クリスチャンの権利

2025年4月20日(日)新城教会牧師 四元雅也

コリント人への手紙第一  8章9節

”ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。”

ハレルヤ!主のみ名をほめたたえます。また、復活祭おめでとうございます。

イエス様の復活をお祝いするこの日に、皆さんとこの場所に集まって一緒に礼拝を守り主を心からほめたたえることができることを感謝いたします。

この時期、新年度に入り新しい出発の時を迎えられた人もいらっしゃるかと思います。お互いに新しい環境でも主の導きを祝福、守りがあるようにお祈りしていきましょう。

最近新城教会の中で、新しい油注ぎが注がれるときが来ていると感じることが多くあります。2月ころから私の心に巡っているみことばがあります。それはルカの福音書5章37-39節

37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。

38 新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。

39 まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」

ここでイエス様はぶどう酒を引き合いに出してお話しされています。現代、ぶどう酒は木の樽になどに入れて寝かせて製造します。しかし、当時、イスラエルにおいては、ぶどう酒は動物の皮で作られた袋状のものに入れていました。

ぶどう酒の主成分は水、エタノールの他、様々の有機物によって複雑な化学変化を経て熟成されます。また新鮮なぶどう酒は発酵する時にガスを発生させます。それゆえ、そのガスによって入れ物である「皮袋」が広げられるのです。

もし愚かにも「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れ」ますと、その発酵によって「古い皮袋」の「皮」は引き伸ばされるのですが、古いがために十分な弾力性がないために、ぶどう酒の膨張に耐え切れず皮袋は裂かれてしまいます。それで、「ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。」それゆえ、「新しいぶどう酒は」必ず「新しい皮袋に入れなければなりません」。新しい皮袋は新しいしいぶどう酒が発酵する間中十分に対応できます。

この「たとえ」はイエス様がまさに新しいぶどう酒となってこの地上に来てくださり「恵みの福音・」神の国」を宣べ伝えられました。その教えと、人の行いによって救われるというユダヤ教の教えは混ざり合ことが不可能だという事を教えています。恵みの福音は人が達成するいかなる宗教とも相いれる事無く、また両立できるものではないという事をはっきりと伝えています。

古いぶどう酒を飲んでから新しいぶどう酒を望まないという39節の「たとえ」は、恵みの福音を退け、自分たちの行いによって義とされるという、古い宗教的価値観にしがみつく者たちの悲劇を伝えています。当時の宗教指導者層の特徴は律法主義で、人の努力によって救いを達成するものでした。それは、恵みと信仰による救いを説く神の真理とは全く混ざり合う事のできないものでした。

イエス様は、そのような人々を、自分たちがこれまで飲んで来た「古いぶどう酒」に満足している人々にたとえています。これらの人々は、「新しい物」すなわち「新しいぶどう酒」を味わおうと願わないのです。イエス様は言われました。

「だれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません」「『古い物は良い』と言う」と。

偽りの宗教は、霊的な味覚を失わせます。人間の作った宗教にどっぷりと浸からせて霊的感覚を麻痺するようにしているのは、サタンの用いる常套手段です。「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです」(Ⅱコリ4:4)と語られている通りです。酒飲みが自分たちの飲み慣れた酒を好むように、人々は自分たちにとって心地良い宗教の伝統に頑なにしがみつき、新しく、新鮮な福音の救いの真理に対して殆どあるいは全く関心を示せないのです。

私たちの住む日本列島の事を考えてみましょう。「古い物が良い」という人々で溢れています。日本の津々浦々には人々が慣れ親しんできた宗教があり、人々はその味に全く慣れ切ってしまって霊的な味覚を失っています!それゆえ、殆どの日本人は聖書が説く唯一無二の福音を望みません。日本人の殆どがサタンによって霊の目が覆われ、霊的闇の中に置かれています。その中から皆さんは選ばれて、唯一無二のキリスト教の福音を信じ受け入れる者とされました。 大きな恵みを感謝しましょう。

もう一つここから教えられることは、新しい聖霊の働きです。新しいぶどう酒は新しい聖霊の働きと解釈できます。

2月に行われた蒙韓日合同聖会から、新城教会には新しい風が吹いてきています。若者たちが用いられるという扉が開かれ始めています。今月から礼拝にもその流れが起こってきています。

このような変化の時、私たちの内側には様々な思いが出てきます。それはしばしば新しいものに対する戸惑いであり否定的な思いであり葛藤です。「古いものの方が良いんじゃないか」と。「新しいものは、味に深みがないではないか。まだまだ熟成が進んおらず、薄っぺらくて飲めたものではない」と。

でも、私たちはそのような先入観から早々に決めつけることなく、新しいものを認め受入れ、余計な雑味や混ざり物が入らないようにじっくり見守り、環境を整え、時間をかけて熟成を待つことが大切ではないかと思います。新しい革袋は新しい世代です。彼らは新しいぶどう酒を受け止め運ぶ器たちです。祈り支えましょう。また、私たちも新しい革袋を受け取ることができるように祈りましょう。

冒頭のみことばに戻ります。

Ⅰコリント人への手紙8章9節

”ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。”

今日はこの個所を中心として、コリント人への手紙第一の8章1-3節から、「クリスチャンの権利」と題し、メッセージさせていただきます。まず、少し長いですが1-13節を読んでみましょう。

1 次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

2 自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。

3 しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

4 さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。

5 というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、

6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。

7 しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。

8 しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。

9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。

10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。

11 つまり、 その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。

12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。

13 ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。

さて、もし皆さんが一生の間、何かを我慢する、諦めなければならないとしたらどうでしょうか。特に、皆さんの大好物な食べ物を一生涯諦めなければならないとしたら、どんな風に感じるでしょうか。今日の聖書箇所の最後13節でパウロは「私は今後いっさい肉を食べません」と宣言しています。

皆さんも、これから肉が食べられない、焼肉、とんかつ、から揚げも、牛丼も、ハンバーグも!一切の肉料理を一生食べられないとしたらどうでしょうか。

 

なぜパウロはそんな大胆な決断をしなければならなかったのか、そのことを考えながらコリント人への手紙第一の8章1-13節の聖書箇所を通して学んでいきたいと思います。

この問題を考える時に、まず当時の食糧事情を踏まえる必要があります。今の時代、私たちはさまざまな種類の肉を安い値段で買うことができます。霜降り和牛とかでなければ、手ごろな値段の肉をいくらでもスーパーで買うことができます。その際に私たちは「この肉は食べてもよいのだろうか?」などと考えることはないでしょう。

一方で仏壇に供えたまんじゅうを「これは仏様にお供えしたまんじゅうです」と言われて出されたら、私たちは食べることにためらいを感じるでしょう。クリスチャンになる前は、気にもしなかったことですが、私たちクリスチャンは、仏壇や神棚への供え物と聞くと強い警戒感を持つでしょう。

パウロの時代のコリントのクリスチャンたちにとって、肉について同様の問題がありました。

当時、肉は一般人にとってめったには食べられない、いわば高級食材でした。そんな時代にあって、肉がたくさん生産されていた場所が一か所ありました。それは「神殿」でした。ギリシャやローマの神殿には神々に捧げるため毎日家畜が運ばれ、屠られ、一部は焼かれて煙として神々にささげられ、また祭司たちにも取り分があったのですが、残った肉は食用として市場に卸されていました。神殿はいわば食肉加工場でもあったのです。市場で売られていた肉は、多くが異教の神々への供え物としてささげられた肉のお下がりだったのです。

コリントの街にはありとあらゆる神々の神殿がありました。特にアフロディテ(ヴィーナス)という愛の女神に捧げられた巨大な神殿がありました。

愛の女神と言っても、神殿には千人を超える神殿娼婦がいたと言われていますので、現代ならば性風俗施設です。他にもギリシャ神話のアポロンや、他にもオリエントの神々がいました。写真は古代コリントのアポロン神殿の遺跡です。さらに、生きた人間、あるいは最近死んだ人間を拝む宗教が当時流行していました。日本にも天皇を現人神と拝んでいた時代がありましたが、当時のコリントのあるアカイア州では、ローマ皇帝を礼拝するための神殿があり皇帝礼拝を維持するために市民に税金が課されていたそうです。そして、皇帝のためにささげられた家畜の肉も市場で売られていました。

また、宗教だけでなくスポーツにも皇帝礼拝がかかわっていました。コリントでは古代オリンピックと並ぶ権威あるスポーツ大会である、イストミア大会が2年に一度開催されていました。このスポーツ大会はローマ皇帝とその家族を讃えるために開催され、そこでも皇帝を礼拝するために動物が屠られ、その肉を食べるための大きな宴会が開催されていました。スポーツ競技と偶像礼拝と大宴会が同時に行われ、大量の肉が振舞われていたのです。現代社会にも通じる悪い文化がコリントにあったのです。

さて、ここであなたが当時のコリントに住むクリスチャンだとして、このような大イベントで催されるご馳走パーティーに招待されたらどうでしょうか?めったにお目にかかれない娯楽とご馳走に溢れた場所です。そこで偶像にささげた肉が出された時、あなたは食べられるでしょうか。

そもそも、クリスチャンは「偶像にささげた肉」を食べてもよいのでしょうか?聖書は何と言っているでしょうか?答えははっきりしています。食べてはいけないのです。

使徒の働き15章28-29節