クリスチャンの権利

「あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。」

パウロは、人のつまずきとなることは、キリストに対して罪を犯すことだと言います。そんなことになるくらいなら、私は肉を自由に食べる「権利」を捨てます、と宣言しているのです。

マルコの福音書9章42節にはこう書かれています。

「また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。」

もう時間が来ていますのでメッセージを締めくくりたいと思います。

今日のメッセージは、昨年末のカウントダウン聖会で、私が2025年に向けてお話ししたメッセージの続きでもあります。よろしければ、家に帰ってからホームページでそのメッセージを読み直して、今日お話ししたことと組み合わせ反芻していただけたらと思います。

「クリスチャンの権利」と題してお話ししました。肉を食べることは、昔から変わらず人間にとって大きな喜びです。キリスト教を信仰するようになったからと言って、肉を食べるのを諦めなければならないとすれば、何とも残念だし、何と不自由な宗教なのか、と怒りすら覚える方もおられるでしょう。

コリントの人たちもそのような思いを抱いていました。というのも、当時は今日のようにスーパーに行けば手頃に買えるような時代ではなかったのです。神殿で異教の神々にささげた肉の残りは貴重な肉の供給源でした。「偶像にささげた肉は食べてはならぬ」という教会の教えに縛られてはたまらない、と彼らは「知識」を駆使して、偶像にささげた肉を食べても問題はない、という「知識」言い換えるなら「理屈」を作りあげました。

それに対してパウロは、使徒としての権威を振るって「教会会議の決定だから黙って従いなさい」というように上から目線で頭ごなしに叱ることはしませんでした。あくまで彼らの言い分を聞いたうえで、「では、あなたが振る舞うことで、教会の徳が高まるのでしょうか。その振る舞いは愛に基づいているのでしょうか」と相手の立場を認め、尊重したうえで愛による知恵をもって問うたのです。

このような接し方には私たちも多くを学ぶことができるでしょう。そしてパウロは諭すだけでなく、愛に基づく行動とはどんなものなのかを身をもって示そうとしました。パウロは、自ら身を切る覚悟を示したのです。兄弟がつまずかないためなら、自分はもう肉を食べなくてもいい、自分の当然の権利、自由にできるはずのことを捨てる、と言い切りました。このようなパウロの生き方を見るとき、私たちは「キリスト者の自由と権利」とは一体何なのか、ということを考えさせられます。

私自身これまでの信仰生活で何度もこのテーマを考えさせられ、このような場所でお分かちさせていただいていると感じています。神の国の自由は、なんでも好きなことをする権利、という意味ではなく、むしろ、人の徳を高めるためには自分の権利を捨てる敢えて不自由さを選択することができるという自由でした。このパウロの生き方に倣うことは私たちにとっても大きなチャレンジです。

しかし、それは主イエスの生き方そのものでした。私たちも主イエス様に倣い、自分の自由でさえ、愛に基づいて神さまのため、人のために差し出すことができるものとなれたら幸いであると思います。

それに倣う生き方を願いながら歩んで参りたいと願います。

お祈りします。

愛する天の父なる神様。今日は私たちクリスチャンとしての生き方、与えられた自由と権利というテーマでお話しさせていただきました。あなたはご自身新しいぶどう酒となって 私たちにクリスチャンとしての生き方の模範を、自らの命をもって体現してくださいました。私たちもそのようなイエス様に倣いたいと願っていますけれども、コリントの人たちがそうであったように私たちも古い価値観に縛られ、自分の欲によって屁理屈を練ってしまうような弱いものであることを赦してください。あなたに純粋に真心をもって従っていくことができますように。「もう知っている」というような固定観念に縛られることなく、あなたを仰ぎつつ、新しい油注ぎを常に求めて歩むことができるように。この世に対して素晴らしいあなたの香りを放っていくことができるように、お一人お一人を祝福してください。

イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン