三〇章の二三節二四節、

「兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」

これまで学んだように、私達は一人一人主に召された軍隊・兵士です。教会はその軍事基地です。教会に属するということは、部隊に属することだというお話もありました。
それぞれがこの新城教会という教会に集っている以上、同じ使命を帯びて戦っている軍隊の一人一人です。役割は違っても同じ戦いをしている者であって、戦いの結果の分け前も同じです。「荷物番しかしていないお前たちは別だ」というのは非常に地上的な考え方です。初めから戦うのが嫌だ、怖いから行きたくないと使命を放棄していたのであれば、また話は別かもしれません。しかし、途中でとどまって荷物番をした二〇〇人も、同じ作戦遂行のために出陣した戦う意思を持った者たちでした。いわば、戦う荷物番です。
皆さんの中で、自分には何も出来ないと感じられる方がいるかも知れません。歳をとった、体の状態が悪いという方もいらっしゃると思います。だからといって、戦いに参加していない、戦いにおいて役割を果たしていないということは全くありません。私達は同じ働き同じ戦いをしている者です。
実際に病床にある方々や、その他弱さを覚える方々、既にそのようにしてくださっていると思いますが、ぜひ「戦う荷物番」として主の戦いを戦ってみてください。必ずその方々の祈りによって教会は支えられ、敵を打ち破る力になります。実際に戦いに下る者という役割が確かにあるのかもしれません。しかし、皆さんの祈りが、その人たちを支える力になります。主がはたらかれます。教会に属する以上、同じ軍服を着る同じ部隊の者として、互いに敬意を払い、ともに戦いましょう。

最後にもう一度パウロの生涯に視点を戻します。
パウロは晩年、カイザリヤとローマで二年間ずつ幽閉されます。それはユダヤ人たちから訴えられたためです。イエスさまをキリスト「メシア」と信じない者たちからすると、クリスチャンが主張する福音は、神への冒涜以外何物でもありませんでした。だから彼らはパウロたちを訴え、殺そうとしました。
当時、ユダヤの地域はローマの支配下にありました。形ばかりの自治が認められユダヤの王もたてられていました。しかし同時に、ユダヤを監督するユダヤ総督という役職があり、実際にはローマが大きな支配力を持っていました。そのため法律的な処理はローマがすることになります。要はユダヤ人たちが、パウロたちの罪について、ローマに訴えを起こすという構図になります。これはイエスさまも同様でした。ユダヤの王であるヘロデ・アンティパスと、ユダヤ総督ポンテオ・ピラトの前に引き出されました。皇帝はティベリウスでした。パウロのときは、皇帝ネロ、ユダヤ王アグリッパ二世、ユダヤ総督は二代にわたり、フェリックスとフェストゥス。パウロはこれらの権力者と実際に相対しました。
特にパウロは、教会の時代の使徒として召され、復活の主を宣教する役割が与えられていました。そのため権力者の前でも、大胆に福音を伝える場面が印象的です。実際にフェストゥスおよびアグリッパとの問答の場面を見ていきます。
使徒の働き二六章の二四節から二九節。二四節には、

パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わしている。」

ローマ人であるフェストゥスにとって、イスラエルの神や歴史、信仰についての弁明は意味をなさない情報です。いくらパウロが、イスラエルの神のこと、自分の救いの経緯やイエス・キリストについて、その復活について、また世界大の宣教について熱弁しても、暖簾に腕押しです。
パウロはこのように言われてどのように答えたでしょうか、パウロはあくまでも礼節を守り、丁寧に、このように答えました。

パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしくはありません。わたしは、真実で理にかなったことばを話しています。」

たしかに福音はいついかなる時代においても普遍的な真理です。移ろう時代の価値観・それぞれの地上的背景に伴う価値観に揺るがされるものではありません。
パウロはフェストゥスを相手にしてもこのような反応であることは理解していました。彼はあくまでもユダヤの王アグリッパを対象として語っていたので、アグリッパに言葉をかけ直します。

「王様はこれらのことをよくご存じですので、その王様に対してわたしは率直に申し上げているのです。このことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも、王様がお気づきにならなかったことはない、と確信しています。」

アグリッパは形式上ユダヤ教徒であり、王である以上、その体を守らないといけません。また、実際にイエスさまのこと、その後ユダヤの地域で起こっている騒動について、一通りの情報はあったはずです。パウロは間髪入れずにアグリッパの個人的な領域に切り込んでこのように語りました。

「アグリッパ王よ、王様は預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」

これは核心を突いた質問で、イエスと答えれば、では当然イエスさまをキリストと認めますね、となってしまいますし、ノーと答えれば、ユダヤ教徒としてのアイデンティティを失い、自分の王としての立場も危うくなります。イエス・ノーどちらに答えても困る鋭い問いを切り込んだわけです。アグリッパの答えは、こうです。

「おまえは、わずかな時間でわたしを説き伏せて、キリスト者にしようとしている。」