皆さんの中には、病気が癒やされた人、また経済的に貧しい中から豊かにされた人、結婚したり、子どもが生まれたりと、幸せの絶頂だという人もいるでしょう。しかし、これから先、私たちの身に何が起こるかはだれにもわかりません。信仰生活も、何の悩みもなく恵まれているという方もいらっしゃるでしょう。しかし、もし突然、あなたの心に、東日本大震災のような大きな地震や津波のように問題が押し寄せて来たらどうしますか。そのときこそ、今日の御言葉にあるように、しっかりした土台の上に踏みとどまることが、とても大切なのです。
ローマ人への手紙八章三十五節に、『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。』という御言葉があります。自分に関係ないと思いますか?
当時は、このようなことも実際にあったと思います。しかし現代において、いろいろと問題を抱えておられる方はいるかと思いますが、まったく食べるものがない、着るものがない、常に危険にさらされている、という人は少ないと思うのです。
しかし、確かに皆さんをキリストの愛から引き離すものは、今の時代にもあります。何だろう、と考えたとき、その一つは「お金」です。先週も語られていましたが、お金によって人生を狂わされた人、人生が崩壊してしまった人も数知れずいるわけです。
また、「性的な誘惑」です。日本も世界もそうですが、性的に乱れきっているこの時代において、いつも横風が吹いて、いつも雨が吹いているような誘惑の中にあって、自分自身を正しく保っていくということは、とても大変なことです。
そしてもう一つ、十二月になると、忘年会などの集まりが多くなりますが、「酒」です。今は昔ほど、「上司の俺の酒が飲めないのか!」などと、強要されることは少なくなっているとは思いますが…。
このように、様々な誘惑があります。そのときに、踏みとどまれるかどうかにかかってくるのです。これらの誘惑に対して、どのように立ち向かっていくのか、どのように証していくか、というのが重要であると思うのです。
聖書には、賢い人と愚かな人が、それぞれ家を建てた例え話があります。今日はゆっくり話すことはできませんが、出来上がった建物を見ても、どちらも見た目には違いがなく、素晴らしく見えました。しかし、いったん台風が来て洪水が来たときに、真価が問われたわけです。
岩の上に家を建てた家はびくともしませんでしたが、砂の上に建てた家は、倒れてしまったとあります。ここでも、土台の大切さが語られています。
私たちの信仰生活も、見えるところの豊かさではなく、見えないけれども、しっかりとした土台を据えることが重要なのです。それは、今後の人生に、信仰生活に、大きく影響していくことです。
そのことについて書かれている有名な御言葉があります。
『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(コリント人への手紙第二 四章十八節)
確かに見えるところの豊かさも大事です。クリスマスのお祝いをどうしようか、何を食べようか、どんなパーティーをしようか。また、どこに旅行に行こうか、何を買おうかなど、いろいろな楽しみがあるでしょう。それも人生には必要なことです。
ただ私は、だれかが旅行に行って、「天気も良くて景色がきれいだった」「楽しかった」と言うのを聞いて、それは良かったなぁと思いますが、私も行きたかったなと思うことはなく、「天気がよければ雑草取りに行きたい」などと思ってしまうのです…(笑)。人それぞれに、楽しみが違います。
それぞれが豊かな楽しい生活をするのも必要ですが、クリスチャンの本当の豊かさは、目に見えるものではなく、見えないところにこそあるのだ、ということを、ぜひ皆さんに知っていただきたいのです。御言葉のとおり、見えるものではなく、見えないものこそ価値があります。
そしてさらに、クリスチャンである私たちは、神の所有する教会の一員として、しっかりした土台を据えて、畑の作物として神の恵みによって成長させられる存在となっていかなくてはならないと思うのです。
次に、クリスチャン生活をさらに豊かに成長させるための条件を学んでいきたいと思います。今までこの教会に来られ、信仰を持って洗礼を受けられたかたは何千人といるかと思います。すでに天に凱旋していった方もたくさんいるわけですが、残念ながら途中でつまずいて、いつの間にか教会に来られなくなってしまった、いつのまにか信仰を捨ててしまったという人もおられます。
その方たちのことを考えるとき、問題や誘惑、それぞれ理由は違うと思いますが、先ほどの御言葉にあったように、「あなたをキリストから引き離すもの」があったということです。
現在の建築においては、少しの台風や震度七までの地震がなら大丈夫というほど基礎工事がしっかりとされ、耐震性が強化されいるわけですが、信仰生活においてはどうでしょうか。土台を揺り動かすものが何なのかということを、皆さんはご存じですか? それがはっきりわかっていなければ、対策を施すことも補強することもできません。ただ単に、「強くしたらいいんでしょ」ということになるわけです。
「私たちをキリストから引き離すもの」の一つは、霊的なことです。サタンの策略、サタンが忍び寄ってきているということです。私たちは忘れてはならないです。
ペテロの手紙第一五章八~九節には、『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい』とあります。
サタンのいちばんの標的は、クリスチャンです。クリスチャンに対して、サタンは常に吠えたける獅子のように歩き回って、隙あらば攻撃をし、地獄に引き落とそうとしていることを、皆さんぜひ覚えてください。そのときに必要なことが、今日のテーマである、霊的な土台をしっかり据えることだ、ということです。
農園を始めてから教えられたことがもう一つあります。それは、皆さんも悩まされていることだと思いますが、雑草です。冬の間はまだいいですが、春から夏、秋にも、刈っても刈ってもきりがないほどすくに生えてきます。
ベテルファームでも夏の間は特に、毎週のように草刈りをしていて、草取りも毎日のようにしていたのですが、七カ所を順番に刈っていくと、次に戻ってきたら、刈ったところがまた前と同じぐらいに育っているという状況を見て、「きりがないなぁ」と思うと同時に、「雑草がこれだけ生えてくるということは、収穫も早いってことた」と、ポジティブに考えています。
雑草の中には地下茎で増える雑草があります。これがいちばんタチが悪いのです。根から抜き取ったからもう大丈夫と思っても、実は、土の下で根がつながっていて、一部を切っても根が張り巡らされているので、一本を切ったことによって、ほかのところがさらに成長してしまい、よけいに雑草が増えてくるという状況です。雑草のネットワークがあるのです。

新城教会七十五年の歴史の中で、常に偶像との戦いが繰り広げられてきました。そして特に、一九九二年に直接的にサタンに立ち向かうことを教えられ、とりなしの祈りがなされてきました。私も霊的戦いが始まった頃、いろいろな所にとりなしに行きました。そのときには、「ここは勝利しました」「もうここには悪魔はいません」という状況でしたが、三十年以上たった今でも、ずっと祈り戦い続けています。
その中で教えられたことは、私たちの知らない、目に見えない霊的な部分においても、地下茎の雑草のように、サタンのネットワークが張り巡らされているのだということです。そのことをぜひ心に留め、サタンに隙をうかがわせることなく、戦い続けていただきたいのです。
今世界に目を向けると、様々な場所で戦いがあります。ロシアとウクライナ、イスラエルとガザやイラン、北朝鮮と韓国、そのほかにも様々な国で内紛や暴動、争いがあるのです。これは聖書に書かれているとおりです。
「休戦してます」「平和条約を結びました」と、いったん終結したように見えて、実は戦争はずっと繰り返されているのです。それはなぜかというと、人の心の中にある憎しみ、敵対心、「民族は民族に敵対して」とあるように、それは消えないのです。表面的には「握手しましょう」「条約を結びましょう」と言うけれど、戦争が繰り返されているというのが現状なのです。
同じように、霊的な世界での戦いも、ずっと続いていくのです。イエスさまが来られるまで、霊的戦いが終わることはないのです。ですから、しっかりした土台を据えることと同時に、常にサタンがネットワークを張って戦いを挑んでいる、ということを忘れてはなりません。それに打ち勝つために、常に祈りが必要です。
先日、望先生がSIRで、キリバスという島にとりなしに行かれていました。私はその場所がどこかわからなかったので調べてみたら、太平洋のど真ん中でした。「こんなところの島まで行ったのか」と驚きましたが、ここにも戦争の傷跡が残っていて、昔かかわりがあったことを調査し、そのために祈りのネットワークとして、国のいやしと祝福のためにとりなし祈る。それによって、いやしと解放がなされているということも、皆さんに知っていただきたいと思います。
パウロはピリピ人への手紙三章十二〜十四節で、私の好きな御言葉の一つです。
『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』と語っています。
私たちは、よりしっかりした土台を据え、一人ひとりが信仰を成長させていく必要があります。それは、「あの人より私は劣っている」とか、「私の方が成長している」というような、他の人と比べて上だとか下だとかいうことではなく、個人個人が今立っている信仰から一歩前に進み、ワンランクレベルを上げて、主の働きを前進させていくということです。
最後に、土台について書かれている箇所をいくつかお読みします。
『それは、たとい私がおそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。』(テモテ人への手紙第一 三章十五節)
『あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。』(エペソ人への手紙二章二十~二十二節)
ここでは土台が、単に建物の基礎ではなく、教会そのものでもあり、使徒、預言者、またキリストご自身であると言っています。そしてその上に建てられる宮で私たちがどのように行動すべきかが問われているのです。
日曜日の午後に、今までに何回か行われた「数えてみよ 主の恵み」の集会でも語られていましたが、写真でご覧になったことのある、赤い屋根の教会が建設されたのは一九六〇年です。私はまだ四歳でした。そして、今皆さんが礼拝しているこの会堂が建てられたのは、その二十年後の一九八〇年です。もう四十五年前ですが、皆さんの中で、そのとき、この場所にいたという方は、どのぐらいいますか。手を挙げてください。・・・本当に少ないですね。
その頃の礼拝出席は、百二十~百三十名ほどだったと思います。ですから、バルコニーはほとんど人がいなくて、一階も閑散としていました。しかし、会堂ができたことによって、多くの人が救われて現在に至っています。
いつの時代にも世代交代はありますが、この教会は今、大きく変わろうとしています。若い人たちがとても頑張っています。最近は、若者が司会をし、賛美をリードし、新しい賛美も作られています。今日の私たちのように、年寄りが司会し、賛美を導き、メッセージするというのもだんだんと少なくなっていくと思いますが、年寄りはもう必要ないというわけではありません。どの年代の一人ひとりに、その時その時の役割があります。
また、五年後、十年後、二十年後、新城教会がどうあるべきか、どうなったらさらに成長していくかということを、全世代の人がビジョンを持って、祈り進んでいく必要があると思うのです。
一九八〇年にこの会堂を建てるときも、皆が大きなビジョンを掲げ、共に祈り、共に捧げたことによって建て上げられ、献堂されました。だから今こうして皆さんが、恵みの中で礼拝が捧げられるということです。
これから後の人たちのためにも、さらにこの教会が成長し、主の御業を現すことができるように、共に祈っていきたいと思います。