あなたを通して現われる神の力 ~御霊の現れ~

「見分ける力」が必要になってきます。そして聖書を見ると、そのために必要な基準が書かれています。これは聖書の教え、また、長年のキリスト教の伝統の中で培われているものがあります。それをリストでご覧いただきたいと思います。

一.イエス・キリストに対する証し(キリスト論)
•基準:その賜物を通して、どのようなメッセージや行いが現わされ、周りに伝えられているか。それがイエス・キリストが主であること、神の子であること、そして十字架と復活による救いを信じるという信仰に立っているか。
•聖書的根拠:「神の霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』とは言わず、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことはできません」(第一コリント 十二章三節)。また、「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊はすべて、神から出たものです」(第一ヨハネ 四章二節)。

二.御霊の実を結んでいるか(愛と目的)
•基準:その賜物の使用が、愛という最大の賜物と結びついているか。また、その結果として、聖霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、忠実、柔和、自制」がもたらされているか(ガラテヤ人への手紙 五章二十二節~二十三節)。
御霊の実は聖霊の現われが用いられた結果として結ばれる実です。九つ書かれていますが原語を見ると単数形であり、九つだけれど一つの実として描かれているというのです。ブドウのイメージのように、ブドウの実は実っていく時に一つずつ熟すのではなく、房全体がだんだん成熟して美味しい実になるということです。聖霊の現われの結果として、こういった御霊の実のそれぞれの要素を身に着けるということです。
聖書の中では「三」がある意味で「完全な実り」とか充実を暗示する数字として用いられるそうです。三位一体の三とか、その三倍なので、より強調する意味があるという説がある、そういう数字です。三の三倍だということ、さらに神さまから与えられた数字だと捉える見方もあるようです。これは余談でございます。
そして、「御霊の実」の対極にある実と言いますか、「肉の行い」と聖書に書かれているものが、御霊の実の御言葉の前、ガラテヤ人への手紙五章十九節から二十一節に書かれています。「肉の行い」もリストでご覧ください。これは四つの分類をすることができます。

「肉の行い」のリスト
一.性的不道徳(自己の欲望の逸脱)
不品行(ポルネイア)・汚れ・好色
二.宗教的な罪(神からの逸脱)
偶像礼拝・魔術
三.社会的対立と人間関係の破綻(他者との不和)
敵意・争い・そねみ・憤り・党派心・分裂・分派・ねたみ(嫉妬)
四.節度の欠如(自己制御の破綻)
酩酊・遊興(どんちゃん騒ぎ)

私たちは、聖霊の導きに従って、これらの肉の行いを退け、御霊の実を結ぶようにと、神さまによって召されています。「御霊の実」と「肉の行い」。これは前回のメッセージの復習になりますが、霊の現われは「御霊の実」を結んでいるかどうかで見分けることができる。第一コリント人への手紙の十二章七節、今回テーマとして挙げさせていただいた、最初の御言葉です。

「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」

こう書かれているので、「皆の益となるために」、つまり皆のためになる自己犠牲が、そこに伴うものなのです。これが重要です。自己満足とか、自己顕示とか、あるいは金銭的な利益とか、あるいは人を支配するためとか、そういうものであってはいけません。そこには謙遜が伴い、教会を築き上げることを目的としているか。これが重要だということです。
話を元に戻したいと思います。「見分ける力」のために必要な基準

三.聖書の教えとの一致(御言葉との調和)
•基準:その賜物を通して示される教えや啓示が、神の言葉である聖書と矛盾していないか。聖書に反する教えや行動を伴う場合は、神からのものではありません。
•識別力:特に預言や教えなどの賜物においては、「霊を見分ける力」が重要になりますが、これは御言葉を通して真実を見抜く力です。ヘブル人への手紙 五章十四節

「固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」
「硬い食べ物」と書かれているのは、聖書の御言葉を意味します。クリスチャンとして成熟していることは、御言葉を正しく理解し、実践することができているかどうかにあると思います。聖霊の現われが悪魔の騙し事によってねじ曲げられることなく正しく運用されるため、私たちは御言葉によって試され、サポートされていくことが絶対に欠かすことができないわけです。
私たちは教会で毎週、御言葉を聞き、自分でも御言葉に親しみ、そこに宝物のように隠されている神さまの教えを心に植え付けます。私たちの知恵も知識も、また経験、性格、置かれた環境、生きていく術、それら全てにおいて御言葉を光とし、御言葉に頼って生きる。これが、聖霊によって生きることに繋がっていきます。その時に、聖霊の素晴らしい力が私たちとともに働かれることを実感できる。現実のものとして受け取ることができる。そういうものであると信じます。先週もここで上條先生がお話されていましたように、ご自分のクリスチャン人生が豊かに祝福され、教会生活がさらに祝福されるように、大人の信仰者となるように、御言葉を学び続けていきたいと思います。御言葉によって、私たちは受けた救いをより確かなものとすることができるし、多くの人に恵みを分け与えることができるようになるまで、霊的な成長を遂げることができます。

そして最後、四番目の見分ける基準、それは「秩序と品位」
• 霊的な現われが混乱や無秩序ではなく、品位と秩序を持って実践されているかどうか。第一コリント人への手紙 十四章三十三節に、「神は無秩序の神ではなく平和の神だからです。」と書かれています。

神さまの霊である聖霊さまが私たちの中に働かれる時、そこには謙遜があり、秩序があり、それを用いる人には、神さまにある品位があることが問われていくわけです。
聖霊の現われが神さまから来ているかどうかを見分ける際、この四つです。 一. イエスさまを証ししているか。 二. 愛を伴い、全体を益として「御霊の実」が結ばれているか。 三. 聖書の教えに準じているか。 四. そして、秩序と品位がそこに備わっているか。こういった基準によって吟味されるんです。聖書はこれらの賜物が、私たちクリスチャン一人ひとりが互いに仕え合い、教会を建て上げていくために与えられると述べています。そのような聖霊の現われを求めなさいと、私たち一人ひとりに勧めています。

それを踏まえた上で、その先に、聖書は「愛の章」と呼ばれる有名な第一コリント人への手紙 十三章に続いていくんです。十二章には全体に聖霊の現われについて書かれていて、十三章に繋がっていくわけですが、十二章最後の三十一節にはこう書いてあります。

「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。」

と十二章が閉じられているわけなのですが、続く十三章は一節から十三節まで、聖霊の現われだけでは充分ではないと、これまでのこの話を振り出しに戻すようなことから始まっていくんです。それらは「愛」によってまとめられることで初めて、本来の目的を満たすことができるということです。

ここからが、今日のメッセージの最も重要なところです。第一コリント人への手紙 十三章一節と二節をお読みします。
「一 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。二 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」

このように書き始められています。ここでは、全ての聖霊の現われが愛によって生み出されないのなら無意味であり、そんなものは意味がないとバッサリ言うわけです。この愛こそが、この全ての賜物に先立ち、永遠へと私たちを導く究極の道であると語られるわけです。

聖書には、究極の神の愛として、ギリシャ語で「アガペー」という言葉が用いられています。アガペーはどういった愛かというと、無条件の愛、一方的に与える愛などと言われたりします。ある人が、「…でも」の愛というふうに言いました。「…にも関わらずの愛」と言います。対して人間の愛は、「…だから」の愛というふうに表現します。
わかりやすく言うと、この「だから」の愛は、「あの人は優しい、親切、容姿が美しい、私の肉親だ、だから私は愛します」、そういう愛だというのです。
この愛は、「私がこれこれしたら報いてくれるはずだ」「愛してあげたら自分に良いお返しがある」、そういう期待感が心のどこかにある、自分が得をする愛だと言うわけです。しかし、アガペー、「…でも」の愛というのは、「この人は自分にこんな悪をした。性格も合わない。でもこの人を愛します」、というような自分にとってメリットはない「でも愛する」。神さまの愛というのは、「でも」の愛というわけです。
私たちが神さまの前でどんな状態であっても、神さまはあなたを愛している、愛を表してくださる。そういう愛が聖書の言う神の愛、アガペーの愛というわけです。この方をもし今日心にお迎えすることができたら、どんなときにも、私たちがそうと気づかない時でも、いつも共におられ、人生を支え、助けてくださる愛。これが神の愛、アガペーの愛であります。

生まれたばかりの赤ちゃんというのは、お母さんが注ぐ愛に対して何かを返すということはできない。もう一心に愛を受けるだけです。同じように、神さまは私たちに対してまず愛を注いでくださったと聖書は教えています。教会に来ると十字架が立っています。この十字架は、イエスさまが私たちを愛された愛の象徴です。今日は時間の都合で詳しく学ぶことができないのですが、神様が私たちを愛してくださったその愛は、この十字架の上で現わされました。
十字架の上で私たちが犯したその罪の贖いの代価として、神の独り子が死んでくださった。その時に現わされた愛こそが、私たちを救い、それだけじゃなく私たちの愛の源になっているのです。イエスさまを信じると、そのことを私たちは知ることができます。

人間の愛というのは限界がある。でも神さまが愛を与えてくださる。ちょうど、蛇口があっても水道管に繋がっていなかったら、ひねっても何も出てこないです。愛の源である神さまに「ガチャン」と結びつくと、蛇口から水が勢いよく出るように、私たちから愛が溢れ流れていくようになり、周りの人たちにも伝わっていくようになっていくわけです。
神さまを私たちが愛するということは、神さまがまず私たちを愛してくださり、救われた私たちが教会の中で互いに愛し合う歩みをして、そのような姿を世の中に教会を通して流していく。この愛が私たちに備えられていったら、本当に素晴らしいです。
私たちはそんなに立派なものではありません。私が一番そうです。つまずきやすいですし、失敗しやすいですし、時々うまくいかないようなこともあると思います。しかし、教会にいる私たちそれぞれが、弱さの中にありながらなおも愛し合っていく。神さまの無条件の愛を知って、愛の中で歩みをしていく。そして、神さまの愛が世の中に流れていくのです。

皆さんに伺いたいと思います。教会は好きですか。教会に集まることは好きでしょうか。なぜ毎週皆さんは、貴重な時間を割いてせっせと教会に来るのでしょうか。教会で過ごす時間が楽しいからであります。神さまに賛美を捧げたり、お祈りを捧げたり、御言葉に耳を傾けたりということが、私たちの心を潤わせ、励まし、あるいは癒される。そして、一週間の第一歩を踏み出す元気をもらえる。だから教会に来ているのではないでしょうか。教会の中には聖霊の現れが、聖霊の働きがあります。神さまを信じない過去の生活では味わうことのできなかった愛と力が注がれている。だから、ここでしか味わえないものがあるから、私たちは教会に集うわけです。その味を知ってしまったら、私たちは他の日曜日の過ごし方を考えることができなくなるのです。教会にいるのが自分にとって楽しい。教会はそういうところです。