キリストにあって揺るがない土台を据える!

2025年11月30日(日)新城教会牧師 岡本信弘

コリント人への手紙第一 3章10節〜11節

”与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについては、それぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。”

ハレルヤ! 主の御名を心から賛美いたします。
久しぶりに聖歌・賛美歌のプレイズタイムでした。何十年も前にタイムスリップしたような感じがします。その時代を知っておられる方たちは、懐かしいと思いながら歌われたことでしょう。最近の方々には、初めて聞く歌もあったのではないかと思います。
私も昔は賛美リードをさせていただいたこともありますが、今はもうお呼びがかかりません(笑)。今日は、上條先生がリードをしてくださいました。本当に素晴らしい歌声でした。それぞれに賜物がありますね。共に恵みを受けることができたことを、心から感謝いたします。

明日から十二月に入ります。十二月は、クリスマスでイエス・キリストの誕生を祝う月です。同時に、絶好の伝道のチャンスでもあります。伝道は、きっかけがないと唐突にはなかなかできません。このクリスマスには、コンサートやいろいろな集会が計画されています。絶好の伝道のチャンスだと思いますので、この機会にぜひ、教会にどなたかを誘い、キリストの愛や素晴らしさを伝えるときとしていただきたいと思います。
私は、農園の働きを始めて、ハーブ組合に入ることになり、毎週話し合いがあったり、時には食事会があったりして出掛けることが多くなりました。しかし、そこで出会うのはクリスチャンではない人ばかりですから、名刺交換してあいさつをする際、私は会社経営をしていると同時に、教会の牧師であると話します。
そうすると、「え?牧師さんなんですか」と言われ、様々な質問をされます。そのように、相手から聞かれるときが伝道の絶好のチャンスです。この機を逃さず、教会のこと、イエスさまのことを話します。このような機会があるということは、本当に恵みだと喜んでいます。皆さんもぜひ機会をとらえて伝道していきましょう。

さて、今日は、『キリストにあって揺るがない土台を据える』と題して、クリスチャン人生において、成長に必要なのは何かということについて、コリント人へパウロが送った手紙から学んでいきたいと思います。

コリントの教会は、パウロが立ち上げ、その後、アポロやペテロが引き継ぎ、成長していった教会の一つです。しかし、教会に様々な問題が起こってきました。それを聞いたパウロが書き送った手紙が、『コリント人への手紙』です。
『コリント人への手紙第一』には、クリスチャン人生・生活に密着した問題が取り上げられているように思われます。全部で十六章あるうち、一~四章は、分裂や争いについて書かれており、四~七章では、性的な問題について警鐘を鳴らしています。八~十章では、食べ物など、偶像にささげたものについて語られ、十一~十四章には、集会の意味や礼拝のあり方などが書かれています。そして十五章には、キリストの復活の希望が、十六章には、最後のあいさつ、というように全体がまとめられています。
この中で語られていることは、日々の生活や信仰生活において最も重要なことは、イエス・キリストが土台でなければならない、そしてその上に積み上げられていかなければならない、ということです。
今日は一章から四章までの、分裂や争いから見える信仰生活における問題点を通して、どのように信仰をもって生きるのか、土台の必要性について、学んでいきたいと思います。

一章に、一つ目の問題点がはっきり示されています。一章十一〜十二節 をお読みします。『実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。』

一章の初めで、パウロは、コリントの人々が成長し、神を崇めて礼拝していることに対して称賛を送っていますが、すぐに、自分が開拓した教会の人々に対して、少し失望している、残念だと思っている様子がうかがえます。
一章で語ったことを、あえて三章四節で、もう一度語っています。
『ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は「私はアポロにつく」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。』と、同じ神様を信じている者たちが、パウロとかアポロとかキリストとかと言って、派閥(組織内における利害で結びついた人々によって形成される集団)争いのような状態になっていることに、苦言を呈しています。「神であるイエス・キリストを、自分たち人間と同列に置くなど、あり得ないことだ。そんな幼子のようなことを言ってどうするのだ」とでも言っているようです。全ての主導権は、神の手の中にあり、私たちクリスチャンは、パウロやアポロと同様に、主人である神のしもべの一人にすぎません。

そして三章五~七節にはこう書かれています。
『アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。』

パウロはここで、信仰の成長を植物にたとえています。以前の私は、植物にはまったく関心のない者でしたが、農園にかかわるようになって、こういった箇所に特に目が留まるようになりました。
続けて、三章九~十一節にはこんなことが書かれています。
『私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについては、それぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。』

これは、目に見えている建物のことだけでなく、「あなたがたは神の畑、神の建物です」と言っているように、私たち自身のことでもある、と語っています。これは、個人も教会も神の所有物であり、パウロのものでもアポロのものでもなく、神のものだということを、パウロはコリントの人たちにはっきりと告げたと言えるのではないでしょうか。
また、彼は自身が賢い建築家のように土台を据えたと言っていますが、自分を誇っているわけではありません。その言葉の前には、『与えられた神の恵みによって』と、注釈が付けられています。つまり、自分が何かをしたということではなく、土台を据えることができたのは、ただ神の恵みを受けたからだ、神に頼ることによって知恵や力が与えられ、賢い建築家として教会の土台を据えることができた、と言っているのです。そして、建物を建てるには、その土台が大切だと教えています。それは、建物だけに限らず、植物を育てること、信仰生活を建て上げていくことにも共通して言えることです。揺るがない土台を据えることが、最も重要であるということです。

住まいを建てた経験のある方は多くいらっしゃると思いますが、家を建てるとき、設計士が施主さんの希望を聞きながら設計し、それを見て工務店や建設会社が家を建てます。私も三十年ほど前に家を建てたのですが、間取りを考えるのに、かなり時間をかけたように思います。リビングの広さをどのぐらいにするか、子ども部屋をどうするか、キッチンや水回りはどうしたら使いやすいかなど、自分でも図面を書いた覚えがあります。
しかし、肝心の土台については、あまり関心がありませんでした。間取りはもちろん大切ですが、実は、家を建てるときにいちばん重要なのは、土台の部分、基礎工事の部分なのです。地震で倒壊するのは、土台がしっかりしていないことが、一つの大きな原因であるということもよく聞きます。それくらい、土台が堅固であることは大切なのです。

また、プレイズの新しい働きのハーブ農園「ベテルファーム」をやり始めて知ったことですが、ハーブに限らず植物を育てるのに必要なのは、日光や水、肥料です。種をまき、苗を育て、水を与え肥やしを与え、日の光の中でだんだん成長していって、花を咲かせたり、多くの実をならせたりするわけです。

今、ベテルファームには、それぞれ何百メートルか離れていますが、畑が七カ所あります。今年、同じ時期に三つの畑にローズマリーを植えました。

【ローズマリーの畑の写真】

これは、種を蒔いたローズマリーが十センチぐらい成長したものを、六月か七月の初めの頃に何百本か植えたのが成長している様子です。

見ていただくとわかるように、同時期に植えて、同じ肥料、同じ手入れをして育てたにもかかわらず、一方は五十センチぐらい伸びているのに、もう一方では二十センチぐらいしか伸びていません。環境は一緒なのになぜそうなるのか、何が違うのか、と考えたとき思い当たったのは「土」なのです。家庭菜園をしている方はご存じだと思いますが、土がいちばん大事たったのです。そのことを、植物を育ててみて初めて知りました。農業に携わるようになって、ほかにもいろいろなことを学ぶことができていて、感謝しています。
この、植物の成長を見ながら、私たち人間ができることは、ほんの一部なのだと思わされました。パウロが『私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです』と言っているように、確かに私たちが植えて、世話もしますが、それを成長させてくださるのは、神様なのです。神様がいのちの所有権を握っておられ、畑の作物もその神様によって成長し、実がもたらされるのです。ベテルファームも、教会の隣にあるヘブンズファームもそうですが、本当の所有者は人ではなく、神ご自身だということを、あらためて教えられています。

さて、クリスチャン生活についてもう少し考えてみたいのですが、土台については、コロサイ人への手紙一章二十三節にも書かれています。
『ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。』

今日は、「キリストにあって揺るがない土台を据える!」というテーマを掲げましたが、このところには、クリスチャンとして信仰を建て上げていくためには、神であるイエス・キリストという土台の上に自分自身を堅く建て上げ、さらに踏みとどまることが重要だと書かれているのです。
信仰生活を何十年も送ってこられた方がいらっしゃると思いますが、「私の土台は大丈夫です。びくともしません。その上に、私は堅く立っています」と言い切れる人は少ないのではないかと思います。そして、どれだけ頑丈な土台を据えることができたかは、問題にぶち当たったときに発揮されることであって、普段の生活ではなかなか実感できないのではないでしょうか。

ここに書かれている「踏みとどまる」という言葉の意味は、何となくわかりますよね。相撲で土俵際に押し込まれるとか、崖っぷちに追い込まれ、あと一歩で転落してしまうようなときに、踏ん張って、そこにとどまるということだと思うのです。
皆さんが人生を振り返るとき、病気や経済的な困窮、家庭内のいざこざや人間関係等々、様々な困難を経験されてこられたと思います。私自身はクリスチャンホームで、大きな試練に遭うことなく、温室で育ってきたような者なので、踏みとどまるという大きな経験はあまりしていません。
先週、順先生が「三年前に、家内を亡くした」と言われたのを聞きながら、そのときの順先生の姿を思い出しました。「こんな順先生、見たことない。このまま潰れてしまうのではないか」と思うくらい落ち込んでおられ、もう立ち上がれないのではないかと思いました。しかし、順先生は踏みとどまられ、以前にも増して、パワフルに素晴らしい働きをされています。